夜の香り
「カントスさん! できましたよ!」
マリアの声に起こされ、カントスは目を覚ます。普段なら、カントスの方が早起きなのだが、今日は違うらしかった。カントスはちらりと時計に目をやって、時刻を確認する。どうやら、カントスが寝すぎたわけではないようだ。マリアがよほどの早起きをしたか、あるいは……。
カントスは眠い目をこすりながら、そっと扉を開ける。そこには目の下にクマをつくったマリアが立っていた。徹夜か。カントスは、珍しいこともあるものだ、とマリアを見て思う。
「おはよう、ミス・マリア」
「おはようございます! カントスさん!」
普段であれば、よほどのことがない限り、寝ている人間を起こすなど考えられない。カントスはよほど、マリアにとって良いことがあったのだろう、と考える。
まだ起き抜けで、頭も回り切っていないカントス。いつものおしゃべりを封印して、目の前で珍しく興奮が抑えられていない様子のマリアをただ見つめるだけだ。
「カントスさん! これです! ぜひ、フタを開けてみてください!」
ほとんど無理やり手を引っ張られ、渡された瓶に視線を落とす。目の前には、キラキラとした瞳で、そわそわと落ち着かない様子のマリアが立っている。カントスはそっとフタを開けた。
レモンの爽やかな香りが、軽やかに鼻を抜けていく。カントスは思わず目を見開いた。夜の香りだと思っていたから、てっきり、もっと落ち着いた香りだと思っていた。目覚ましにはちょうど良い。レモンの香りにまとわれた甘さは、洋ナシだろうか。しつこさはなく、サラリとしたその香りは、レモンとの相性も良い。
甘さがだんだんと濃厚に、そして華やかになっていく。なるほど……。これが、ナイトクイーンか。さすがは、『夜の女王』の名を冠するだけのことはある。派手ではないが、しっかりと香りがたっており、上品で、気持ちを和らげる。ローズウッドのウッディな香りも相まって、その香りに深みが増している。母の子守歌に包まれているような、強烈な癒し。また、眠ってしまいそうだな。カントスはうっとりと目を閉じる。
最後にムスクの重く、神秘的な香りがあたりを包む。心の奥深くにまで静寂が届く。穏やかで、静かな、祈りのような時間。フランキンセンスの香りが、さらに神聖さを加えている。どこかすっきりとした香りが、次の日の朝に残っているのだろうな、と考えると気持ちも良い。
「さすが……ミス・マリア……」
カントスは、あまりにもうまく言葉が紡げない自分に驚く。どんな言葉で賞賛しても足りない。ただ、握りしめた瓶を落としてしまわぬよう、フタを閉めて、握りなおす。
「喜んで、いただけましたか?」
緊張の面持ちでマリアは、カントスを見つめた。
ふわり。マリアの体が後方へと倒れる。カントスは慌ててその華奢な体に手を伸ばし、なんとか手を引っ張って止める。
「ミス・マリア!」
マリアはスースーと寝息を立てていた。カントスに香りを渡せたことで安心したようだ。気が抜けたのか、徹夜した代償か。マリアはしばらく起きる様子もない。カントスは、その幼い寝顔につい笑みをこぼす。
「まったく……。本当に大した調香師だ!」
はっはっは、と声を上げて笑うと、腕の中のマリアも何やらむにゃむにゃと柔らかな表情を浮かべた。
パルフ・メリエが定休日だったことは、幸いだった。カントスは店番など出来るはずもない。マリアをベッドにおろし、自らは帰り支度を始める。まだしばらくはこの森にいたい、という気持ちはあるが、それをずるずると引き延ばしては余計帰りにくくなるというものだ。さすがに北の教会の管理をいつまでも、近くに住む村人に任せているわけにもいかない。
「ここには、キャンバスもないしな」
カントスは一人呟いて、帰りたくない理由を、帰らなければいけない理由に上書きしていく。絵の具もない。北の植物もない。仕事も、ここにはあるはずがない。一つずつそうして、ここにないものを思い浮かべる。
「さて」
カントスは部屋を一通り片付け、軽く掃除をしたところで息を吐いた。帰り支度は出来たが、黙って帰るわけにはいかない。マリアには礼を言わねば気が済まない。起こすのもかわいそうなので、しばらくは寝かせておこう。その間に、何か……と考えて、ふとリビングの上に置かれた便せんに目が留まった。
「そうだ! 教授に手紙を書かねばならなかったな」
マリアに紹介しよう、と約束したことを思い出し、さっそくペンを取る。彼女の住所が書かれたメモをカバンから引っ張りだすと、カントスは便せんにペンを走らせた。
マリアが目を覚ましたのは、正午の鐘が鳴りやんだ頃だった。マリアはしまった、と慌てて身支度を済ませる。絵と、香りを作り終わったら帰る。そう言っていたカントスの言葉に、マリアは慌てて夜の香りを完成させたのだ。夜中に調香の部屋にこもって、ようやくできたナイトクイーンの香りを混ぜ、その分量を最後まで調整し、完成させた……はず。途中から記憶は曖昧だが、とにかく完成して、カントスに渡せたところまでは覚えている。その後、彼はなんと言ったか。いや、あれはもしかして、夢?
