ディアーナとの約束
「旅?!」
城内に響き渡るのではないかと思うほどの大きな声をあげたのは、ディアーナである。彼女が驚きのあまり、突然立ち上がった反動か、テーブルの上に並べられていたティーカップや食器はカチャカチャと音を立てた。
「ディアーナ様、落ち着いてください」
メイドがやんわりとディアーナをたしなめると、本人も我に返ったのか、慌てて席へ座りなおした。
「ごめんなさい、その、驚いてしまって……」
「こちらこそ、驚かせてしまって申し訳ありません。ディアーナ王女には、どうしても直接お伝えしなければと思いまして」
マリアが深く頭を下げると、ディアーナは困ったように眉を下げた。
「謝らないでちょうだい。でも、どうして急に?」
「色々と考えたんですが……、もっと良い香りを作るために、いろんなものや場所、人と出会って、勉強しなくてはと思いまして」
マリアの返事を聞いて、ディアーナはうつむいた。
「そう……。それなら、引き留めることも出来ないわね」
「すみません」
「いいのよ」
ディアーナは首を横に振ってから、「あ」と声を上げる。
「でも、それじゃぁ、調香の依頼はどうしましょう」
ディアーナの困惑したような表情に、マリアは顔を上げる。
「実は、そのことなんですが……」
マリアは少し逡巡してから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「調香のご依頼は、今まで通りお引き受けしたいと思っています。調香は、場所を選びませんから。……ただ」
ディアーナは、ちらりと視線をマリアへ向け、続きを促す。
「以前のように何でも作れる、という訳にはいかなくなってしまうと思います。ですので、ディアーナ王女が、それでも良いとおっしゃってくださるのなら、喜んでお引き受けいたします」
申し訳ありません、と深く頭を下げるマリアに対し、ディアーナは柔らかく笑みを浮かべた。
「いいわ。私は、マリアの作る香りが好きなんだもの」
ディアーナの言葉に、マリアは驚いたようにバッと顔を上げた。まさか、そんな言葉をいただけるなんて。マリアはじんわりと心のうちに広がる温かな感情に涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。
「その代わり」
ディアーナはいたずらっ子のような表情でマリアを見つめる。
「国のあちこちを回るんでしょう? だったら、その場所を表すような、そういう香りを作って届けてちょうだい」
ディアーナはにっこりと笑みを浮かべ、
「ね」
と首をかしげた。
ディアーナからの予想もしていなかった宿題に、マリアが驚いていると、ディアーナは続ける。
「私はあまり城を離れることが出来ないけれど、マリアの香りで国中を旅するわ。本当にその地を訪れるときには、その香りを身に纏うの。どう? とっても素敵なことだと思わない?」
ディアーナはうっとりと目を細め、その時が来るのを心の底から楽しみにしているようだった。
ディアーナにそこまで言われては、マリアも断ることなどできるはずもない。いや、そもそも、訪れた場所を表すような香りを作る、なんて魅力的な誘い文句を、マリアが断れるはずもなかった。
「分かりました、ディアーナ王女。必ず、お約束いたします」
マリアが力強くうなずくと、ディアーナはパッと明るい表情を浮かべる。
「ふふ、エトワールと一緒に、楽しみにしているわね」
「そうだわ! 旅はどれくらいの予定なの?」
「一年くらいを考えています。そのあとは、またパルフ・メリエに戻るつもりです」
マリアの返事に、ディアーナは恐る恐る、といった様子で口を開く。
「ねぇ、秋には必ず、城下町へ寄ってくださらない?」
「秋、ですか?」
マリアは聞き返してから、その質問の意図に気づいて声を上げる。
「もちろんです! 来年の秋には必ず、とびきり素敵な香りと一緒に、ディアーナ王女のもとへお伺いします!」
来年の秋、ディアーナはついに結婚できる年になるのだ。ちょうど誕生日のお祝いとともに、エトワールとの結婚を発表するのだろう。
マリアが満面の笑みを浮かべると、ディアーナは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
照れ隠しか、ディアーナは少しだけ大きな声を上げて、
「約束よ! 世界で一番、素敵な香りを作ってちょうだい!」
とマリアの方へずいと顔を寄せた。
世界で一番素敵な香り、とはまた難しい調香依頼である。だが、いつか、そういう香りを作れるようにならなければ。
マリアはもう一度力強くうなずいて、真剣な瞳をディアーナへとむけた。
「必ず。お約束します」
もちろん、その時に出来る限りの精一杯をいつだって作ってきたつもりだ。だが、世界で一番、と言われればどうだろう。それほどの覚悟で調香をしたことなどないような気がする。だからこそ。
マリアは顔を上げる。世界で一番、そう思えるような香りを作るために。
ディアーナは何やらメイドに耳打ちをすると、マリアの方へゆっくりと視線を向けた。
「マリア、しばらく会えなくなってしまうのは寂しいけれど……元気でね」
「ありがとうございます。ディアーナ王女も、お元気で」
ディアーナは少し寂し気な表情を見せたが、頭を下げるマリアにはその表情は見えなかった。
「あなたに、もしも困ったことがあったとき、私が出来ることは少ないけれど……」
ディアーナはメイドから何やら小さな箱を受け取ると、それをマリアの方へ差し出した。マリアが不思議そうにそれを見つめれば、
「開けてみて」
とディアーナが促す。
そっと開けた箱の中には、美しいブローチが入っていた。王家の紋章をかたどったかのような金色の細かな装飾が施された台座の上に、ルビーが三つちりばめられている。
「これは……」
「少し早いけれど、私からの餞別よ」
ディアーナは穏やかに微笑んだ。
「普段は持ち歩いているだけでいいわ。でも、本当に困ったときは、それを使ってちょうだい。騎士団の人間か……ある一定以上の貴族になら通用するはずよ。もちろん、悪い人たちにお金を出せって脅されたら、それを渡してしまえばいい。命に代わる、お守りだと思って」
まさか、それが王家の認めた超一流の人間が身に着けるものだとはマリアも知る由もない。ディアーナは押し付けるようにマリアへそれを渡す。
「無事で帰ってきてね」
マリアが断る隙も与えず、ディアーナはマリアに箱を握らせる。
「あなたがもっと素敵な調香師になって戻ってくることを、楽しみに待っているわ。マリア、これは、友達としての約束よ」
箱を包むマリアの手を、ディアーナは上からそっと握り、そして美しく微笑んだ。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は、久しぶりにマリアとディアーナのお話でしたが、お楽しみいただけましたでしょうか?
旅立ちは、ほんの少しだけ寂しいお別れを連れてきますね。
ディアーナのブローチを使わなくて済む旅になることを皆様でお祈りいただけると嬉しいです*
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