祖母の過去
マリアとシュトローマーは、リラの墓の前に置かれたベンチに座った。マリアが、シュトローマーに相談したいことがある、といえば、シュトローマーは快くそれを受け入れた。場所を移そうか、と提案されたがマリアは首を振る。祖母にも聞いてもらいたい。マリアの言葉にシュトローマーは優しく微笑んだ。
「先日はありがとうございました」
マリアが頭を下げると、シュトローマーはゆっくりと首を横に振る。
「わしは何もしとらん。王妃様には気に入ってもらえたのか?」
「はい。実はご相談というのはそのことなんです」
マリアが困ったように微笑むと、シュトローマーはその分厚い眼鏡の向こうにある瞳の色を変えた。
「先日のチェリーブロッサムの香り……あれは、王家からの試験だったようなんです」
「試験?」
マリアの言葉に、シュトローマーは首を傾げる。
「はい。ディアーナ王女が婚礼のお年頃を迎えられたのでしょう。花嫁修業みたいなものだと思うのですが……。専属の調香師を雇いたいとお考えのようです」
「なるほど……。それで、マリアに白羽の矢が立った、というわけじゃな」
「はい。光栄なことに、引き受けてくれないか、と」
「ほぉ。それはすごいことじゃないか。なぜ悩んでおる」
マリアの表情は曇ったままだ。シュトローマーはそんなマリアを不思議そうに見つめる。
「王女様のご結婚のお手伝いとなると、王家の……ひいては今後の国を左右することになるのではないかと」
マリアの言葉に、シュトローマーは自らのひげを何度か触って、ふむ、とうなずいた。
「なるほどな。それはマリアの言うことにも一理ある。国民の中からたった一人、王にふさわしい者を選ぶお方を育てるということにはそれだけの責任と覚悟が付きまとうものじゃ」
「えぇ。私も、調香師としてプライドを持っているつもりです。……ですが」
「こんな若輩者に務まるのか、と心配しておるのか」
シュトローマーの言葉に、今度はマリアがうなずいた。
シュトローマーは、しばらく黙り込んだ後、
「わしも、噂でしか聞いたことがないんじゃがな……」
と口を開いた。
「リラは、その昔、城で働いておったことがある」
マリアは目を丸くした。祖母からそのような話を聞いたことはなかったからだ。祖母はあまり自分の話をしなかった。もちろん、調香のことについては嫌というほどたくさんのことを教えてはくれたが、それ以外で祖母が自分自身の話をすることは滅多にない。マリアが知っているのは、この海辺の町で生まれ育ったこと、リラの息子……つまり、マリアの父親が洋裁店を始めたころに森へ移り住んだこと、そして生涯調香師として働いたということ。それくらいだ。
「やはり、知らなかったか」
「えぇ。初めて聞きました。両親も、そんなことは一言も……」
「まぁ、働いておった……といっても、半年くらいだったと聞いておるからの。リラも、そういうことは周りに自ら語るタイプではなかろう」
「そうですね。祖母は、自らのことをあまり話しませんでした」
「わしの知る限りでは、ちょうどマリアが生まれるより少し前だったと思うのじゃが。そのころは、わしもガーデン・パレスで働いておったから、リラとは会わなくなっていたが……」
シュトローマーはそう言って、またしばらく何かを考えるように黙り込んだ。
マリアは、度重なる偶然に、今日は本当に運命に導かれているみたい、と思う。普段はあまり運命などとは考えないマリアでも、こう何度も珍しいことが重なれば、思わずにはいられないものだ。
「今考えると……」
シュトローマーはゆっくりと話し出す。
「王女様がご結婚されたのも、ちょうどそのあたりじゃったな……。もしかすると、リラもマリアと同じく、専属の調香師だったのかもしれん」
シュトローマーは何か、面白いことが目の前で起きている、と言わんばかりだった。
「おばあちゃんが、王妃様の専属の調香師……」
マリアはシュトローマーの言葉に、ただ驚くしかできなかった。しかし、そう言われてみれば、色々と合点のいく部分も多い。
あんな森の中で営んでいる小さな店に、王妃様から依頼が届くことが良い例だ。いくら祖母の腕が良くても、通常ならありえないだろう。しかし、祖母が王妃様の専属の調香師であったなら話は別だ。むしろ、当たり前のことといえる。祖母が亡くなってからも懇意にしてくれているのは、もしかすると、そういった関係であったからこそなのだろう。マリアは、改めて祖母の偉大さを実感する。
「祖母は、悩まなかったんでしょうか……」
国の一大事に関わることだ。とてもではないが、マリアには早々には決められない。
「わしには分からんが……そうじゃな。リラとマリアはよく似ておる。マリアが悩んでいるのなら、リラも悩んだじゃろうな」
シュトローマーは、そう言って軽く笑った。
「もっとも、リラは信じられないほどの努力家じゃったからの。調香師として成長できる機会が目の前に巡ってきたのだとしたら、きっと死に物狂いでつかんでおったわい」
シュトローマーは、過去の記憶を思い出したのか、肩を震わせて笑い、しまいには耐え切れなくなって声をあげた。
マリアの知っているリラは、どちらかというと穏やかな人だった。死に物狂いで何かを求めるような、そういう雰囲気はなかったように思う。歳のせいか、それとも、様々なことを経験したからそうなのか。それはマリアには分からなかった。
「マリアが、ガーデン・パレスに来たのも同じ理由じゃろ?」
シュトローマーは、ふいにそう言う。
「少しでも、チャンスがあるならやってみたい。そういう瞳じゃったよ」
分厚い眼鏡の向こうからシュトローマーのグレーの瞳が、マリアを見つめる。マリアの髪を海風が揺らした。
しばらくして、シュトローマーは優しく微笑んだ。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「さて、そろそろ行こうかの」
「私は、もう少しここにいます」
マリアがそう言うと、シュトローマーはうなずいて、また会おう、そう言った。シュトローマーの背を見送って、マリアは祖母のお墓をもう一度見つめた。
(おばあちゃん……)
祖母の声は聞こえない。変わりに、先ほどのシュトローマーの話がマリアの心の中で反芻される。祖母が、王妃様の専属の調香師であったという噂。祖母とマリアがよく似ていると言ったシュトローマーの言葉。
(調香師として成長できる機会が目の前に巡ってきたのだとしたら……)
マリアはガーデン・パレスでの出来事を思い出す。そもそもマリアは、せっかくのチャンスなのだから、と王妃様からの依頼を受けたのではなかったか。マリアは自問自答する。王妃様からの依頼は、いつだって簡単ではない。だが、それこそが、マリアを調香師として成長させていることに間違いはなかった。
(おばあちゃん……。おばあちゃんは、チャンスをつかんだのね……。それがどんなに責任と覚悟の伴う仕事でも、調香師として、やり遂げたのね……)
マリアは祖母のお墓を見つめる。
調香師としての誇り。
不意に、王妃様からの手紙を思い出す。
それは、マリアに足りないもの。祖母のような調香師になるために、マリアが得るべきもの。
(おばあちゃん、私……)
マリアは、再び祖母のお墓に手を添えて、街へと戻るのだった。
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20/6/21 段落を修正しました。




