王女ディアーナ
マリアは所長室の扉をノックした。
「おはいりなさい」
若い、というよりは幼いの方が正しいであろう女の子の声に、マリアは首をかしげる。
「失礼します」
そっと扉をあけたマリアは、所長室にいたその人の姿に目を見開いた。
さかのぼること、二十分前。
食堂で朝食を食べていたマリアとリンネのもとに、一人の男が駆け寄ってきた。
「あなたがマリアさんですね?」
ひどく焦った様子の男は、息も絶え絶えにマリアを見つめる。あの長い距離を走ってきたのだろうか。
「えぇ、そうですけど……」
「すぐに所長室に来てくれ、と。所長がおよびです」
(チェリーブロッサムの香りのことかしら)
マリアはフレンチトーストの最後のひとかけらを無理やり口に押し込んでうなずいた。
(それにしても……)
確かに、王妃様の依頼とはいえ、こんな朝早くから呼び出すほどのことなのか。マリアは不思議に思いながらも、所長室へと急いだのだった。
所長室にいたのは、現国王と王妃の一人娘——王女ディアーナだった。マリアは慌てて膝をつき、頭を下げる。先ほどの男があれほど焦っていたのはこのせいか、とマリアは思う。
「失礼いたしました、ディアーナ王女」
「良くってよ。頭を上げなさい、マリア」
マリアがゆっくりと顔を上げると、ディアーナは美しく微笑んだ。
美しく輝くブロンドの髪。透き通るような青い瞳。陶器のような肌に、新緑を思わせるドレスがよく映えている。まるで人形のような整った姿に、マリアはつい見惚れてしまう。確か、歳はマリアより十ほど下だったと思うが、唇にひかれた鮮やかなルージュが彼女を本来の年齢よりもぐっと大人びて見せていた。気品あふれるオーラを身にまとっており、さすがは王家の娘、としか言いようがない。王女ディアーナには生まれ持って人を引き付ける、そんなカリスマ性があった。
「あなたのこと、聞いたわ。お母さまが気に入っている香水も、あなたが作ってくださってるんですってね」
ディアーナはそういうと、ちらりと隣に立つ人物へ目をやった。マリアもつられて彼女の視線を追う。
そこには、いつものように柔和な笑みを浮かべたシャルルと、緊張からか眉間にしわを寄せるケイが立っていた。ディアーナに気を取られて気づかなかったのだ。しかし、慣れ親しんだ顔が並んでいたことで、ようやくマリアの気も少し緩んだ。
「所長から昨日の夜に連絡をもらってね。チェリーブロッサムの香りを受け取りにきたんだ。本当は僕一人で受け取りに行くつもりだったんだけど、ディアーナ王女様に聞かれてしまってね。連れて行けとうるさいものだから」
シャルルが肩をすくめて苦笑すると、ディアーナはすました顔で紅茶をすする。
「どうしてもマリアちゃんに会いたいっていうんで、こうしてマリアちゃんに所長室まで来てもらったというわけさ」
「なっ! わたくしは一言もそのようなことは!」
「そうでしたか? それは失礼いたしました」
シャルルはずいぶんとこの状況を楽しんでいるようだ。王女相手にもまったく緊張の色を見せないのは、騎士団長という肩書のせいか、それともこの男の性格なのか。どちらにせよ、ディアーナも、シャルルの言葉に本気で怒っている様子はなく、むしろ年相応の女の子の顔をしている。
「それで、チェリーブロッサムの香りが出来たっていうのは本当なの?」
ディアーナは、こほん、と咳払いして改める。マリアは持っていた箱を開き、ディアーナの前に差し出した。
「こちらでございます」
中にはチェリーブロッサムの香りを閉じ込めた小瓶が入っている。ディアーナはそれを手に取って、ゆっくりと光に透かして見せた。
「ふぅん……別に、普通ね」
ディアーナはつまらなそうにそう言うと、その瓶をケイへと渡した。
「確認してちょうだい」
毒でないことを確かめろ、という意味だろう。シャルルではなくケイへ手渡したのはそのためだ。マリアに限ってそれはありえないのだが、王家の血筋を狙うものは多い。香水に毒を混ぜるものもいると聞く。ケイはゆっくりと瓶のフタをあけた。
(これは……)
ケイはその不思議な香りに目を見開いた。目の前に立つマリアを思わず見つめる。
(これが、調香師マリアの実力……)
異国情緒漂う優雅で甘美な香り。しかし、鮮烈なその香りは徐々に柔らかな花と草の香りへと遷移し、やがて落ち着いた深い樹木のようなほろ苦く、渋い香りが包む。それでもなお繊細で豊潤な甘さが尾をひいており、ケイはなんともいえぬ気持ちに包まれた。
隣にいたシャルルのもとにも香りが流れたのだろう。シャルルも口角をあげる。そして、しばらく無言の男に怪訝な目をむけたディアーナに気づいたのだろう。シャルルはケイを肘でつついた。
「問題ないかと」
ケイが慌てていうと、ディアーナはうなずいて、ケイから瓶を受け取る。
その瞬間、ディアーナは、パッとマリアの方へ視線を向けた。
マリアはまるでガラス玉のような瞳に見つめられ、思わず背筋を伸ばす。いくら王妃様からの依頼とはいえ、王女であるディアーナに気に入ってもらえなければ、作り直し……いや、下手をすればもう二度と依頼してもらえない可能性もある。ディアーナは再び瓶に鼻を近づけて香りを嗅ぐと、何も言わずにケイへ瓶を渡した。ケイは瓶のフタを閉める。
そして、ディアーナはプルプルと小さな体を震わせ、マリアを見つめた。マリアに緊張がはしる。次の瞬間、ディアーナはぼそりとつぶやいた。
「素晴らしいわ……」
香りの余韻にひたるように、うっとりとディアーナは目を細める。
「マリア、さすがはお母さまが認めた調香師ね。……合格よ」
ディアーナの言葉に、マリアはパッと目を輝かせた。ディアーナも顔に笑みを浮かべ、マリアに手を差し出す。マリアがその手にどう答えようか、と迷っていると
「手を取ってあげて。お友達になりたいんだって」
とシャルルがマリアに耳打ちする。
「ち、違いますわ! これは別にそういうんじゃ!」
ディアーナに聞こえたのか、彼女は頬を赤く染めて慌てふためいた。
「本当にディアーナ様は素直でない」
シャルルの言葉にディアーナは、ふん、と顔をそむけた。
(意外と、普通の女の子なのね)
マリアがその様子にクスクスと微笑むと、ディアーナがさらに眉を吊り上げる。
「何笑ってるのよ! ほら、はやく手をとりなさい! 腕が疲れたわ!」
「はい、ディアーナ王女」
マリアが握った手は、小さく、けれど温かった。
ディアーナは大事そうに瓶の入った箱を抱えたまま、シャルルとケイを連れてガーデン・パレスを後にした。
マリアは三人の後ろ姿を門の衛兵たちと見送り、自分もそろそろここを去る準備をしなければ、と思うのであった。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
ガーデン・パレス編もいよいよクライマックスです。
最後までお楽しみいただければ、幸いです。
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20/6/21 段落を修正しました。




