素敵な運命
エトワールとの会食を楽しく終えたディアーナは、マリアのもとへと一目散へ走っていった。王城の中では走ってはいけない、と子供のころから言われていたが、誰かにこの気持ちを今すぐに伝えたかった。友達がいたら、こんな感じなのだろうか。ディアーナはたしなめるメイドたちの声も聞かずに、廊下を駆け抜けていく。
ディアーナが部屋の扉を開けると、分厚い紙の束から視線を上げたマリアがにこやかに微笑んだ。しかし、肩で息をするディアーナの姿に、すぐさまその表情を曇らせる。
「どうなさったんですか」
心配そうに眉をひそめるが、ディアーナはパッと顔を輝かせた。
「私、決めたわ!」
マリアは首をかしげた。
マリアが会食前に焚いたアロマの残り香が、ディアーナを包む。柔らかく落ちついた甘み。ディアーナはその香りをしっかりと堪能してから窓の方へと足を進めた。枠に手をかけ、じっと中庭を見つめる。会食を終え、王城を去るエトワールを見送るためだ。
「私、エトワールと婚約するわ」
ディアーナはしっかりとした口調で、覚悟を決めたようにそう言った。
マリアはあまりにも突然のことに、しばらく沈黙する。エトワールのことを好きなのだろう、とは思っていたものの、こんなすぐに決断できるものなのだろうか。いまだ恋を知らないマリアは驚いた。
「その、良いのですか……? ディアーナ王女」
「えぇ。良いに決まってるわ。婚約はいずれしなければならないことだし……それに、私はやっぱりエトワールのことが……」
好きなの、と消え入りそうな声でそう言ったディアーナは顔を真っ赤に染めて、マリアから視線を外した。
ディアーナは中庭に現れたシャルルとエトワールの姿に、あ、と声を上げる。不意にエトワールがディアーナの部屋の方へと振り返る。そして、ディアーナの姿が見えたのか、にこやかに手を振った。ディアーナもそれに答えるように、小さく手を振る。その姿がかわいらしい。マリアも、エトワールの隣にいたシャルルににこりと微笑まれた気がして、小さく会釈した。
「はぁ……」
エトワールが去った後、ディアーナはうっとりと王城の外を見つめる。
「私、こんなに胸がときめいたのは初めて……」
なんともかわいらしいセリフである。
「以前好きだった方には、ときめかなかったんですか?」
メイドが用意してくれていた紅茶をマリアはカップに注ぐ。ディアーナに手渡すと、ディアーナはそれを受け取って首を振った。
「前はもっと……なんだか、温かい感じだったわ。でも、エトワールのことを考えると、胸が苦しくて、締め付けられるみたいなの」
それだけ聞くと、マリアにとってはあまり良いことのようには思えないが、ディアーナは続ける。
「でも、それが嫌じゃないの。エトワールと一緒にいると、世界が輝いて見えるのよ。嬉しくて、ドキドキして……」
ディアーナはそこまで言うと、大きく息を吸って、ティーカップに口をつけた。ずいぶんとせわしなくしゃべりすぎた、というようにゆっくりと息を吐く。
「私、エトワールとなら、一緒に、良い未来を描くことが出来そうよ」
柔らかく微笑んだディアーナに、マリアはこの国の未来を思い描いた。
それからディアーナは、エトワールの良さを語り、マリアは笑顔でそれを聞いていた。
「そういえば、エトワールが初めての会食を思い出したって言っていたわ」
ふと、思い出したようにディアーナは言葉をこぼす。
「私に一目ぼれした時のことを思い出したそうよ」
それはもはや惚気の域に達していたが、マリアは楽しそうに聞いていた。そんなマリアにディアーナはちらりと視線を向ける。
「……あなたのおかげよ、マリア」
「え?」
ディアーナからの思わぬ言葉にマリアは首をかしげる。
「香りは、記憶に深く結びついている」
あなたが私に教えてくれたことよ、とディアーナは微笑んだ。
「私、初めての会食にはフローラルの香りをつけていたの。エトワールはそれに気づいてくれていたから。そして今日も……」
ディアーナの言葉に、マリアはなるほど、とうなずいた。
