前進
(そもそも、香りが薄い……。ベースの香りは近いけれど、チェリーブロッサムはもっと豊潤で、複雑な……)
マリアは実験室で一人悩んでいた。
あの後、葉や枝も試したが、結果は同じだった。少なくとも、葉や枝は花に比べれば香りが濃いものの、チェリーブロッサムの香りには程遠い。数日、いくつかの香りを作っては調香してみたが、どれもうまくはいかなかった。
リンネも自分の仕事に戻ったようで、顔を合わせるのはご飯の時間だけだ。
「マリアちゃん、これおいしいよ!」
マリアを気遣ってか、リンネは自らの食器に盛られていたハンバーグを差し出す。マリアはそのままぱくりと一口。肉汁と甘めのデミグラスソースがよく合っている。
「うん、おいしい。リンネちゃん、ありがとう」
マリアも、お返しに、とリンネに白身魚のムニエルを差し出す。リンネもそれを口に運んで、満足そうに微笑んだ。二人の様子を周りの研究員たちはほのぼのと見つめる。もぐもぐと口を動かしてから、リンネは、それで、と話を切り出す。
「香り作りは順調?」
「それがなかなかうまくいかなくて。今日は、全然違うもので作ってみようと思っていくつか試してたんだけど、やっぱり少し違うの……」
「そっかぁ。大変なんだね……。何か手伝えるといいんだけど」
「ううん、気持ちだけで嬉しい。ありがとう」
リンネの心遣いをマリアは感じ取って、小さく首を横に振る。
(あくまでも自分の仕事だ。最後までやり遂げなければ……)
「それにね、何もかも失敗ってわけじゃないから。少しずつ近づいてきてる感じもするし」
マリアの言葉に、リンネは微笑む。
「マリアちゃんって前向きだよね。えらいなぁ。私も頑張らなきゃ」
「リンネちゃんは、何の研究?」
「今は、カンポウの本を読むために言葉の勉強中……」
リンネはよっぽどそれが苦痛なのか、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「難しいの?」
「信じられないよ! わけのわからないくちゃくちゃの文字が並んでるの」
リンネは思い出してしまった、と言わんばかりにため息をつく。よほど大変なようだ。後で、実験の副産物でとれた精油でアロマでも焚いてあげよう、とマリアは思う。
「ねぇ、マリアちゃん。そこのお塩とってくれない?」
リンネに言われて、マリアは目の前にあった塩を取る。リンネに渡すと、リンネはそれをサラダにパラパラと振りかけた。普段、ドレッシングやマヨネーズを使うマリアが
(珍しい食べ方だわ……)
と見つめていると、リンネは照れ臭そうに笑う。
「これね、昔からばあちゃんがやっててさ。野菜の香りが増す感じがするっていうか……」
「へぇ……。お塩で香りが……」
マリアはそこまで言葉にして止まる。リンネもまた、同じようにサラダに伸ばした手を止めた。
二人は、パチン、と何かがはまるような、そんな感覚に陥る。
「リンネちゃん……」
「マリアちゃん!」
互いに顔を見合わせて、それから食べかけの料理を慌てて口に入れた。そして、トレーを返却口へ戻す。
「あの! お塩、いただけませんか!」
返却口で声をあげたマリアに、シェフが驚いたようにマリアを見た。
「あぁ、君この間の! 塩なら、そのへんにあるやつを持って行ってくれていいけど……」
「ありがとうございます!」
シェフの言葉に、マリアとリンネは大きく頭を下げる。近くのテーブルに置いてあった塩の瓶を三つほどつかんで、二人はできるだけ早足で実験室へと急いだ。
マリアは残っていたチェリーブロッサムの花と葉を鍋に入れる。リンネは塩の入った瓶の蓋を次々と開けていく。
「入れるよ」
マリアがうなずくと、リンネは大量の塩を花や葉に振りかけた。網をその上にしき、空になった塩の瓶を重石代わりに置く。
「こんなもんかな」
「これで、うまくいくのかしら」
「私たちの考えがあってれば、ね」
マリアとリンネは異様な状態になった鍋を見つめた。数日ほど置いておけば、塩によって水分が出てくるはずだ。しばらくは待つしかなさそうだった。
「待ってる間は、また他の香りを試してみるね」
「うん、頑張って!」
「リンネちゃんもね!」
今度こそうまくいきそうだ、という確信めいたものが二人の心には芽生えていた。マリアとリンネは互いに微笑みあった。
——二日後。
マリアとリンネは鍋の前で顔を見合わせた。チェリーブロッサムの花に似た香りが、あたりを包んでいる。柔らかく、豊潤な春の香りだった。
「今朝からね、少しずつ香りは強くなってたんだけど」
マリアがそういうと、リンネは目をキラキラと輝かせてうなずいた。
「すごく似てる気がする!」
リンネは自分のことのように喜んで、香りを堪能するように大きく息を吸う。リンネの様子に、マリアも自信を持つことが出来た。
「これをベースに調香してみる!」
マリアは、ぐっとこぶしを握りしめる。チェリーの塩漬けが出来るまでの間に試したレシピと香りを思い浮かべ、この香りがベースなら、と頭の中で考えていく。リンネも、そんなマリアを見て嬉しそうに微笑んだ。
「良かったね、マリアちゃん」
「リンネちゃんのおかげよ、本当にありがとう」
「いやいや! 私は何も! でも、マリアちゃんが元気になって良かった」
リンネは照れたように笑い、マリアも嬉し気に微笑んだ。
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20/6/21 段落を修正しました。




