最後の日
実験室を片付け、ガーデン・パレス内を見て回ること二日。とうとう、ガーデン・パレスを去る日がやってきた。所長に挨拶をすませ、マリアは部屋の鍵を管理人に返却する。
リンネは朝からそわそわしていた。普段はガーデン・パレスの奥にひっそりと暮らしているシュトローマーも見送りに行くと言って聞かず、挙句の果てにはシェフや果樹園の研究員たちまで、どこから聞きつけたのかマリアのもとへと集まってきた。
結局、宿舎を出たマリアはバラの咲き誇る広大な庭の真ん中で、トランクを抱えたまま大勢の人に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。また来いよ、とか、マリアちゃんの店にも行くからな、とかいろんな言葉をかけられ、それに答えれば、また別の言葉がかけられる。気持ちはありがたいのだが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
そんなマリアに助け船を出したのは、マリアをガーデン・パレスまで送ってくれた騎士団の男だった。シュトローマーは彼を知っているようで、嬉しそうに話しかけている。
「さ、そろそろ行きましょうか」
男はシュトローマーと軽く話をし終え、マリアの腕からトランクを持ち上げる。
「なんだか、少し荷物が増えましたか?」
男に言われ、マリアは少し恥ずかしくなってしまう。
いくらガーデン・パレスに珍しい植物が生えており、持って帰っても良いと言われたからといって、少し詰めすぎた。果樹園の研究員たちやシェフ、シュトローマーからもお土産に持って帰れ、と色々渡されたため、来た時よりも重くなっている。
「すみません……」
「いえいえ。お土産がたくさんあるというのは良いことです」
男は楽しげな笑みを浮かべて、門の外に止めてあった馬車にトランクを積んだ。
門をくぐると、いよいよお別れだ、と思う。
マリアは、ガーデン・パレスを振り返る。宮殿のような造りの建物に、広大な庭。
(私、ここにいたんだ……)
改めて見ると、それがどれほどすごいことだったのか、身に染みるような気がする。
(シャルルさんには、お礼をしなくちゃ)
マリアは背筋をのばし、それからゆっくりと大きく一礼した。顔をあげると、再びリンネが泣いている。
「ありがとうございました」
マリアは出来るだけ大きく、はっきりと声を出した。
「マリアぢゃん……!」
リンネは顔をぐしゃぐしゃにしながらマリアに大きく手を振る。
「また遊んでくれるんでしょう? 洋裁店に行くって約束したじゃない」
マリアがクスクスと笑うと、リンネは大きくうなずいた。
マリアは男にエスコートされて馬車に乗り、窓の外から身を乗り出す。
「落ちないように、しっかりとつかまっていてくださいね」
隣で男が話し終わると同時に、馬車が走り出す。マリアは、みんなの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
(楽しかったな……)
マリアはうっすらとにじんだ涙を拭って、馬車の窓を閉めた。
「マリアぢゃん……」
マリアの馬車が見えなくなるまで、リンネは手を振り続けた。また会える、すぐに会える、とは分かっているものの、やはり寂しさはぬぐえない。
「ほら、リンネ。仕事だぞ」
「わがっでるげどぉ……」
そんなリンネを男たちはなんとかたしなめる。リンネとマリアの若さが少し羨ましい。
「また遊ぶんだろ?」
「遊ぶげどぉっ……」
リンネは、男たちに連れられながら、いまだ止まらぬ涙をぬぐい、ガーデン・パレスへと戻っていく。
マリアに会うまでは、まさか自分がこんなに涙もろいなんて知らなかった。リンネはぬぐってもあふれる涙を何度もごしごしと拭う。このままでは仕事など、ロクにできそうもない。リンネは
(一度部屋に戻って、顔でも洗おう……)
と自分の部屋へと足を向けた。
「あ、これ……」
リンネはテーブルの上に置かれた瓶を手に取った。マリアがくれたものだ。
(そういえば、もらってからまだ開けてないな……)
なんとなくもったいないような気がして、開けられなかった、というのが正しいのだが、リンネは意を決して瓶のフタを開けた。
ふわり、とリンネのもとに香ったのは、意外にもスパイシーな香りだった。そして、爽やかなシトラスの香り。てっきり、チェリーブロッサムの香りをもとに作ったといっていたので甘い香りを想像していた。しかし、これは全く別物だ。
チェリーの甘い香りがむしろ、爽やかなシトラスとスパイスの香りを引き立てている。そして、さらにそのシトラスやスパイスの香りが、柔らかなフローラルや豊かな森林の香りを呼び覚ますようだった。軽い甘さと爽やかな香り。まさしく、リンネにはぴったりだ。
リンネは気づけば、マリアと過ごした日々のことを思い起こしていた。
植物には詳しいつもりでいた自分に、マリアは新たな側面で様々なことを教えてくれた。誰にでも優しく、常に前向きだったマリアの姿や、どんな困難にもあきらめずに仕事と向き合う姿勢も、リンネにとっては見習わなければならない。
調香師はね、時を売る仕事なの。
いつだったか、マリアはそんなことを口にした。初めてチェリーから香りを取り出そうとした日のことだったかもしれない。失敗した日の夜、一生懸命にいろいろな香りを試すマリアにリンネが聞いたのだ。
「なんでそんなに頑張るの?」
マリアは笑った。
「調香師はね、時を売る仕事なの。香りっていうのは、人の記憶と密接につながっているんだって。だから、私はお客様が望む香りを作るだけじゃなくて、その瞬間を思い出せるような、そういう香りを作りたいって思うの」
それを聞いたとき、リンネにはよく意味が分からなかった。
(今なら、わかるよ。マリアちゃん)
リンネは、マリアからもらった瓶をぎゅっと握りしめる。
「この香りも、私とマリアちゃんの大切な思い出だね」
リンネは頬を伝う涙をもう一度拭って、顔を上げる。
「マリアちゃん、私も頑張るよ」
リンネは呟いて、パンパン、と両手で頬を軽くたたく。いつまでもウダウダしている場合ではない。
今度マリアに会うときには、マリアが驚くような、マリアの役に立てるような知識をもっと蓄えておかなければ。
リンネはそう強く決意して、仕事に取り掛かるのであった。
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20/6/21 段落を修正しました。




