調香師の役割
夕暮れの柔らかな日差しが、マリアの寝室に差し込む。マリアはゆっくりとベッドから体を起こした。
(ずいぶん、体が楽になったわ……)
マリアは手元に落ちてきたタオルをボウルに浸して、ぎゅっと絞る。
(私、いつ水を取り替えたのかしら?)
ボウルに張られた水は冷たく、マリアは首をかしげた。風邪をひいたせいか、記憶がおぼろげなのだ。誰かが店に来てくれたような、とマリアはしばらく考えて、
「ケイさん?!」
慌ててベッドから飛び起きた。
「起きたのか」
キッチンでスープを温めなおしていたケイが、マリアの方に向き直った。
「……あの、これはいったい……」
マリアは目をパチパチとさせて、ケイを見つめる。マリアの家に勝手に上がり込んだ事実にずいぶんと慣れてしまったケイは、マリアの驚いた様子を見てようやく我に返った。
「違う! これは、その! マリアが、熱にうなされていたようだったから、その! たまたまだ! 用事があってきてみたら、マリアが!」
ケイにしては珍しく、言い訳を並べて慌てふためく。マリアはそんなケイの様子にこらえきれず、声をあげて笑ってしまう。
「もしかして、ケイさんが助けてくださったんですか?」
「いや、その……。ずいぶんと苦しんでいるようだったから……」
ケイが所在なさそうにそういうと、マリアは微笑んだ。
マリアはケイにお礼を言った。ケイに座るよう促したが、ケイが引かなかった。
「今日は休んでいてくれ」
「ですが……」
「俺が勝手にやったことだ。それに、風邪は治りかけこそ肝心だ、と聞いたことがある」
ケイはマリアを無理やり座らせ、鍋の火を止めた。
「すみません」
申し訳なさそうに謝るマリアの前に、ケイはスープを差し出した。
「いや、俺は何もしていない。材料も、薬も、マリアの家のものだ」
ケイはいつもの真面目な顔を崩さず、そう答えた。そもそも、勝手に上がりこみ、好き勝手しているのだ。とがめられてもケイに文句を言う資格はない。ケイは真剣にそう思っている。
「ケイさんは、召し上がらないんですか?」
マリアはスープが自分の前だけに差し出されていることに首を傾げた。ケイは、首を振る。
「あぁ。問題ない」
「ですが、せっかくの機会ですし、よろしければご一緒していただけると嬉しいです」
マリアににこりと微笑まれては、ケイも無下にはできない。仕方なくケイも自らの分を器に盛りつけ、マリアの前に腰かけた。
しばらく、二人は黙々と食事を続けた。ケイは、こんな時に何を話して良いか分からず、そんな自分が情けない。結局、マリアが用意してくれたパンを口に運びながら、マリアの食事をする美しい所作を眺めてしまう。
「ずっとついていてくださったんですよね、ありがとうございます」
沈黙を破ったのはマリアだった。マリアはスープを口に運んでいた手を止めて、微笑む。
「困っている国民を助ける、それが騎士団の勤めだ。例え、どんな些細なことだろうと」
「ふふ。ケイさんらしいです」
顔色一つ変えずにそう言ったケイに、マリアはクスクスと笑う。なんて真面目な男なのだろうか。騎士団の中でも、ここまでの騎士は珍しい。
そこから他愛もない会話を少しばかりして、ケイが口を開いた。
「一つ、聞いてもいいか」
「えぇ。何でしょうか」
「その、マリアの調香、というのは薬にはならないのか」
ケイは思ったことを素直に口にした。というのも、初めてマリアと会った日に出されたカモミールティーがケイにとってはずいぶんと疲労を回復させたような気がしたからだ。あの日以来……疲れた日は特に、マリアの店で買ったジンジャーカモミールティーを飲んでいるが、体調がすぐれているような気がしてならない。ケイはそれを薬だと思ったのだ。
(てっきり、マリアは自らの作った薬を飲むものだと思ったが……)
マリアの家にあった薬は、薬屋の名前が書かれていたものだったし、わざわざ買ったのだろう。
マリアは少し困ったような顔をして、それから首を横に振った。
「残念ながら、私が出来るのは香りを作り出すことだけです。もちろん、香りを作る原料の中には心を落ち着けたり、リフレッシュさせたりするような作用を持つものもあります」
マリアはそう言って、スープをひとさじすくい上げる。
「例えば、このスープに入っているジンジャーも、体を温める作用を持ちます」
ケイも、それは聞いたことがある、とうなずく。だからこそ、風邪の時には良いという。
「ですが、このスープは風邪の薬ではありませんよね」
マリアの問いにケイもうなずいた。そして、そうか、と声を漏らす。
「はい。私の作っている精油や香油、香水といったものは、直接風邪を治せるような薬ではありません。あくまでも、心や体の調子を整えたり、バランスをとったりするようなものです」
マリアはそう言って、スープを口に運んだ。それをゆっくりと味わうように飲み込むと、マリアはぽつりとつぶやいた。
「調香師の力では、助けたくても助けられない、そういうこともあるのです」
「……何か、あったのか」
「いえ、祖母の話です。昔は、調香師と薬師の境目が曖昧だったと聞きますので。それを覚悟したうえで、自ら出来ることを……少しでも多くの人を香りで幸せにすることが、調香師の役割だと、教えてもらいました」
マリアはにこりと微笑んだ。いつもの、柔らかい微笑みではなく、何か強い決意を持った、そういう表情だった。
ケイが、少し立ち入ったことを聞いたかもしれない、と考えていると、マリアがいつもの表情で笑う。
「なんて、ケイさんにばかりこんなお話。すみません」
「いや、俺の方こそすまない」
ケイは首を横に振った。マリアはその笑顔の裏に、色々なことを抱えて生きているのだろう。人を助けるという仕事は、時にそういうこともある。ケイもそれは嫌というほど知っている。
食事を終え、ケイが一通りの片づけをすませると、マリアが
「そうだ、今度はケイさんに質問をしてもいいですか?」
と明るい声でそう言った。
マリアの質問は単純明快。ケイの用事は何だったのか、というものだ。そうだった、とケイは足元に置いたトランクケースを持ち上げ、マリアに差し出す。
「王妃様からの謝礼を預かってきた」
マリアは神妙な面持ちで、ケイに深く一礼する。依頼に対しての報酬なので、当たり前と言えば当たり前なのだが、相手が王妃様である以上は誰しもそうなってしまうだろう。
ケイも無事に役目を果たすことができ、これで安心して帰ることが出来る。予定よりもずいぶんと遅くなってしまったが、明日、シャルルに話せばわかってくれるはずだ。
「今日はありがとうございました」
マリアは、店先までケイを見送ってそう言った。深々と頭を下げる。
「じゃぁ。無理はするなよ」
「はい、しばらくは安静にしておきます。ケイさんもお気をつけて」
あまり遅くなっては、馬車の数も減ってしまうというものだ。
こうして、一番星が輝き始めたころ、マリアとケイは別れを告げた。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
ここまでで、ガーデン・パレス編はおしまいとなります。
(ちょっと不思議な終わり方かもしれませんが……次話以降またお話が少し変わるため、ご了承ください)
これからもマリア達のお話は続きますので、お楽しみにいただければ幸いです。
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20/6/21 段落を修正しました。




