レモンタルト
木曜日。通常であればパルフ・メリエは定休日だが、特別なお客様――アイラのために、マリアも朝から気合を入れていた。
アイラが心ゆくまで調香に挑戦するためには、じっくりと時間を取らなければならない、というマリアの申し出に、アイラがわざわざパルフ・メリエの定休日に合わせて、休みを取ってくれたのだ。
マリアと同じく、仕事熱心なアイラが、仕事以外にこんなに夢中になるなんて。余程、ハラルドのことが大切なのだろう。シャルルへの思いは、今や、すっかりハラルド一色である。
「調香って奥が深いのね……」
アイラは先ほどから、様々な香りの組み合わせを試しては、何かが違う、と難しい顔をしている。相性の良い香りを集めているので、マリアとしては十分良い香りに仕上がっていると思うのだが、ハラルドに渡すことを考えると、アイラの気持ちも理解は出来た。
たった数滴、ほんの少しの分量の違いで、随分と香りの印象が変わってしまうこともあるし、時間の経過によって変化することもある。もちろん、香り同士の相性や、相手の好みなどにも左右されるので、想像しているよりも難しい。とにかく地味で繊細な作業なのだ。そういうことが好きな人間でなければ、匙を投げてしまうこともあるだろう。
「アイラさんは、センスがいいので、教えがいがあります」
マリアがフォローを入れれば、アイラは曖昧に微笑んだ。
「ありがとう、マリア。でも、改めてマリアがすごい調香師なんだって分かったわ。マリアは、調香するだけじゃなくて、精油も作ってるんでしょう?」
アイラは精油瓶に入った液体をぼんやりと見つめる。実際、精油を取り出す作業の方が数倍大変なので、マリアとしては苦笑するしかない。
「でも、好きだから、続けられるのよね」
その言葉をこぼしたアイラは、どこか遠い目をしていた。
「少し休憩にしましょうか。リラックスすれば、良い考えも浮かんでくるかもしれません」
マリアが声をかければ、アイラも素直にうなずく。調香の部屋を一度出れば、冬のひんやりとした空気がリビングには横たわっていた。アイラが手土産に持ってきてくれたレモンタルトの入った小さな箱を取り上げ、マリアはティータイムの用意を始める。
「そこのレモンタルト、すっごく美味しいのよ」
アイラの声色は柔らかで、マリアは思わず微笑んだ。
「もしかして、ハラルドさんのおすすめですか?」
マリアはポットを火にかけて、箱からタルトを取り出す。一口サイズのレモンタルトが、四つ綺麗に並んで入っている様は美しい。タルトを飾るレモンの輪切りが、見た目にも美味しそうだ。
「ふふ、そう。彼、レモンが好きなのね」
背中越しにかかる声から、アイラが幸せそうな笑みを浮かべていることは、マリアにも分かる。
紅茶を注ぎ、レモンタルトを二つずつ皿にのせて、テーブルの上へ並べれば、アイラはキラキラと目を輝かせた。もちろん、甘いものが大好きなマリアも同じく。
「いただきましょう」
アイラに促され、マリアはそっとタルトへフォークをいれる。ほろほろと崩れる生地は、スノーボールに近いかもしれない。
「んん~~~~!! 美味しい!」
口に入れた瞬間にふわりと香るレモンの酸味と苦みを追いかけるようなチーズの香り。タルト生地の優しい甘さが相まって、マリアはうっとりと目を細めた。
アイラはそんなマリアを見つめて、静かに微笑む。
実の妹のようにかわいがってきたマリアが、春になれば旅に出るのだ。そして、いずれは自分も結婚して家庭を持つことになる。気軽に会うことは難しくなるだろう。
「結婚、かぁ……」
アイラがレモンタルトの甘酸っぱさを堪能しながらつぶやくと、マリアの瞳は真剣なものになった。
「アイラさんは、結婚されたら、お仕事はどうされるんですか?」
図書館司書という仕事は、マリアからしても、アイラの天職だと思う。
もちろん、アイラとしても、これまでも真面目に働いてきたつもりだ。これからも、働きたいとは思う。だが……。
「実は、悩んでるのよね。ほら、実家が商店をやってるでしょう? 父は、店をつぶしたくないみたいなの。もちろん、私もお店は続けて欲しいけど……」
アイラはそこで言葉を切った。
「大好きなお仕事は、簡単にはやめられませんよね」
マリアの相槌に、アイラは寂し気に笑った。
「ハラルドがね、僕があの店を継ぐから、君は今まで通り司書として働いてもいいっていうのよ」
「ハラルドさんが?」
「えぇ。彼も、博物館での仕事が大好きなのに」
アイラは小さくため息をついて、紅茶を口へ運んだ。
結婚は何も幸せな側面ばかりではない。人生における大きな決断だからこそ、考えなければならないこともたくさん出てきてしまうのだろう。
「私の実家のことだもの。ハラルドが継ぐなら、私だけ好きなことをやるってわけにはいかないわ。だから、やっぱり、私も商店を継ごうかなって思って……」
迷いを見せるアイラは新鮮で、マリアはあんなにしっかりしているアイラでも、迷うことがあるのか、とそんなことを考えてしまう。
「ハラルドと一緒なら、なんでもできる気がするのに不思議でね。いざ、司書の仕事をやめようか、って考えると、少しだけ足がすくんじゃうのよ」
アイラはバツの悪そうな笑みを浮かべて、残りのレモンタルトを口へ放りこんだ。ゆっくりとその残りを噛みしめる。
「ずっと続けてきたお仕事ですから、簡単に決められないのは当たり前のことだと思いますよ」
マリアは、共感しかできない自分に少しの悔しさを覚えながら、アイラと同じようにタルトの残りを口へ放り込んだ。
アイラは少し考えこむようにうつむいていたが、しばらくすると、一人うなずいた。
「マリアの言うとおりね。なんだか焦ってたのかも。開花祭で振られちゃうかもしれないのにね」
冗談交じりに笑うアイラに、マリアは首を横にふる。少なくとも、振られることはない。アイラが、逆に、プロポーズを受けることはあっても。
「きっと、ハラルドにプレゼントする香りを完成させることが出来たら……、どんなことでも出来るわよね」
アイラは何かを決意したようだった。ようやく少し明るい表情が戻り、マリアも出来る限りの笑みを浮かべる。
「はい! アイラさんなら、きっと大丈夫です」
マリアの励ましに、アイラは背筋を伸ばしてうなずいた。
ハラルドに贈る香りを、満足に作ることが出来たら。開花祭で、ハラルドに結婚を申し出ることが出来たら。もしも、ハラルドがそれを受け入れてくれたら……。
アイラはその時、全てに決心をつけることが出来るだろう。そして、結婚するということが、一体どういうことなのか、初めてその本当の意味に気づけるのだろう。
「よし! もうひと頑張りね!」
アイラはうんと体を伸ばして、すっきりとした笑みを見せた。
窓の隙間から吹き込んできた風が、レモンタルトの、爽やかな残り香を運ぶ。
その瞬間、アイラの頭の中にはふわりと、ハラルドへ贈る香りのイメージがよぎった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
本日は久しぶりに新しいブクマをいただきまして、大変嬉しい限りです。
お手に取ってくださる皆様、本当にありがとうございます!
今回は、アイラがハラルドに贈る香りを頑張っていましたが……そうそううまくはいかないものです。
次回、アイラがさらに頑張りますよ~! お楽しみに*
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