二人の道
マリアはくしゃみを一つして、ぶるりと体を震わせた。雪は止む気配すらなく、そのせいか、久しぶりにパルフ・メリエもひっそりとしている。客が一人も来ない一日はいつぶりだろうか。マリアは窓の外をチラチラと落ちていく雪を見つめながら、動かしていた手を止めた。
マリアは今、在庫表と帳簿、そしてレシピのノートを見比べていた。
冬の時期は、出回る精油の種類も限られる上、雪の降る地域や路面が凍結するような地域との交易も途絶えてしまうので、材料すら手に入りにくい。
だが、今年のパルフ・メリエは盛況。いくつかの香りはすでに品切れ状態であり、このままいけば、全ての在庫が冬のうちにはけてしまうのではないか、という状況だった。
「困ったわ。このままじゃ、お客様が望むような香りをお届けできなくなっちゃう」
マリアは小さくため息をついた。
「開花祭には新しい香りも売り出そうと思っていたのに」
どうにも、それどころではなさそうである。せめて、材料を買い付けに行く時間が取れれば、やりようもあるが、一人ではそれすらできない。
「やっぱり、誰か人を雇うか……」
マリアはチラリと脇に置かれた王国の地図へと目をやった。
「新しい香り探しの旅、かぁ」
マリアは深く息を吐いた。
ミュシャはおそらく、本気ではなかったのだろう。マリアが本気にするとも思っていなかったはずである。だが、ミュシャの提案は、マリアにとってはとても魅力的なものに思えた。
これまで真面目に働いてきたおかげで貯金はある。一年ほど気ままに国内を旅するくらいであれば、なんとかなりそうだ。
パーキンや、カントス、クリスティといった調香師と出会ったことで学ぶことも多くあった。この国には、まだまだ香りを売る店はあるし、調香師もたくさんいるだろう。そういった店を回ることは、マリアにとって良い勉強になることは間違いない。様々な場所で手に入る特有の香りもある。
「ミュシャも、独立っていう新しい道を選んだのよね」
ミュシャだけではない。マリアが出会ってきた人たちはみな、何かを決断し、変わることを恐れずに前へと進んでいるのだ。現状に満足することなく、常に前へと。
マリアもその気持ちは同じだった。もっともっと、たくさんの人を香りで幸せにするためには、少なくともこのままではいけないと分かっているのだ。
長い付き合いであったミュシャとの別れは、マリアにとっては将来を考えるきっかけとなった。これまで続いてきた日常が、ずっと続くのだと、心のどこかで思っていたマリアには、それは苦い良薬である。
「もし、旅に出るなら」
マリアはぼんやりと暖炉の明かりを見つめた。
ゆらゆらと揺れる炎が、マリアを空想の世界へといざなう。
いろんな町、いろんな人、いろんな香り。マリアのまだ知らない、果てしない世界が、新しい輝きが、マリアの胸を自然と弾ませる。
誰かを雇ってここでずっと仕事をするよりも、旅をする自分の姿の方がより明確に描けてしまうのは、どうしてなのだろうか。
ミュシャからの調香依頼を受け、もっと新しいものに挑戦したいと思ったこと。パーキンやカントスと商品開発をして、刺激を受けたこと。
もっと、自分自身の可能性を広げたい。
祖母が亡くなってからのここ数年は、自らが作ることばかりで、純粋に香りを楽しんだり、香りの勉強をすることもだんだんとなくなってしまった。
「やっぱり、私……」
マリアは顔を上げる。在庫表も、帳簿もたたんで、マリアは王国の地図に手を伸ばす。
「このままじゃ、いけないわ」
広げた地図は随分と大きく、マリアの視界には収まりきらない広大な王国が描かれている。初めて見るものではないというのに、それは、いつもよりも鮮やかで、キラキラと輝いて見えた。
「うん。決めた!」
マリアは地図を丁寧に折りたたんで立ち上がり、よし、と気合を入れなおす。やらなければいけないことはたくさんある。
(ミュシャにも、話さなくちゃね)
マリアは決意を新たに、静かな店内で一人忙しく動き回るのだった。
一方、そのころ、ケイと別れたミュシャはくしゃみを一つして、体をぶるりと震わせた。
「さむ……」
マフラーも、手袋もして、防寒はばっちりなはずだが、やはり暖かい店内を出たばかりだからだろうか。コートの前ボタンをきっちりとしめなおし、帽子を目深にかぶった。
「本当に大丈夫かな」
マリアは、ああみえて頑固なところがあるのだ。とくに、自分の好きなことに関しては。旅をあきらめてくれること、そして、あわよくば人を雇ってくれること。ミュシャとしてはそれを一番に望んではいるが、先日の様子では、恐らくそれもかなわないだろう。
「あんなこと、言わなきゃよかったな」
考えれば考えるほど後悔は募る。
だが、実際のところ、マリアの将来や幸せを考えれば、旅に出ることは存外悪い選択肢ではないのだ。ミュシャが言うだけのことはあって、やはり、マリアにとっても必要なことだろう。ミュシャが独立をするように。
不本意ではあるが、ケイにもああいったことだし。
ミュシャは自分自身にそう言い聞かせて、コートのポケットに手を突っ込んだ。
マリアに好かれているだろう、ということや、ケイがマリアを好いているだろうという事実は気にくわないが、ケイ自身は騎士団の第三隊長であり、正義感の強い人間だ。マリアのことにおいて、これほどまでに信頼のおける人間もいない。これで少しは、マリアの旅路も安心できるというもの。
もうマリアを守ることは出来ない、とは言ったものの、結局のところこうして手を回してしまうのだから、ミュシャのマリアへの思いも相当なものだ。
「これが本当に、最後だね」
マリアが旅に出てしまえば、もう本当に、マリアのことを守ることは出来ない。
マリアから離れることを先に決意したのはミュシャ自身だというのに、ミュシャは自らの胸の痛みに気づいて苦笑した。口からこぼれた息は白く、雪に溶けて消えていく。
「独立、か」
ミュシャは、自らのマフラーに顔をうずめた。
ほんのりと甘い、清潔感のある香り。先日、マリアが作ったルームフレグランスだ。マリアは、特別に、と少しだけ香水にしてくれた。フローラル調の香りに、どうやら、ライラックが少しだけ混ぜられているらしい。
マリアの一番好きな花であり、マリアの一番好きな香り。
そして、それはミュシャにとっても。
胸のあたりを、そっと柔らかに締め付けるこの香りが、ミュシャの歩みを前へと進める。
自らの決めた道だ。後悔も、迷いも、おいていこう。この、ライラックの香りとともに。
ミュシャはマフラーを解いて、見慣れた洋裁店の扉を押し開ける。
「おかえりなさい、ミュシャくん。あら、マフラーしなくても平気だったの?」
「寒かったんじゃないかい?」
マフラーを片手にもったミュシャを、不思議そうに見つめるマリアの両親に、ミュシャは小さく首を横に振った。
「えぇ。少し。でも……もう大丈夫です」
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今回で、ミュシャの独立編はおしまいとなります~!
最後までお楽しみいただけましたでしょうか? マリア達が歩んでいく道をこれからもぜひ、お楽しみに。
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