海の香り
路面電車に揺られながら、二人はぼんやりと窓の外を眺める景色を見つめていた。マリアの手にはブルンキュラの花束が握られており、その香りはいまや路面電車の車両中に広がっている。乗ってくる人たちがそろってマリアの方を見るので、マリアはいたたまれなかった。
結局、あの後メックが戻ってきたことにより、なんとなく話がそれてしまった。ミュシャはといえば、よほどカントスの人柄にショックを受けたのか、魂が抜けてしまったようにぼんやりとしていた。マリアも、明日以降のことを考えると長居は出来ず、北の教会へ来ないか、というカントスの誘いは断るしかなかった。
その代わり、といってはなんだが、カントスが調香したという美しい精油を一本と、北の国の品々をいくつか購入し、店を後にした。朝ごはんを食べたパン屋によって、焼き菓子を買い、昼過ぎの路面電車に乗る。そして、今に至る、というわけだ。
街の広場の最寄り駅に路面電車が滑りこむ。隣でぼんやりとしていたミュシャは、ようやくそこで我にかえったのか
「ごめん、ぼーっとしてて……」
と慌ててマリアに謝った。マリアも、特に何かを思っていたわけではないので、大丈夫だよ、と首を横に振る。
(そんなに、ショックだったのかしら……)
残念ながら、カントスの絵を見たことがないマリアには分からないが、ミュシャの様子を見るに、ミュシャとしては一定の敬意を払っていたのだろう。もしくは、よほど作風から人柄がかけ離れていたか。
(今度、ミュシャに言って、絵を見せてもらおうかしら)
マリアはちょっとした好奇心をなんとかこらえて、帰り道を歩いた。
「マリア、昨日からありがとう。僕は、今日は帰ることにするよ」
街の広場を通り過ぎ、もう少しで洋裁店、というところでミュシャはそう言った。いつもであれば、せっかくなら洋裁店まで一緒に、と言うところであるが、今日のミュシャは、少し混乱していたのだ。
(まさか、カントスが……あんな人だなんて……)
ミュシャはずっと、そのことばかりを考えていた。
マリアも、そうした方が良いだろう、とうなずいてミュシャに手を振る。
「昨日から、一緒にいてくれてありがとう。ミュシャ、今夜はゆっくり休んで」
マリアは、悲壮感すら漂うミュシャの背にそう声をかけた。ミュシャはゆっくり振り返ると、曖昧に微笑んで見せた。
(あれは、相当落ち込んでるわね……)
マリアは、ミュシャが洋裁店へ入るところまで見送って、自らも店に向かって足を進めるのであった。
パルフ・メリエに戻ったのは夕刻を過ぎたころだった。日照時間が長いせいか、あたりはまだずいぶんと明るく、もうすぐ晩ご飯の時間だということも忘れそうになる。マリアは二階へ上がると、お土産や荷物を下ろして、一息ついた。
「そうだわ。カントスさんの精油……」
マリアはティエンダ商店の紙袋から、小さな瓶を取り出す。淡い緑色の液体がチラリと西日に反射した。
(どんな香りなのかしら……)
液体の色から考えれば、森林を思わせる香りか、はたまたハーブ系の爽やかな香りだろう。しかし、中に乾燥した花が入っていることを考えると、フローラル系かもしれない。
(開ける前からこんなにドキドキするのは、久しぶりだわ……)
さすがは芸術家。見た目の美しさもさることながら、中身を想像させるという発想が素晴らしい。マリアは、勉強になるな、と思わずメモにペンを走らせた。
ゆっくりとフタを開ける。
「これは……」
マリアは、思わず口元に手を当てた。
「海の香りね」
なるほど、とマリアはうなって、たっぷりとその香りを吸い込んだ。
グレープフルーツとライムの混じった、爽やかなシトラスの香り。ジュニパーベリーの苦みが神聖さを引き立てている。爽やかさを邪魔しない、品のある木の香りだ。
時間とともに、フレッシュなグリーン系の香りへ移行する。サイプレスだろうか。シトラスの香りを上手くまとめあげている。爽やかさは失わないまま、落ち着きのある静かな香り。バーチも混ざっているのかもしれない、とマリアは思う。すっと鼻に抜ける芳香が特徴的な植物だ。
最後に残ったフランキンセンス独特のすっきりとスパイシーな香りが、潮の香りを思い出させた。マリアは、目を閉じて、その香りのハーモニーを楽しむ。台所の小窓から吹く風は、まるで夕凪だ。海の穏やかで神聖な雰囲気が、しっかりと感じ取れる。
西日に照らされた瓶の影が机に映る。マリアはなるほど、と感心した。瓶に施された美しい青色の装飾と、緑に着色された中の液体が反射する際に混ざるのだろう。小さな海が現れた。乾燥した花は、さながら魚のよう。金色の装飾は、海に反射する眩い光。
「これは、本当に……芸術ね……」
マリアは目の前に広がるその小さくも、見事なまでの光景に息を飲んだ。
北の国には、海がないと聞く。王国の北側に住むカントスだからこそ、作ることのできた香りだろう。北の国の人が、ティエンダ商店で偶然この精油を手に取る。フタを開けて香るこの独特な香りを、そして、目の前に広がる小さな海を見て、どう感じるのだろう。想像しただけで、鳥肌が立つ。
カントスが、もしも噂に聞くような調香師ではなく、真っ当に依頼を受ける調香師だったとしたら……。その想像力と、繊細でこまやかな気遣いに、どれほどの人が魅了されただろうか。この王国だけにとどまらず、周囲の国、ひいてはそれを超えて声がかかったのではないだろうか。少なくとも、今の自分なんかよりもよっぽど素晴らしい調香師であったことは間違いない。
(北の教会に、ぜひお邪魔したかったわ……)
マリアは後悔の念をおさえきれず、はぁ、とため息をついた。
晩ご飯の支度、洗濯、片付け、明日の仕事の準備。どんな作業をしていても、マリアはカントスの作った精油のことが頭から離れなかった。
「場所をイメージするような、香りなんて……考えたこともなかったわ」
マリアは思わず独り言ちる。今までは、その香りを使ってくれる人のことを考えて調香していたし、それが当たり前だと思っていた。
確かに、木々の香りを多く使ったアロマは、森林にいる気分になるだろう。フルーツから取り出した香りをたくさん使えば、自然と果樹園にいる気分になるかもしれない。だが、それはあくまでも、結果的にそう感じられただけだ。初めから、その場所にいるような気持ちにさせる、という目的で作っているわけではない。
「そういう香りの使い方もあるってことね……」
マリアは、自分だけではきっと、いつまでたってもそういう考えにはならなかっただろう、と考える。それをカントスは、自ら気づいて、実際に調香しているのだ。本当に、その発想力にはかなわない。
「北の教会、かぁ……」
マリアは小さくつぶやいて、窓の外を見つめた。
三日月が、ふんわりと夜空を照らしている。
「カントスさんなら、こういう風景でさえ、香りにしてしまうのかしら……」
マリアは、例えば、とメモにペンを走らせた。夜空に香りがあったとしたら……。マリアは、新しいおもちゃを見つけた子供のように、目を輝かせた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
20/7/18 ジャンル別月間ランキング 66位をいただきました!
また、10,000PVも達成しておりまして、本当に嬉しい限りです! ありがとうございます!
今回は、今までにないタイプの『何かをイメージした香り』が登場しました。
実際、香水の中にはそういうものも結構あります。
今回の海の香りについても、活動報告の中で少し記載していますので、ご興味がありましたら、ぜひそちらもよろしくお願いいたします。
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