マリアが焚いたアロマは、シトラスとフローラルを調香したもの。会食の時間には、トップノートのシトラスが和らぎ、フローラルな香りも十分に感じることが出来たはずだ。現に、マリアがシャルルに出会ったときには、すでにマリアからもフローラルな香りが主立っていた。初めに会ったときにフローラル系の香りをつけていたのだとしたら、エトワールがそれを思い出すのも納得できる。
「素敵な偶然ですね」
マリアが謙遜してそう言うと、ディアーナは少し顔をしかめた。
「そういうのを、運命と呼ぶのよ。それにこれは、マリア、あなたが引き寄せてくれた、とっても素敵な運命だわ」
ディアーナは真剣な顔つきで、マリアに向き直った。
「マリア、あなたがいなければ、私は初めての会食で香水をつけなかったわ。いえ、それどころか、婚約準備だってきっとしていなかったわ」
ディアーナは続ける。
「好きでもない人と婚約なんてって思ってたもの。でも、マリアが私の調香師として来てくれたから、私はこんな婚約準備なら悪くないって思えたの。婚約者候補の方たちに会ってみようと思ったのも、あなたが教えてくれた香りが、私を支えてくれたから」
マリアは、ディアーナの言葉をただ静かに聞いていた。
「そうしたら、エトワールに出会えたのよ。マリアのくれた香りのおかげで、彼と自然に話をすることも出来たわ。あの事件のことも……マリアがずっとそばにいてくれたから、私は立ち直ることが出来た」
普段なら、恥ずかしくてこんなことは言えない。しかし、ディアーナはどうしても伝えたかったのだ。どんな自分にもまっすぐに向き合い、そして、そばで優しく支えてくれていたマリアに。感謝の言葉はいくつあっても足りない。ディアーナはそう思う。
「すべて、あなたのおかげよ。あなたは、私の友達以上……家族のような存在だわ」
マリアの頬を優しく涙が伝う。ディアーナの前で泣いたのは、初めてだった。ディアーナは優しく微笑んで、マリアをぎゅっと抱きしめた。柔らかな木々の香りと、優しくもどこか力強い、そんな甘さがマリアを包む。マリアは、自分の務めが終わったのだ、と実感した。
自分に王女様の専属の調香師という大役が務まるのか、不安でいっぱいだった。それも、婚約の準備だなんて。国の未来を背負ってしまったような、そんな気がしていたのだ。初めは緊張の連続だったし、香りの授業を他人にするということも試行錯誤の連続だった。次第にディアーナと打ち解けることが出来て嬉しかったが、それでも、ディアーナを幸せにできているのか、不安に思う日もあったのだ。
家族のような存在。それは、マリアにとって何よりも嬉しい言葉だった。ディアーナが、自分を必要としてくれていた。それだけでマリアには十分だった。自らの仕事が、ほんの少しでもディアーナ王女の救いに、そして、幸せになればそれでいいと思っていたのに。
「……ディアーナ王女、そんなもったいないお言葉、受け取れません……」
マリアがそう言うと、ディアーナはクスクスと笑った。
「ほんとあなたって……私がここまで言ってるんだから、素直に受け取りなさい」
ディアーナの言葉に、マリアは涙を必死に拭って笑顔を浮かべる。
「……それじゃぁ……」
おずおずと頭を下げると、ディアーナは満足そうに微笑んだ。
「はじめから素直に受け取りなさいよ。あなたは自分に誇りを持ちなさい。私の、専属の、調香師なんだから!」
ディアーナがそう言って、ふん、と顔をマリアからそむける。耳まで真っ赤にしたその姿に、マリアはこれ以上ないというほど破顔した。
(ディアーナ王女の専属の調香師になれて良かった……)
マリアは心の底からそう思うのであった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
20/7/2 ジャンル別週間ランキング 45位、月間ランキング 86位をいただきました!
本当に、感謝してもしきれません。いつもありがとうございます。
長かった王城編も、次話でおしまいです。
ぜひ、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
少しでも気に入っていただけましたら、評価(下の☆をぽちっと押してください)・ブクマ・感想等々いただけますと大変励みにます。




