律儀な客人
マリアのもとにケイが訪れたのは、偶然、街のはずれにある高台で出会ってから、一週間が過ぎようとしたころだった。
トントン、と礼儀正しい扉の音で誰が訪ねてきたのかわかる。
「いらっしゃいませ!」
マリアは初めて出会った日のように、努めて明るく、そして笑顔でケイを出迎えた。
最初にケイを見たときはずいぶんと疲れた顔色をしていたが、今日は表情も穏やかで、血色もいいようだった。
「これ」
ケイは、左手に持っていた小さな紙袋をマリアに手渡す。街で有名なパン屋のもので、中から香ばしい良い匂いがした。
マリアはケイの真面目さに驚きを隠せなかった。もちろん良い意味で驚いたのだが、ケイはそんなマリアの反応に何を思ったか
「気に入らなければ、また別のものをもってこよう」
そう言って慌てふためいた。
「まさか! とっても嬉しいです。私、ここのパン大好きなんです」
マリアがそういって笑えば、ケイは安心したようだった。マリアは受け取った紙袋を大事に胸の前で抱えて、それからパンの匂いを堪能するために大きく息を吸った。バターの豊潤な香りが食欲をそそる。
「もし良ければ、ご一緒にお茶でもいかがですか」
マリアがそう言えば、ケイは
「先日の礼だ。そういうわけには……」
と遠慮する。しかし、そこで引き下がるマリアではない。せっかくですから、とそう言えば、ケイは折れるほかなかった。しばらくお茶の準備をするから店内を自由に見ていてくれ、とマリアに言われ、ケイはそれに従った。
ケイは、決して香水やアロマキャンドルといったものに興味があるわけではなかった。ケイの家庭は決して裕福ではなかったし、小さな農村だったために、そういったものに触れる機会も少なかった。もしかして、村にいる母親や妹の土産にすれば喜んでくれるだろうか。
様々な形や色の小瓶に入った液体を眺める。ケイの興味は次第に、ガラスの形状や密閉性の高さの秘密などへ移っていく。瓶を手に取って、光に透かしてみたり、底から蓋をのぞき込んだりしているうちに、マリアが戻ってきた。
「何か、お探しのものはありますか」
テーブルにトレーを置いて、マリアはケイの隣に立つ。こうして隣に立つと、彼はとても背が高いのだな、と実感する。
「先にお選びになられますか?」
「あぁ、いや、後でかまわない。急いでいるわけではないんだ」
ケイは、せっかくのお茶が冷めてしまってはもったいない、と瓶を持つ手を下ろした。
椅子に座るよう勧められ、ケイは座って一杯お茶をもらうことにする。
(やっぱり、何度飲んでもうまいな……)
「わざわざここまで来るのは大変だったんじゃないですか」
マリアの問いに、ケイは首を振った。
「良い訓練になるんだ、問題ない」
「ケイさんは、国の騎士団の方ですよね」
「あぁ。休みの日は普段、街で鍛錬しているんだが、たまには出かけるのも良いと思って」
「お休みの日に足を運んでくださってありがとうございます」
マリアの微笑みがまぶしい。ケイは照れ臭くなって、パッと目をそらす。
マリアはパンを一口放り込んで
「ん~~~!」
と声をあげた。
サクサクの表面に、もっちりとした生地。バターの香りが口いっぱいに広がったかと思えば、小麦の優しい甘みが追いかけてくる。マリアはゆっくりとパンを咀嚼して、香ばしい小麦の匂いが鼻を抜けていくのを楽しんだ。
(本当に、良い顔をするもんだ)
ケイはどことなく、うさぎやリスに餌をやっているような気分になる。まさに癒しだ。マリアを見ていると、今までに感じたことのないような温かい気持ちが体中に広がっていく。ケイはマリアと同じようにパンを一口放り込み、その一瞬を大切にかみしめた。
「ケイさんが、このお店を気に入ってくださって嬉しいです。なかなか理解いただけないことも多いですから」
「そうなのか」
「えぇ、女性のものだと思っている方もいらっしゃいますし、香水は『人工的な香り』だと言って毛嫌いされることもありますから」
マリアは少し困ったようにはにかんだ。そういう悪意みたいなものとは無縁だと思っていたが、彼女にもそういう経験はあるらしい。ケイは素直にうなずいた。
「香水なんかは、嗜好品だからな。そういう人間もいるだろう」
「えぇ。だから私は、この店で、みなさんが少しでも安らげるような、そういう香りを作れたらいいなって思うんです」
マリアはそこまで言ってから、少し照れ臭くなって、残りのパンを口に入れた。ケイは優しく微笑んでうなずくだけだった。マリアならできるかもしれない、とケイは思う。
「なんて、お客様にこんな話、すみません。一緒にお品物、お探ししますね」
マリアは手際よくテーブルの上を片付ける。ケイは立ち上がって、先ほどまで見ていた香水の瓶が並ぶ棚を見つめた。
ケイとマリアは、それから小一時間ほど、店内のものを見て回った。ケイの母親と妹の好きな香りなど当然ケイは知る由もなく、結局は好きな食べ物や普段よく使っている洗剤の香りなどから、マリアが選んでいった。ケイは、マリアの一言一句を忘れないように、真面目な顔で話を聞いていた。マリアが小瓶を丁寧にラッピングしている間に、ケイは、もう一つ買い忘れたものがあった、と入り口のすぐそばに置かれていた小瓶を手に取る。
「すまない、これもいいか」
ジンジャーカモミールティーの茶葉が入った小瓶を差し出せば、マリアは嬉しそうに笑う。
「もちろんです、ありがとうございます」
「これは、どれくらいもつんだ?」
「開封してから一か月程度は大丈夫ですよ。五杯分くらいですから、飲み始めるとあっという間になくなっちゃうと思いますけど」
「そうなのか」
マリアの答えに、ケイは少し残念そうな顔をした。そんなケイを見て、意外とかわいらしい一面もあるものだ、とマリアは思う。
「街の広場から一本脇道に入ったところに、洋裁店があるんですけど、そちらでも同じ茶葉を取り扱ってますのでもしよろしければ。一週間おきにここへ通うのは大変でしょうから」
マリアがそう付け加えれば、
「それは助かる。君は、意外と抜け目がないな」
ケイはそう言って微笑んだ。
「もちろん、ぜひまたお店にもいらしてください」
マリアはラッピングした香水と、ジンジャーカモミールティーの茶葉が入った小瓶をそれぞれ紙袋に入れてケイへ手渡す。ケイはそれを受け取ると、どこか名残惜しそうに店を出た。
(なんだか縁のある人だな)
マリアは、ケイが去っていった方角を見送る。
運命や奇跡といったことを信じているつもりはないが、そういうのも悪くないな、とマリアは一人思うのだった。
20/6/6 改行、段落を修正しました。ルビを追加しました。
20/6/21 段落を修正しました。