マリアは、バタバタと自分の部屋を出て顔を洗い、カントスの部屋をノックした。返事はない。リビングにも彼の姿は見えず、一階へと下りる。やはり、そこにもカントスの姿はなかった。
「帰ってしまったのかしら……」
マリアは、何のお礼も出来ていないのに、と目を伏せた。
カランカラン、と来客を告げる店の鐘の音に、マリアはパッと顔を上げる。
「おや。おはよう、ミス・マリア!」
この二週間で聞きなれた声。美しく輝く琥珀色の瞳。柔らかにうねるくせ毛。マリアはその姿にほっと胸をなでおろした。
「カントスさん!」
「おや、ずいぶんと手厚い歓迎だね! どうしたんだい?」
マリアの微笑みに、カントスも微笑み返した。
いなくなってしまった、と思っていたが、どうやら少し先の村まで手紙を出しに行っていたらしい。
「そこにまだ、荷物が置いてあっただろう?」
とカントスが指さしたリビングの奥には、確かにまとめられた荷物が置かれていた。マリアは自らの早とちりに顔を赤く染める。
「すみません……。寝ぼけていて……てっきり、いなくなってしまったのかと」
「確かに、帰るつもりではあったがね。礼もなしには出ていけないさ」
クスクスと肩を揺らして、カントスはリビングに腰かけた。
「さぁ。ランチにしよう。村でおいしいパイをいただいてきてね!」
マリアとカントスは、もらってきたミートパイを口に運びながら、最後のランチを楽しんでいた。特にカントスは、マリアの夜の香りを絶賛し、どれほど言葉を尽くしても語り切れない、とまで評した。マリアも、カントスへのお礼を述べ、たった二週間だが、濃い思い出が出来たと喜んだ。
カントスに渡した瓶に、マリアが紺色のリボンを結びつけると、カントスはそれを愛おしそうに見つめた。銀色のスパンコール、星形のガラス玉、美しい刺繍のレース。カントスにとっては、宝物に他ならない。本当に素晴らしい夜の香りだ、と再び微笑んで、カントスは陽の光に瓶を透かす。リボンの紺色が、透明なガラス越しに液体へ映ると、その液体は淡いブルーに輝いた。
「ありがとう、ミス・マリア。とても楽しかったよ! また、会おう!」
カントスが大きく手を振る。マリアも、その背中が見えなくなるまで手を振った。柔らかな風が、森を抜けて、ふわりと甘い香りを連れてくる。
「ナイトクイーンの香りだわ……」
カントスが夜の香りを、再び楽しんでいるのだろう。ナイトクイーンは、数メートル先でも香ることで有名だ。
マリアはその香りをたっぷり吸い込むと、そっと店の扉を閉めた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
20/07/27 ジャンル別月間ランキング 83位をいただきました。
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本当にありがとうございます。
さて、いよいよカントスともお別れし、次回でカントス編はおしまいになります。
カントス編の後もまだまだお話は続きますのでお楽しみいただけましたら幸いです。
そして、マリアの夜の香りについては、活動報告に小話を記載しています。ご興味ありましたらぜひ。
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