その感情の名は
会食も最終日を迎え、ディアーナは朝からそわそわと落ち着かない様子だった。一昨日の夜、突然シャルルが王城に来てほしい、とパルフ・メリエに現れた時は何事かと思ったが、マリアもディアーナの様子を見て納得した。
「ディアーナ王女、大丈夫ですか?」
マリアの言葉にも、ディアーナは過剰に反応する。
「だ、大丈夫に決まっているわ! し、心配など、無用でしてよ」
しどろもどろな返答に、マリアは全く大丈夫ではなさそうだ、と愛想笑いを浮かべてからアロマを焚く。
今日の香りは、ディアーナが好きだといったシトラス系の香りに、フローラル系のカモミールやジャスミンを調香したものだ。ジャスミンには特に、気持ちをやわらげ、素直な愛情を引き出す効果がある。その効果のほどは定かではないが、お守り程度にはなるだろう、とマリアは会食に合わせてその香りをチョイスした。
(ディアーナ王女がこんなに緊張されるなんて……)
アロマの香りを楽しみながらも、ディアーナは時折窓の外をチラチラと見つめている。会食の相手を待っているようだ。
(ここまで気にされるってことはやっぱり……その方が、好き、ってことよね……)
マリアは口に出さないよう気をつけながら、一人愛おしいような、なんとも言えない気持ちに頬を緩ませた。
マリアの視線に気が付いたのか、ディアーナは
「な、なんですの? 顔が緩んでますわよ!」
と声を上げる。キッとマリアを睨みつけるも、その視線が本気のものではないと知っているので、マリアはすみません、と笑みを浮かべて謝った。形式上だが、ディアーナもあえてそこには触れない。
「あら?」
マリアの声に、ディアーナは窓の外へ目をやった。その瞬間、ディアーナはうっとりとした表情に変わる。庭を歩いているのは、シャルルと先日ディアーナを助けたという騎士団の青年、エトワールだ。マリアは、ディアーナの視線の先を追い、
(てっきり、シャルルさんのことが好きなのだと思っていたけれど……)
と口に手を当てる。
気になっているかもしれない、と先日ディアーナが口にしたお相手は、エトワールだったようだ。あの事件で、エトワールがディアーナを守った、と噂には聞いていたので、マリアはすぐに納得した。シャルルへの想いが完全に断ち切れたわけではないのかもしれないが、今はエトワールに夢中らしい。マリアが解決できなかった恋の悩みは、いつの間にか、ディアーナ自身が解決していたようだった。
「素敵な方ですね」
マリアがそう言うと、ディアーナは少し驚いたようにマリアを見つめる。
「いくらマリアでも……だ、だめよ……。私の……婚約者、なのだから……」
次第に小さくなっていく声に、マリアは思わず微笑んでしまう。ディアーナ王女をかわいらしい、と形容するのは失礼かもしれない。しかし、そう思わずにはいられないのだった。
「お客様がお見えになりました」
ディアーナの部屋がノックされ、メイドの声が聞こえる。会食の時間だ。香りに癒されたのか、落ち着いた様子のディアーナは
「いってきます」
とマリアに小さく手を振った。マリアはにこりと微笑んでその手を小さく振り返した。
「はい。楽しんできてくださいね」
マリアの声に答えるように微笑んだディアーナは、会食を行う部屋へと向かった。
「書庫へ行ってきます。ディアーナ王女がお戻りになる前には、戻りますから」
会食が終わるまで待っていてほしい、とディアーナから頼まれたマリアは、それまでの間を王城にある書庫で過ごそう、と考えた。部屋の外にいた衛兵に一声かけ、マリアは書庫へ向かう。
王城へ出入りすることも多くなったせいだろうか。ディアーナから、一人で王城を見て回ってもいいとの許可を得たマリアは、こうした空き時間は王城の中を散策している。先日、商人のメックと中庭で出会ったのもそのためだ。念のため、衛兵やメイドにはひと声かけているが、城の人たちはすっかりマリアを信頼しており、疑う様子など少しもない。もちろん、マリアはまったく悪だくみには知恵が回らない人間なので、当然と言えば当然なのだが。
