ライラック
「うぅ~ん……」
マリアは目の前に咲いた花を見つめてうなり声をあげた。
ログハウスの裏に生えている高木には、白い花が咲き誇っている。つい先日、開花したばかりだ。風が吹くたびに、枝先に穂状についた花が揺れ、周囲はやさしく甘い香りに包まれる。
本来のマリアならこの香りに頬を緩ませるのであるが、この花——ライラックの前では眉間にしわを寄せてしまう。
調香師として、今まで様々な植物から『香り』を取り出してきたマリアであるが、ライラックだけは、毎年何度やっても成功しないのである。つまり、マリアにとっては長年の宿敵といえよう。
(枝から切り落とした時点で、香りが長続きしないのよね……)
植物の中には、花ではなく、葉や樹液から香るものや、養分が行き届かなくなった時点で香りを発さなくなるものもある。
ライラックは後者だった。毎年、花を落とした時点で花自体の香りが消えていく。採取してすぐは気づかないが、一日もすればその香りはほとんど消えてなくなっているのだ。仮に精油を取り出せたとしても、その香りは全く花の香りとは別物になっていることが多い。過去に一度取り出したが、どうにも思っていた香りと違ってがっかりした記憶がある。
マリアは、目の前に咲くライラックを一輪だけプツン、と枝から切り落としてその香りをたっぷりと吸い込んだ。
(おばあちゃん……)
ライラックの香りは、どうにも祖母を思い出してしまう。マリアは過去に思いをはせた。
「マリア、私の一番好きな花の話をしてあげよう」
「おばあちゃんの?」
マリアの祖母、リラはそう言ってマリアを膝の上にのせて、屋上から見える白い花のついた木を指さした。
「あぁ、私の名前の由来さ」
「おばあちゃんの名前?」
「そう、あれはライラックの花といってね。昔、西の国の人がリラと呼んだのさ」
「へぇ……。おばあちゃんの匂いと同じ花ね」
マリアは白い花をじっと見つめた。祖母と同じ香りが風にのってこちらまで届く。
マリアがそういうと、祖母は優しく微笑んで、マリアは鼻が良いね、とマリアの頭をなでた。
「あの花にはね、こんな昔ばなしがある」
祖母はそう言って話し始めた。
昔々。
ある貧しい村に、一人の娘がおりました。娘は大変気立てが良く、村一番の人気者でした。
そんな村にある日、貴族の男がやってきました。
貴族の男は一目で娘を気に入り、娘もその男のことが好きになりました。
貴族の男と娘はすぐに結婚を誓いましたが、貴族の男は街に戻って婚礼の準備をすると言って村を後にしました。娘は村で一人、男の帰りを待ちましたが、男はいつまでたっても戻ってきません。
しばらくして、娘が街へ行ったとき、娘は驚きました。貴族の男が、別の女を隣に連れて歩いているではありませんか。
「私との婚約をお忘れになったのですか」
娘はそう言って貴族の男に声をかけました。隣の女は、娘をにらみつけました。男は明らかに動揺した様子でしたが、しばらくしてこう言いました。
「あんな言葉、嘘に決まっているだろう。みすぼらしい村の女など、この俺が本当に好きになると思うか。さっさと村へ帰るが良い」
娘は悲しくて、泣きながら村へ帰りました。そして、一人、亡くなってしまいました。
葬儀の後、娘の友人が彼女の墓に鮮やかな紫色をしたライラックの花を供えました。
するとどうでしょう、次の日にはその花は真っ白く染まっていたのです。
それはまるで、婚礼の儀式で着る花嫁の衣装のように。
「悲しいお話……」
マリアがそういうと、祖母はマリアの頭をなでて続けた。
「このお話のせいで、ライラックの白は不吉だと言われたりもしたのだけれど、一方で、こんなお話も残ったの。ライラックは純愛の証、美しい思い出の花だとね」
「どうして?」
「裏切られてもなお、男を愛する気持ちが娘にはあったとされたのね」
祖母の話は、幼いマリアには少し難しかったが、祖母がどこか懐かしいことのように語る姿がマリアには新鮮だった。
それから、と祖母は楽しげに続けた。
「ライラックの花弁は普通、四枚なのだけれど、たまに五枚の花弁のものもあるのよ」
「そうなの? クローバーみたいね」
