久しぶりの休息
実験室の扉をノックされ、マリアはようやく晩ご飯も食べずに作業していたことに気づいた。
「調子はどう?」
扉の方を振り返ると、シャルルが立っている。どうしてこんなところに、とマリアが聞く前に、シャルルは口を開く。
「王妃様がお待ちかねでね。様子を見に来たんだよ」
急かしているわけじゃないけどね、と付け足して、シャルルはにこりと微笑んだ。
「まさか、こんな遅くまで仕事をしてるとは思わなかったけど」
「全然気づかなくって。もうすぐ完成だって思うと、つい」
「マリアちゃんらしいけどね」
シャルルはそう言って、マリアの隣に腰かけた。そして、左手に持った紙袋を差し出す。
「良いお友達も出来たみたいだね」
「え?」
マリアが受け取った紙袋には『がんばれ! リンネ』と書かれている。中にはフルーツサンドが入っており、マリアはその香りに空腹感を思い出す。
「休憩もかねて、食堂へ行こうか」
「はい、ぜひ」
シャルルが立ちあがり、自然に手を差し出されてマリアは思わず手を重ねる。
なんてことを、とマリアが自身の行動に気づくのはもう少し後になってからのことだ。
「ん~~~。おいしい……!」
フルーツサンドを頬張りながら幸せそうに目を細めるマリアに、シャルルはクスクスと笑った。そして、マリアの口の端についたクリームを指でぬぐい取ってペロリと舐める。
「!!」
「本当だ、おいしい」
その行動にマリアが顔を真っ赤にしたことにも気づかず、当の本人はクリームのかけらを堪能しているようだった。マリアはパタパタと手で顔を仰ぎ、頬の熱を冷ます。
「シャルルさんは、遅くまでお仕事だったんですか」
マリアは意識しないよう話題を変え、出来る限り普段通りにふるまった。シャルルも気にしていないようで、いつものことだ、と言うようにさらりとうなずく。騎士団長というのは大変な責務だろう、とマリアは思うのだが、シャルルはそんな姿を全く見せる素振りがない。不思議な人だ。
(シャルルさんもきっとお疲れなのに、わざわざこうして足を運んでくださってるんだもの……。一日でも早くチェリーブロッサムの香りを完成させないと……)
マリアがそんな風に考えていると、
「うん。マリアちゃんは少し休んだ方がいいね」
シャルルはそんな風に言って笑った。
「せっかくのかわいい顔が台無しだよ」
シャルルはマリアの頭をくしゃくしゃと撫でる。マリアはシャルルにこうされると恥ずかしいのだが、兄妹とはこういうものなのだろうか。シャルルの癖みたいなものかもしれない、とそんな風に考えてマリアはやり過ごす。
「明日は休んだら? いいアイデアに休息は必要だよ。王妃様には僕から言っておくからさ」
シャルルはひとしきりマリアの柔らかな髪を堪能したのか、手を離してそう言った。
「ですが……」
「騎士団長命令だよ」
マリアの口を人差し指でふさいで、シャルルはにっこりと目を細める。いつもの柔らかな笑みの裏に、有無を言わせぬ強い意志が見える。仕方なくマリアが、わかりました、と小さくうなずくとシャルルは満足げに微笑んだ。
「昨日、マリアちゃん、シャルル様と話してたでしょ!」
休みを与えられたのは、マリアだけではなかった。リンネも所長直々に休んでいいと言われたのだという。珍しいこともあるもんね、とリンネは嬉しそうに笑っていたが、昨日マリアと別れたシャルルがきっと進言したに違いない。
(本当に優しい人だわ……)
「で、どうしてシャルル様があそこに?! マリアちゃんの何?!」
リンネはにやにやとした笑みを浮かべて、マリアを見つめる。
「何ってそんな。お客様だってば」
マリアが慌てて取り繕うと、怪しい、とリンネはますます笑みを深める。本当に何もないのだが、相手が相手だ。リンネも放ってはおかない。
「騎士団長のシャルル様が直々に会いに来てくれるなんて……そんなのお客様以上だよ、絶対!」
リンネはこの手の話が好きなのか、どんどんとヒートアップしていく。
(そういえば、女の子が少なくてガールズトークみたいなものがしたくても出来ないって言ってたっけ……)
マリアはあれやこれやと妄想にいそしむリンネを見つめた。
これが他人の話であれば、マリアもニコニコと聞いていられるのだが、自分の話ではいささか反応に困る。
「リンネちゃんの服って、もしかしてミュシャの?」
この話題を早く終わらせよう、というマリアの意図には全く気付かず、リンネはパッと目を輝かせた。
「そうなの! わかる?!」
リンネの今日のコーディネイトは、明るいベージュのコートに、黒のタンクトップ、ボトムにブーツといういかにも今時の女の子、という服装だ。しかし、マリアの目には分かる。ベージュのコートは襟の部分に黒い糸で細かな刺繍がされていて、そこに星座のモチーフが紛れ込んでいる。ミュシャが昨年手掛けた星座シリーズのものだ。黒のタンクトップも、胸元にあしらわれたレースがミュシャ特有の繊細な模様を描いていた。
「私、田舎育ちだからさ。いまだに流行とか気になっちゃうんだ。最近はね、ミュシャの作った服がすっごくお気に入りなんだ! 私みたいな人でも、ちゃんと女の子っぽくなるっていうか!」
リンネは、さらに声をワントーン上げて楽し気に話しだす。マリアからすれば、リンネは十分女の子らしいのだが、本人は気にしているようだ。ミュシャが聞けば泣いて喜びそうなことを、リンネはポンポンと口に出す。
(ぜひ、ミュシャに聞かせてあげたいくらいだわ……)
話題を変えたいとは思っていたが、ここまでとは。
マリアは、冷めた紅茶を口に運びながら、リンネの話を聞いていた。
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20/6/21 段落を修正しました。




