頑固な人
そういえば、とソティが話を切り出したのは、マリアが紅茶のお代わりをしようか、とティーポットに手を伸ばした時だった。ソティの前にあったパウンドケーキも、その形を消している。
「香水、ありがとう。あれは、どういう魔法なのかしら」
「魔法?」
マリアがキョトンと首をかしげると、ソティはコロコロと鈴の音のような笑い声をあげた。
「マリアちゃんからいただいた香水をね、試してみたのよ。そうしたら、一瞬だけど、あの人の声が聞こえた気がして」
マリアは目を丸くする。
「それって」
ソティはゆっくりと首を左右に振って、やんわりとマリアの言葉を遮った。
「ごめんなさい。実は、それ以来何度その香りを嗅いでも、全然思い出せないの。でも、本当に、初めてあの香水を開けた時は、あの人がよみがえったような気がしたわ」
ソティは穏やかだった。いつもの若いお人形のような表情ではなく、落ち着いた、年相応の女性のものだ。
「名前を聞いてもピンとこないし、顔も写真で見るばかりで、頭の中には浮かばないの。でもね、マリアちゃんの香水からは、あの人の香りがした」
マリアは、素直には喜べない。それでは、ソティの記憶を取り戻したことにはならない。
「もう、あの人はいないのね。私の、愛した男性は、この世にはいない」
ソティのポツリとこぼした声が、マリアの耳にはこびりついて離れなかった。
その晩、ソティとの夕食を終え、風呂も済ませて寝る準備をするだけになったマリアは、再び書斎に足を踏み入れていた。
「きっと、香水以外にも何か……何か、あるはず」
ソティの夫の面影を、少しでも探すためである。
今や、マリアの心には小さな火がともっていた。決して荒れ狂うように燃える炎ではない。静かに、しかし執念深く灯る小さな、小さな光だった。
(失ってしまった、悲しい記憶だけを思い出させたい訳じゃない……)
マリアは書棚を注意深く観察する。さすがに、一度アーサーやシャルルが整理したであろう引き出しや箱を開けることは出来なかった。そもそも、自由にしていいと言われてはいるが、他人の家である。故人の部屋に勝手に入ることでさえ、本来は咎められるべき行為だろう。
「アルバム……」
マリアは書棚から、一冊の本を抜き取る。分厚くて大きいそれには、何枚もの写真乾板がきれいに整理されていた。
(アーサーさんと、シャルルさんが見つけたんだわ)
以前、この部屋に入った時、書棚はもっと雑然としていて、アルバムなんてものが目立つように置かれていた雰囲気はなかった。だが、今はこうしてマリアでも見つけられるような位置に置かれている。
中をペラペラとめくる。家族の集合写真、若き日のソティと男性が仲睦まじく映っているもの。今よりも少し若いシャルルが、騎士団の服に身を包み、王城の前に立っている写真もある。
「これは、最初に見つけた写真ね」
アルバムの最後に入っていたのは、マリアが机の引き出しから探し出してきたものだ。
何の変哲もない、田園風景の前で肩を寄せ合って微笑み合う夫婦。いや、まだカップルだったころかもしれない。
やはり、こうしてアルバムで見ると、この写真だけはどうにも違和感がある。旅行で撮ったと思わしき写真や、何らかの記念で撮影した写真が並ぶ中、なぜか一枚だけは、田園風景の前なのである。
「随分とお若く見えるけれど。いつ撮ったのかしら」
今でも十分若く見えるが、写真の中のソティは本当に若い。それこそ、人形さながらである。精巧に作られたドールだと言われれば、納得してしまいそう。
マリアがじっと写真を見つめていると、書斎の入り口をノックする音が聞こえた。扉は開けていたので、マリアを驚かせないようにするためだろう。
振り返れば、アーサーが扉にもたれかかり、マリアを見つめている。
「また何か面白いものでも見つけたか」
気になることなら、とマリアがアルバムを閉じると、アーサーはようやくリビングの方へと体の向きを変えた。熱中すると周りが見えなくなるマリアを現実に引き戻すためだけに、声をかけてくれたらしかった。
夕食のスープを口に運びながら、アーサーはマリアの話に耳を傾けていた。
「ソティさんの、幸せだったころの記憶も、思い出せるような香りを作りたいんです」
「母さんは、マリアさんの香水で父さんを思い出したと言っていたが」
「失ったことだけを、思い出させてしまって……」
マリアはそこで言葉を切る。
本当は、幸せなことも、思い出してほしかった。もちろん、絶対にうまくいくなどという保証はなかったし、香りで記憶を取り戻すなんてことは、奇跡のようなことだともわかっている。だが、このまま諦められるようなことでもなかった。
「ほんの一瞬でも、幸せなことも、同じように思い出してほしいんです」
どんなことにも、完璧を求めるのは酷な話である。だからこそ、無理だと匙を投げるのは簡単だ。
「どんなことでもいい。些細なことでも、私は、ソティさんに思い出してほしくて」
マリアの瞳は、美しく輝いていた。
驚いた、とアーサーは素直に声を上げた。
「正直なところ、私は、父さんの香水をマリアさんが完成させたことだけでも満足だった。母さんが、それで一瞬でも、父さんを思い出せたというのなら」
アーサーはスプーンを静かに脇へ置いて、机の上で両手を組んでみせる。視線をさまよわせ、一度閉じた口を穏やかに開いた。
「マリアさんは、想像以上に頑固な人だ」
それは、最大の褒め言葉だったのだろう。アーサーはふっと口角を上げたかと思うと、珍しく声を出して笑った。
「なるほど。シャルルが気に入るわけだ」
マリアがキョトンと首をかしげると、アーサーが「おっと」と口元を手で覆う。
「最後まで力になろう。私は少し、弱気になっていたな。ずいぶんと長い間、諦め続けてきたから」
アーサーは柔らかに微笑んで、残りのスープに口をつけた。
シャルルが帰宅したのは、アーサーと食後のティータイムを楽しんでいた時だった。
「ただいま」
シャルルの声には珍しく疲労がにじんでいる。
「おかえりなさい。どうかされたんですか?」
薄手のコートを受け取りながらマリアが尋ねると、シャルルは
「休暇を取るために、少し仕事を多めにね」
と曖昧に微笑んだ。
「休暇?」
「うん。来週の二日間。田園風景の写真があったでしょう? あれの場所がわかったから」
なんともタイムリーな話である。どうやら、シャルルもマリアと同じ写真が気になっていたらしい。
「そこへ行ってみよう。もちろん、マリアちゃんも一緒にね」
シャルルはパチン、と爽やかなウィンクを一つ、マリアへと投げかけた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
新たなブクマ、そして31,000PV&6,600ユニーク、大変嬉しいです!!
本当にいつも読んでくださっている皆様、ありがとうございます。
今回は、まさかの、諦めきれないマリアが再び動き出します。
ソティの「幸せな記憶」も取り戻したいというマリアの願いは届くのか。
引き続き、お楽しみにいただけましたら幸いです!
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