「そうでしょう。だから、花弁が五枚のライラックはラッキーライラックと呼ばれていて、幸運を呼ぶとも言われているのよ」
「へぇ……」
「探しに行きましょうか」
「いいの?」
「えぇ。さ、マリア、支度をしてちょうだい」
「マリアちゃん、いるかい?」
自らの名を呼ぶ声に、マリアはハッと意識を戻す。どうやらずいぶんと昔のことを考えていたようだった。
「はーい」
マリアは慌てて声のする方へと走る。ログハウスの入り口、そこに立っていたのはシャルルだった。
「やっぱり森にいた」
にこりと優しく微笑むシャルルに、マリアは慌てて頭を下げる。
「すみません、シャルルさん。お待たせしてしまって」
「今来たばかりだよ。それより、今日はなんだか……」
シャルルはマリアの髪をそっとすくって、それから自らの顔に近づける。
「ロマンチックな香りだね」
長いまつげから覗く淡い青色が、マリアの視線とぶつかる。あまりに端正な顔でそう言われると、マリアといえど意識してしまうものだ。マリアはパッと顔を赤らめてから、ぶんぶんと首を振った。
「ライラックです! 裏に咲いてて……」
マリアがそう言うと、シャルルはクスクスと笑った。
「あぁ、僕もあの花は好きだな。子供のころ、よく五枚の花弁を探したものだ」
「シャルルさんも知ってるんですか」
「母から教わってね。姉にプレゼントしたこともあったな」
「素敵ですね」
マリアはなんとか世間話で心を落ち着け、店の扉を開いてシャルルを招き入れた。
「今日はどういったご用件で?」
「僕の部下がね、最近カモミールティーにはまっていると言うんで、僕も買いに来たんだよ。洋裁店でもよかったんだけど、ちょうど国境の門に用事があってね。せっかくならマリアちゃんのお店に寄ろうかと思ってさ」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
部下というのはケイのことだろうか。ケイとシャルルがそういった会話をすることに少し驚いたが、同じ騎士団に所属しているのだし、当然のことなのかもしれない。マリアはそれ以上詮索せず、ジンジャーカモミールティーの小瓶をシャルルへ手渡した。
「こちらです。五日分なんですけど、いかがされますか」
「そうだね。じゃぁ、二ついただこうかな」
会計を済ませ、マリアが瓶を包装していると、店内を見ていたシャルルがこちらをじっと見つめていることに気づいた。
「どうかされました?」
「いや、ライラックの香りはこの店には置いてないんだな、と思ってさ」
「う……」
流石は若くして騎士団長になるだけの男。痛いところをついてくる、とマリアは思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「実は……」
マリアが、ライラックの精油について話すと、シャルルは興味深そうに言った。
「へぇ、マリアちゃんでも香りが作れないなんて」
「祖母は作れたみたいなんですが……」
「レシピか何か、残っているのかい?」
「いえ、祖母の香りが、いつもライラックの香りだったんです。だから、きっと精油や香油にして使っていたんだと思うんですけど……。祖母にとっても特別な香りだったのか、ライラックだけは、精製方法を書いたものがなくて」
シャルルは、マリアの困った顔を見て、少し考えたのちにこう言った。
「僕も花にはあまり詳しくなくてね。王立図書館にでもいけば、何かあるかもしれないけど」
「王立図書館……」
マリアはすっかり自分の頭から消え去っていたその名前に、パっと顔をほころばせた。
「そうですね!行ってみます!」
ありがとうございます、と頭を下げれば、シャルルは笑ってうなずいた。
「僕も、楽しみにしてるよ」
マリアから荷物を受け取ったシャルルは、それじゃぁ、と店を出た。
店を出たシャルルの背中に手を振って、マリアも王立図書館へと向かう支度を始めるのだった。
20/5/13 誤記修正しました。(一行目から花の色を間違えており、大変申し訳ありません……)
20/6/6 改行、段落を修正しました。
20/6/21 段落を修正しました。




