マリアのチェリーブロッサムノート
リンネとの束の間の休息を過ごしたマリアは、ガーデン・パレスに戻るとすぐさま実験室へと向かった。夕食の時間がすぐに訪れることは分かっているが、マリアの香り作りへの衝動はそんなものでは抑えられない。
アイラの両親の店で購入したトンカビーンズの缶を握りしめ、自室からとってきたカバンを引きずる。
(これなら、きっと、満足のいくチェリーブロッサムの香りが作れるはず……)
マリアは思わず頬が緩んでしまいそうになるのを何とかこらえて、実験室の扉を開けた。
マリアはトランクから、大量の小瓶が入った箱を取り出す。瓶にはラベルがつけられており、カモミールや、ラベンダーをはじめ、アプリコット、レモングラスなど、様々な精油が入っている。マリアが調香でとりわけ良く使うものだけだが、この数日で新たにガーデン・パレスの敷地内から(当然、許可を得て)摘み取り、抽出したものもあるので、十分だろう。
(さてと……)
マリアは、メモ帳を開いて、今までのアイデアを見返しながら、一つずつ瓶を選んでいく。
香りというのは不思議なもので、複雑なものほど『良い香り』だと言われている。これは何も調香師だから、というわけではない。普通の人にとっても、一種類のオイルと、複数種類を混ぜたオイルを並べると、ほとんどの人が後者を好む。当然、混ぜるものの種類によってぐっと香りの雰囲気は変わるのだが、それらを完璧に使いこなすことは難しい。マリアはいくつかあたりを付けて、まずは……、と使うものを目の前に並べた。
トンカビーンズ、チェリーの花と葉、そして枝。それにラベンダー、クラリセージ、ローズウッドにサンダルウッド。
(あと一つは……)
マリアはふむ、と周囲を見渡して、
「そうだわ!」
と手を打った。そして、実験室を飛び出す。この時間なら、食堂にいるだろう。すれ違ってはいけない、とマリアは慌てて食堂へ向かった。
マリアの予想は的中する。食堂の奥に座っている白衣を着た数人の研究員たちのもとへ、マリアは足早に駆け寄った。
「お食事中ごめんなさい」
マリアに驚いたのは研究員たちで、みなドンドンと胸をたたいたり、水を飲んだりと忙しない。
「マリアちゃん! どうしたの?」
一人の男が我先に、と声をあげ、マリアはある依頼をするのであった。
「ちょっと時期が早いから、まだそんなに熟してないけど……」
マリアは研究員の手から大量のチェリーを受け取って、大きく一礼する。交配の研究などもしていると聞いていたから、きっとあるはずだ、と思っていたが、まさかこんなにたくさん持っているとは。
マリアはカゴにたっぷりと入ったチェリーを見つめた。熟していないとはいえ、花よりもやはり香りが強い。酸味と甘み、そして渋み。
(やっぱり!)
思った通りの香りに、マリアは満足げな笑みを浮かべる。実験室から食堂、そして果樹園まで、長旅をした甲斐があったというものだ。
「ありがとうございます! 香りが完成したら、およびしますね!」
マリアの笑顔に、研究員たちは頬を赤らめた。マリアが駆けていく後ろ姿を見えなくなるまで見送っていたのは言うまでもない。
実験室に戻ったマリアは、さっそくチェリーを小さな器に絞っていく。チェリーの薄皮を細かく叩き潰しながら、隅々までチェリーからでる水分や油分を絞る。しばらくその作業を続け、小さな器いっぱいにチェリーの果汁がたまったところで、マリアはスポンジをゆっくりと小さな器に浸す。マリアはこの、スポンジに果汁が吸い取られていく瞬間を見るのが好きだった。ゆっくりと、スポンジの細かな繊維の間に、液体が上っていく。重力にも逆らって、下から上へと、スポンジはみるみるうちに色を変化させていく。
(よし、十分ね)
マリアはたっぷりと果汁を吸い込んだスポンジをゆっくり持ち上げる。別の皿の上でそれを丁寧に絞ると、マリアは、ふぅ、と一つ息をついた。
「チェリーはトップノート、ラベンダーとクラリセージはミドルノート。ローズウッドはベースとのつなぎね。チェリーの花は……ミドルノートかしら。トンカビーンズはベースノートだから、後はチェリーの葉と枝を少し入れて……」