マリアは王城の書庫が好きだった。古い本や珍しい本がそろっており、植物の図鑑も多くそろっている。ガーデン・パレスの研究員たちによる論文を読むことが出来たのには驚いた。調香の本が置いてあるのは、祖母か、それとももっと前の調香師のものだろうか。背表紙を眺めているだけでも、マリアにとっては充実した時間であった。
「マリアちゃん」
聞きなれた声に、マリアが振り返る。書庫の入り口に立っていたシャルルがにこりと微笑んだ。今や、命の恩人である。ガーデン・パレスでのお礼も出来ていないのに、命まで救ってもらって、マリアとしてはもうこれ以上ないくらいの恩を感じていた。シャルルはそれを感じ取ってはいるものの、恩を着せたいと思っているわけではないので、出来る限り今まで通りに振舞っている。
「こんにちは、シャルルさん。どうしてここに?」
会食ではなかったのか、とマリアが首をかしげると、シャルルは柔らかな笑みを浮かべた。
「会食はエトワールだけだよ。僕はお邪魔だからね」
「そうでしょうか。シャルルさんがいてくださったら、きっとエトワールさんも心強いと思いますけど……」
マリアの言葉に、シャルルは肩をすくめる。
「どうだろう。そもそも、僕なんて眼中にないかも」
半分あたり、半分はずれ、といったところだが、マリアはクスクスと微笑んだ。
「マリアちゃんは、いつも良い香りがするね」
マリアの横に距離をつめたシャルルは、マリアの髪をすくい取って顔に近づけた。今まで何度かされたことのあるこの行為にマリアはいまだ慣れずにいる。このまま一生慣れないであろうことは明白だが。
「それに、僕の好きな香りだ」
シャルルはいつもよりもより一層柔らかな、慈愛にも満ちた笑顔でそう言うと、マリアの柔らかな髪質を楽しむように頭をなでる。
ディアーナにアロマを焚いてから、しばらく時間が経っている。トップノートのシトラス系の香りが抜け、ミドルノートであるジャスミンやカモミール等のフローラル系の香りが今はマリアを包んでいた。ジャスミンの香りは、素直な愛情を引き出す、と言うが、シャルルにも有効なのだろうか。マリアはそんなことを考え、シャルルをちらりと見やった。
シャルルは、不思議な気持ちに胸が包まれていた。穏やかで、あたたかい。花が開く瞬間、というのはこういうことなのだろうか。シャルルは隣にいる小さな女性を見つめた。彼女はすでに興味深そうに本に目を落としている。幼いころから整った顔立ちのせいか、それとも性格からか、女性からもてはやされ、何かと詮索されることの多いシャルルだったが、マリアは唯一そういった素振りを見せない女性だった。
(……吊り橋効果、か)
よく言ったものだ、とシャルルは先日の事件を思い出す。自分に好意を寄せていたはずのディアーナ王女は、エトワールへとその視線の先を変えた。シャルルにとっては妹のような存在であったディアーナが、自分の信頼する部下と幸せになってくれるというのは喜ばしいことこの上ない。特に、自分のような人間は、ディアーナ王女にはふさわしくないと思っていたため、シャルルにとっては嬉しい鞍替えであった。
隣にいるマリアに再び視線を向ける。シャルルは、自らの心の底でほのかにさざめく感情に思わず笑みをこぼした。
「どうかしましたか?」
シャルルの息遣いに、マリアは不思議そうに顔を上げた。その美しい瞳がシャルルを映す。一片の穢れもなく、柔らかな光が宿っているその瞳。
「いや、何でもないよ」
(まったく、良い年をして嫌になるね)
シャルルはもう一度マリアの頭を優しく撫で、ずいぶんと懐かしい感情の名前を探すのであった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
20/7/1 ジャンル別週間ランキング 46位、月間ランキング 87位をいただきました!
ついに月間にまでのせていただくことができ、感無量です……!皆様、ありがとうございます!
さて、そろそろ王城編もおしまいに近づいてきました。
最後まで楽しんでいただけますと幸いです!
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