思い出の香り
いよいよこの日がやってきた。マリアはごくりとつばを飲む。どこかで期待しているのだ。ソティの記憶が、蘇るのではないかと。ゆっくりと、シャルルの家の扉を開け、マリアは
「こんにちは」
といつもよりも小さく、緊張したような固い声で挨拶をした。
ソティは、本を読んでいた。ベッドに腰かけ、マリアにいつもの笑みを浮かべる。外の光がちらりと差し込み、ソティの髪を透かして反射した。
「こんにちは、マリアちゃん」
「今日は、あんまり調子が良くないんですか?」
「ふふ。少しね。マリアちゃんとベッドの上で会うのもなんだか久しぶりね」
マリアが少し顔を曇らせると、そんなマリアを安心させるようにソティはコロコロと笑った。
ソティは読みかけの小説を脇に置き、マリアの方へ向き直る。
「今日のお土産は何かしら」
ソティは冗談を言うときの口調でほほ笑む。反対に、マリアは緊張の面持ちだった。
「ソティさんの、思い出の場所の香りをお持ちしました」
マリアがゆっくりとカバンから梱包されたそれを取り出す。
「開けてもいいの?」
マリアがコクリとうなずくと、ソティは白く、細い手で丁寧に梱包を解いた。
「まぁ。素敵。見たことない香水瓶だわ」
マリアが選んだ、特別な瓶。オルモル装飾の花かごを指でなぞり、ソティは
「うちの階段の手すりとよく似てるわ。こういう柄が好きなのよ。昔、どこかで見て、一目惚れしたの。それ以来、こういう植物のデザインが好きで」
嬉しそうに目を細める。
「それに、とっても綺麗な琥珀色ね。これも、オレンジの香水?」
「トップノートは、オレンジですが、この間のものとは全く違う香りですよ」
ソティの手元で揺れる液体。マリアが質問に答えれば、ソティは、感心したように声を上げた。
「それは楽しみだわ。私、マリアちゃんの作る香りはどれも好きなの」
ソティはゆっくりと香水瓶のフタを開ける。マリアにとっては、それは長い、長い時間に感じられた。
ソティは、その香水にそっと鼻を近づける。オレンジの甘酸っぱい香りが鼻を抜け、丘を越えた風の香りがふわりと絡みついた。
その瞬間、ソティの身を、夏の始まりを告げようかといわんばかりのどこか湿った空気が包み込んだ。
目の前に、黄金色の丘が広がっている。風が吹くたびに、小麦は重たげにもたれた穂を揺らし、海に波がさざめいているよう。ザァッと音がして、やがて金色の海が凪ぐ。頭上を白鷺が渡り、爽やかな草木の香りがする。
「ソティ!」
遠くで、自らの名を呼ぶ声がする。ソティが振り返ると、逆光の中、手を大きく振っている男性がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
男性の大きな手が、建築仕事であちらこちらにかすり傷を作っている男らしい手が、ソティを優しく抱きしめる。
「完成したんだ!」
彼が、両親に頼まれて建築していた穀物用倉庫。ついに完成したのだ。
――完成してしまった。
たった数か月の間だった。短い時間だった。だが、二人は出会ったときから恋に落ち、親睦を深め、こうして愛し合う仲になっていた。
「行ってしまうのね」
ソティは、その体温のぬくもりからゆっくりと離れる。両親は、彼との婚約を認めてはくれない。ソティは領主の娘であり、両親はその家柄を気にしているのだ。彼はまだ無名の建築家で、出自も庶民である。親が反対するのも無理はなかった。
「あぁ。僕は……仕事で、ここへ来たから」
「一緒に行こうとは、言ってくれないの」
「君は、領主の娘だ。僕じゃ、君とは釣り合わないよ」
彼はぐっと口を結んで押し黙った。二人の間に抜ける風が、サイプレスの香りを運ぶ。
「私は、あなたを愛しているわ」
「僕もだよ。ソティ。君を愛してる。遠く離れても。どんなに時間がたって、君が、僕を忘れてしまっても……」
「忘れない!」
ソティは、涙を流していた。
「私は、忘れないわ。どんなに、時間が経っても……」
穏やかな、深い緑の香り。干し草と、太陽の匂い。
どこか遠くを見つめていたソティの薄いグレーがかったブルーが、ゆっくりとマリアを見つめる。
「私はもう、忘れないわ。これから先、ずっと、ずっと。あの人と一緒に、永遠に生きていくと誓ったから」
ソティは美しく微笑んだ。
ふわりと、サイプレスの残り香が、マリアの鼻をくすぐった。
ソティと夫は、その後、駆け落ちしたらしい。それ以来、ソティは実家には戻っておらず、そのうちに両親が亡くなり、そしてまた、夫もいなくなった。
「今は、私の弟が領主としてやっているはずよ。両親が亡くなった時、手紙が来たから。私のせいで、苦労をかけたのに……男の人って強いわよね」
ソティは穏やかに語る。
「村を出る最後の日に、二人で写真を撮ったの。小麦畑の前で。当時はまだ、写真は高価だったんだけど、夫はどうしても、と言った。もしかしたら、こんな日が来ることを知っていたのかもしれないわね」
マリアが写真乾板を取り出すと、ソティは口元を抑えた。一度は止まったはずのソティの涙が、再び零れ落ちた。
「懐かしいわ……。まだ残ってたのね。彼は、たくさん写真を撮ったの。旅行へ行くたびに、必ず撮ったわ。だから、最初の……こんな小さな村の写真なんてもう、捨ててしまっているんじゃないかと思った」
ソティは顔を覆う。写真はコトンとベッドの上に柔らかく着地した。
「一番、大切にされていた写真だったと思います。最初にこの写真を見つけたのは、旦那様の机の引き出しでした。香水と一緒に入っていて」
マリアが言うと、ソティはゆっくりと顔を上げる。
「香水は、毎日のようにつけられていたと聞いております。だから、その写真は……」
それ以上は言わなくても、ソティには伝わったようだった。ソティは人形ではなく、一人の女性として、写真で見せたあのまぶしい笑顔をしていた。
「ありがとう、マリアちゃん。おかげで、彼のことを思い出すことが出来たわ」
鈴の音のような、鳥のさえずりのような、軽やかな優しい声。ソティが思い出せたのは、全ての記憶ではない。だが、ソティは喜んでいるようだった。
「きっと、写真を見ればすぐに思い出すわ。あの人、本当にたくさんの写真を残してくれているから。それに、少しずつ彼との思い出が増えていくのって素敵でしょう?」
「え?」
「だって、もう一度、彼と出会った最初から、思い出を積み重ねていけるのよ」
ソティの止まっていた時間が動き出した。どうやら、少し逆回転したところから。
「また、彼と一緒に、いろんな場所へ行ってみることにするわ」
写真の中でだけど、と冗談めかしてほほ笑んだソティの目じりにはしわがくっきりと浮かんでいる。それが本来の、ソティの姿だった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
つい昨日32,000PVを達成したばかりだと思っていたのに、本日は33,000PVを達成しておりまして、本当に毎日嬉しい限りです! ありがとうございます。
新たにブクマしてくださいました方もいらっしゃるようでして、本当に感謝感激です。
さて、今回はなんと! ついに、ソティも夫との記憶を無事に取り戻すことが出来ました!
長かった大切な思い出編も、あと少しですが、最後までお楽しみいただけますと幸いです。
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