マリアは数滴ずつスポイトで瓶の中にそれぞれの液体を垂らしていく。オイルの中にはほんの少しの量でずいぶんと香りが違ってしまうものもあるため、マリアは慎重にその作業を進める。ポタポタと一滴ずつ精油を混ぜていくうちにどんどんと香りが変化していく様が面白い。
時折香りを確認しながら、マリアは調整していく。チェリーが思ったよりも甘く香り、これは時間が経つほど香りが変わって楽しめそうだ、とマリアは一人笑みを浮かべた。
ノート、というのは香ってくる速さ、もしくはどの程度香りが長持ちするか、を表している。正確にはそれぞれのオイルの揮発速度に由来するのだが、厳密には分けられてはおらず、個人の感覚に頼っている部分もまだ多くある。
トップノートが最初に鼻へ届く香り、ミドルがその後に続き、そして最後まで香りが持続しているのがベースノートだ。当然、フタを開けた瞬間、それぞれは混ざって届くが、使っていると自然と香りが移り変わっていく。
それに気づいたときは、まるで魔法にでもかかったかのようだった。マリアは昔を懐かしみながら、調香を続ける。
マリアは、最初に香りを印象付けるトップノートに、あえてチェリーの香りを選んだ。異国を思わせるエキゾチックで華やかな甘さを楽しむにはちょうど良いと考えたのだ。ベースのトンカビーンズが柔らかく包むので、香りもきつすぎずちょうど良い。いわば、まだ見ぬ土地への憧れやトキメキ。胸の高鳴りを思い出す、あの一瞬が詰まっている。
逆に、長いもので数日ほど楽しむことが出来るベースノートには、チェリーブロッサムに近い香りを持つトンカビーンズに、チェリーの葉や枝とサンダルウッドをブレンドすることにした。記憶の中にうっすらと存在しているチェリーブロッサムの香りを忠実に再現してくれるはずだ。自然と香る柔らかな香りは、リラックスさせるにもちょうど良いだろう。
そして、ミドルノート。マリアは、優しい甘さと樹木の香りを持つそれぞれのオイルを使う。トップノートとベースノートに相性がよく、それぞれの香りのギャップをうまくつないでくれるだろう。チェリーブロッサムの豊潤な香りを思わせるだけの奥行きもある香りだ。チェリーの花も、塩漬けにしたことで良く香りがたっている。
マリア自身も初めての組み合わせだったが、瓶の中から香るそれは、今まで作った香りの中でもトップを争う良い出来だった。後はアルコールと混ぜて希釈し、数日なじませれば、チェリーブロッサムの香水が完成するだろう。
念のため、ホホバオイルとまぜた香油も作っておく。こちらは、王妃様の体調が芳しくない時の、あくまでも補助的なものだ。必要がなければ自分で使う。むしろ、使いたい。邪推な気持ちにフタをして、マリアはゆっくりとアルコールを瓶に注いだ。
(ようやく完成するのね……)
マリアは瓶の中に揺れる液体を見つめて感慨に浸る。
「長かったような、短かったような……不思議な時間だったな……」
せっかくガーデン・パレスに来たというのに、リンネに案内をしてもらった初日と二日目以外は、ほとんど実験室にこもりきりだった。マリアは、もう少し見て回れば良かった、と後悔する。仕事で来ているので、あまりゆっくりと休むことも出来なかったが、完成してからなら少しくらいは良いのではないだろうか。マリアはそんなことを考えながら、瓶を見つめた。
「そうだわ……」
マリアは、不意に思い立ち、残っている材料や机に出したままのオイルを数種類手に取った。
「リンネちゃんには……この香りと、それから、これも足して……」
先ほど作ったものと少し分量を変えながら、他の香りを足していく。
「これで少しでも、リンネちゃんにお礼が出来ると良いのだけど……」
マリアはそう呟いて、調香を再開するのだった。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
ついに、チェリーブロッサムの香りを完成させることが出来ました!
マリアと一緒に喜びやトキメキを皆様にも感じていただければ幸いです。
これからもまだまだマリア達のお話は続きますので、ぜひぜひよろしくお願いします。
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20/6/21 段落を修正しました。




