恐怖を乗り越えて
さて、時を少し戻して。ハラルドがアイラをソワソワと待っていたころ。
マリアもまた、城下町で一人、ソワソワと視線を彷徨わせていた。いつもであれば、行き交う人や馬車、ショーウィンドウに飾られた品物に目を輝かせているところだが、今日はそれどころではない。
開花祭を意識した、花とハートの飾りや、ピンク色の可愛らしいオブジェが城下町のありとあらゆるところを飾り立てていて、それが妙にくすぐったかった。
(変じゃない、かしら……)
昨日から悩みに悩んで、ようやく決めたワンピースを軽くつまみ上げて、マリアは店先のガラスに映りこむ自分の姿を見つめる。
セーラー服のような大きめの白い襟には細かなレースが編み込まれ、まるで愛らしい着せ替え人形のドレスのようである。胸元にあしらわれた花の刺繍が春らしく、生地全体の淡いピンクとも、パープルともとれぬ絶妙な色合いが、さらに春の訪れを感じさせる柔らかな雰囲気を醸し出していた。
本人は気づいていないが、当然、その愛らしい姿は、傍目から見れば、良いところのお嬢様である。開花祭を、恋人とも夫婦とも過ごせぬ独り身の男性が、そんなマリアに見惚れてしまうのも無理はなかった。もちろん、そのことにもマリアは気づいていないのだが。
(ケイさんのお話って、何かしら)
マリアの頭の中はもはやケイのことでいっぱいで、刻一刻と、待ち合わせ時刻に近づく時計を緊張の面持ちで見つめるしか出来ない。
だからこそ、そんな無防備なマリアが、自らの身の危険に気づくのが遅れてしまったことも仕方がないことであった。
「お嬢ちゃん、せっかくの開花祭なのに一人かい?」
まだ昼前だというのに酒の匂いをプンプンと放ち、顔を赤らめた男がマリアに話しかける。
「え?」
マリアがその男性に視線を向けた時には、もはや時遅し。男はニヤニヤとした表情でマリアの手を掴んだ。
「お嬢ちゃん、さっきから一人で、寂しいんだろう?」
「い、いえ……知人を、待ってますから」
無理やり手をほどこうにも、相手が男ではマリアも手を振りほどくことが出来ない。男が息を吐くたびに、酒の匂いが辺りに漂い、香りに敏感なマリアは思わず顔をしかめる。
「待ち合わせ……?」
男は少し首を傾げ、あたりを見回してからマリアの手を掴む力を一層強めた。
「男か!? 男を待っているのか!?」
突然、目の前の男が発した怒鳴り声に、マリアは思わず身を縮めた。いくらマリアでも、ここまで理不尽な怒りには慣れていない。ましてや、話の通じそうな相手でもなく、マリアはただただ恐怖に身を固める。
「どいつも! こいつも!」
何が開花祭だ、と大声を上げる男は、自らに良い相手が出来ないせいだろうか、他人の幸せがどうにも気に入らないようで、強い憎悪の瞳をマリアに向けた。
「手を、離してください……」
マリアの震える声に、男は何を思ったか、途端に表情をニタリといやらしいものに変える。
「お嬢ちゃん、君は本当に可愛いねぇ」
「やめて、ください」
「ふ、ははは! どうしようかなぁ。君が、この場で僕に泣いて懇願してくれたら、僕も紳士だからねぇ。考えてやらないこともないなぁ。んふっ……ふふっ」
男は狂ったように笑う。マリアはあまりの恐怖に、視線を落とした。
(ケイさん……!)
マリアがぎゅっと目を閉じたその瞬間、
「ぐぇっ!?」
と男のつぶれたような声がして、マリアの手を掴んでいた男の手が離れていく。
その数秒後には、ダァンッ! と激しく何かがぶつかったような音がした。
「……ぇ?」
マリアが恐る恐る目を開けると、そこには、視線だけで人を殺せるのではないかと思うほどの鋭い目つきを男にむけたケイが立っていて、男は、というと、およそ一メートルはあろうかという距離、その先に倒れていた。
周りの観衆からは拍手と歓声が沸き起こるが、ケイは全くそれには無関心で、恐らくケイが殴り飛ばしたであろう男に歩み寄る。
「ひ、ぃ……っ!」
男の小さな悲鳴が聞こえたが、ケイに情けはない。これでもか、と鋭い眼光を男に向け、それから一言、冷たい声でぼそりと呟いた。
「貴様の顔は覚えた。二度目はない」
その時のケイの姿を見ていた観衆は、それ以降、少しばかり酒を控えよう、と心に固く誓ったという。
男は脱兎のごとくその場を立ち去り、人混みの中へ消えていった。いまだ恐怖で立ちすくむマリアは、ケイの背中を見つめる。
ケイは片手で眉間のあたりを軽くつまんで、はぁ、と息を吐くと、そっとマリアの方へ視線を向けた。
「ケ、イ……さ……」
マリアは、穏やかなケイの瞳に、どっと安堵が押し寄せてくる。腰が抜け、地面へとへたり込みそうになるマリアを支えたのはケイで、その姿はまさに、おとぎ話に登場する王子様だった。
「すまない」
耳元で優しくささやかれる落ち着いた声が、マリアの早まった鼓動の速度を下げていく。マリアをそっと立ち上がらせたケイの表情は悔しさに歪んでおり、ケイが離した手の体温が名残惜しかった。
ケイの顔を見たマリアは、思わず、ケイの頬にそっと手を寄せる。
「どうして、ケイさんが謝るんですか」
ケイはうつむいて、ぐっと拳を握る。それが、今までに見たどんなケイよりも子供っぽく、マリアは思わず柔らかに目を細めた。
「もう、大丈夫です」
マリアの手がそっと移動して、ケイの握った拳に触れる。
「ケイさんが守ってくれましたから」
マリアのあたたかな声が、穏やかな笑みが、優しい体温が……そして、春のような花の香りが、ケイの心を落ち着ける。
「ありがとうございます、ケイさん」
マリアが満面の笑みを見せると、ケイの強張っていた体の力が抜ける。今度はケイがその場にへたり込み、マリアは慌てふためいた。
すっかり縮こまったケイに、マリアもしゃがんで目線を合わせる。普段、背の高いケイを見上げているせいか、同じ目線になるのは新鮮だ。
不意に顔を上げたケイと視線がぶつかって、バチン、と星が飛び散る。だが、ケイはその瞳をそらさずに、マリアの姿をその瞳に、脳裏に、心に焼き付けるように見つめ続けた。
「無事で、良かった……」
そして、ケイはゆっくりとマリアの髪を掬い取って、そこにそっと唇を落とす。
「なっ……!?」
ケイの予想外の行動にマリアが声を上げると、ケイも我に返ったようでぱっとその手を離す。だが、一度してしまった行為を消すことは出来ず、ケイはカッと顔を赤く染めた。
「あ、安心したら! 腹が減ったな!」
わざとらしいくらい大きな声でケイはそういって立ち上がる。マリアも
「そ、そうですね! おなか、すきましたね!!」
と棒読みである。
二人はそれから視線を合わせることも、会話をすることも出来ずに、ただ顔を真っ赤に染めてレストランまで歩いたのだった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回から、いよいよマリアとケイのデートが始まりました。
波乱の幕開けですみません……! その分、次回からさらにお砂糖多めでお送りしますので……こりずに最後までお楽しみいただけましたら幸いです!
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