香りの正体
瓶を開けた瞬間にふわりと香ったのは、どこかふんわりとした丸みのある甘い香りだった。つづいて、少し苦いような、木々の香りを思わせる緑の薫りが鼻を抜ける。花の香りと葉の香りのバランスはちょうど良い。粉砂糖を少しあぶったような、カラメルともバニラともいえぬような。その優しく香る、甘く苦いピンクの塊にマリアは目を見張った。
リンネもスンスン、と香りを楽しんでいる。
「すごく豊潤なのに……繊細な香り……」
マリアがつぶやくと、リンネもうなずく。
「見た目がすっごいピンクだから、もっときつい匂いかと思ってたけど、全然違うね。どっちかっていうと草の香りがする。すごいや。これ、なんて花だろ」
マリアとリンネはその瓶からピンクの塊を小皿に取り出して、それぞれ一つずつ手に取った。
「これ、何かにつけてあったのかしら。水とか、オイルではなさそうだけど……」
マリアはゆっくりとその塊を手のひらに広げていく。ピンセットを使ってつまもうとしたが、あまりにも花弁が薄く、ちぎれてしまいそうだった。
「わ、これしょっぱい。塩だ」
花を舐めたのはリンネだ。マリアは慌てて水を差し出す。
「ちょっと! リンネちゃん、何かわからないのに舐めちゃだめよ」
リンネは受け取った水をごくごくと飲みほして、それからケロリと笑った。
「大丈夫だよ、少しくらい。毒ではなさそう」
ピースサインをして見せるが、マリアは眉をハの字にするしかできない。
「塩漬けにされてるみたい。舐めた瞬間は甘い気がしたんだけど、後味はしょっぱいし苦いね。やっぱり葉っぱを食べてるみたい。うん、せめてアルコール漬けの方が良かったかな」
リンネは慌てるマリアにはお構いなしでそう言って笑った。独自の食レポをして、それからピンクの塊を小皿に戻す。
「なんで塩漬けなのかな。ねぇ、これって食べる用?」
リンネの質問に、マリアは首をかしげる。そう言えば、ケイは、これを王妃様が会食の時に頂いたものだと言っていた気がする。香りのついているものは、時に味覚に影響を与えてしまう。食事の場でこれを渡すのはあまり良しとされないだろう。
マリアは少し考えて、あ、と声をあげた。
「そうかもしれない。会食の場で食事として出されたのなら、香りも楽しめるし……」
「塩漬けで、食事の場に出される植物……。この季節に極東の国から仕入れるもの……。ピンク色……」
リンネは推理するように単語をメモ帳へと書き記していく。それから、ちょっと待ってて、と立ち上がって部屋を出ていった。
「とにかく、この香りを記憶しないと……」
マリアも、しっかりとその花の香りを記録していく。この植物が何かわかれば一番良いが、この辺りに自生していない可能性の方が高い。そうなれば結局、いくつかの近い香りを混ぜて作り出す必要があるのだ。
「丸い甘み、それから苦み。緑っぽい香りかな。花というよりは、葉に近いような。バニラを薄めて……何か他のペパーミントか、ローレルなんかもいいかも」
マリアもメモ帳を取り出して、いくつか書き記す。ラベンダーなんかも丸い甘さを作りだすにはいいかもしれない。木々の香りを思わせるような、そういうくすぶった香りが混ざっても良い。ローズウッドも良いなぁ、とマリアはアイデアを書き出していく。
(後でリンネちゃんに、材料がそろうか聞いてみようかしら……)
マリアはいくつか候補を書き出して、それからもう一度花の香りを楽しんだ。異国を感じることのできる香りに、自然と心が弾む。
「本当は、王妃様にお話を聞けると一番良いけど……」
いくら依頼主とはいえ、お忙しいお方だ。一庶民になどかまってられるはずもなく、マリアはかなわぬ夢と知りながらもついそんなことをこぼしてしまう。
香りは、人の記憶と密接に結びついている。無意識のうちにその人の主観もそこには混じってしまうからだ。だからこそ、忠実に香りを再現する、というのは難しい。たとえ、調香師にとっては同じ香りでも、依頼主には違う、と一蹴されてしまうこともある。逆に言えば、その時に感じたことや状況、時には体調まで鑑みて作り出された香りであれば、実際の香りとは多少違っていても、依頼主はその香りを気に入ったりするものだ。
「うぅん……どうしようかしら……」
王妃様に会えない以上は、マリアの思う完璧な香りを一度作ってみる必要がありそうだった。
「お待たせ!」
リンネが戻ってきたのは、マリアがそんなことを思案していた時だった。
「マリアちゃん、わかったよ!!」
リンネは興奮した様子でそう言った。マリアも思わず立ち上がり、リンネの方へと駆け寄る。
「チェリーブロッサム! この花の名前はそういうんだって!」
リンネは大きな声でそう言って笑う。
「チェリーブロッサム……」
マリアはその名をメモ帳に慌てて書き記した。どこか聞き覚えのある名前に、マリアは首をかしげる。
「チェリー?」
マリアが言うと、リンネは首を大きく横に振った。チェリーとは別物、そう言いたいのだろう。
「チェリーじゃなくて、チェリーブロッサム。私も気になったんだけど、チェリーブロッサムの実は食べられないらしいよ。おいしくないんだって」
リンネの中では、食べられるものと食べられないものは、姿かたちが似ていても全くの別物だという扱いになるらしい。マリアはリンネに言われたことをメモしていく。
実が食べられるかどうかは別として、そもそもチェリーのなる木はこんなにピンク色の花ではなかったはずだ。花の香りも、マリアの記憶には残っていない。つまり、チェリーの花自体には、はっきりとした香りはないということだろう。果実のイメージが強いので、マリアにもぼんやりとしか思い出せないのだが。
「あ、でも、木とか花の形は似てるみたいだよ。チェリーの木なら生えてるから、もし参考になるなら見てもいいんじゃないかって。チェリーの品種改良を研究してる人がいるから、明日、一緒に聞きにいこう」
パッと微笑んだリンネに、マリアはほっと胸をなでおろす。リンネのお陰で、思っていたよりも順調に進みそうだ。
「ありがとう、リンネちゃん」
マリアが礼を言うと、リンネは照れたように微笑んで、どういたしまして、と言った。
時間を告げたのはリンネの腹時計だった。ぐう、と良い音が鳴って、二人は思わず声を出して笑う。集中が切れたこともあいまって、リンネは空腹を自覚したようだ。
「まぁ、まずはご飯にしよっか。食堂まで案内してあげる!」
リンネの提案に、マリアも大きくうなずいて、二人は食堂へと向かった。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。
ここで登場する桜の塩漬けというのは、皆様がよく見るソメイヨシノではなく、八重桜を使用しています。
お湯に入れて桜湯にしたり、パンに飾ってみたり……。
おうちでも簡単に作れる素敵な春の風物詩です。
桜が散っても春を最後まで楽しめるので、皆様もぜひ来年、挑戦してみてくださいね。
桜の時期は過ぎてしまいましたが、この物語を通じて、皆様に少しでも『春の残り香』を感じていただけますと幸いです。
20/6/21 段落を修正しました。