記憶の欠片
荷物を受け取ったのはソティだった。
近頃は、随分と体調がいい。家の中をこうして歩き回っても問題ないし、短い時間なら外に出ていても平気だ。
「ふふ、マリアちゃんのおかげかしら」
荷物の差出人の名前を指でなぞって、ソティは柔らかに微笑んだ。
以前までは、家に一人きりであった。話相手もおらず、日々、ベッドの上で本を読むか、手慰みに刺しゅうや編み物をするくらいだ。
それが、マリアが来てからは話相手になってくれるだけでなく、いくつもの香りに癒され、庭先に行けば、近所の人たちとおしゃべりまでできる。アーサーとシャルルが夜遅くに帰宅する静かな家も、マリアのおかげか随分と明るくなった。寝る直前まで、息子たちが談笑する声が聞こえるのは、昔に戻ったみたいだ。
「私宛? 香水、かしら?」
ソティの記憶を取り戻すため、とマリアは言った。ソティには、その意味がいまだによく分からない。どうして、香りで記憶が取り戻せるのか。
「でも、不思議とマリアちゃんの香りは、懐かしい気持ちになるのよねぇ」
ソティはのんびりと独りごち、リビングの椅子に腰かけた。
三つの香水瓶とともに同封されていた手紙を読み、香水瓶をテーブルの上に並べる。マリアの手紙によれば、少しずつ香りの分量が違うのだそうで、どれからにしようかしら、とソティは指をさまよわせる。どれも美しい黄金色の液体が中に入っていて、いまいち決め手がない。
「こういうのは、直観を信じるしかないわね!」
一人遊びをする子供のように、ソティはくじ引きの感覚で、えいっと真ん中の瓶を手に取った。
フタを開ける前は、いつも少しだけドキドキする。香水の楽しみの一つだ。どんな香りがするのか、緊張と好奇心が混ざったような気持ち。ソティはそっとフタをひねる。キュ、とガラスのこすれる音がして、オレンジの香りがソティを包んだ。
「……え?」
ソティは、自らの頬を伝う感覚に、思わず固まる。
「どうしてかしら」
なぜ、自分は泣いているのだろう。
「いやだわ……年のせいかしら。こんなに、素敵な香りなのに……」
ソティは慌ててハンカチで目元を抑えるが、涙は止まらない。止め方も、それ以上は分からなかった。
軽やかなオレンジ、爽やかなレモンやハーブのようなすっきりとした香り。柔らかな花と、ほのかな苦み。
「土の、香り……」
最後に残る、ほんのりと湿った甘く、スパイシーなそれ。
ソティは、ぽっかりと空いた大きな穴――真っ暗な闇に飲み込まれていくような感覚に襲われる。だが、怖くない。この間も感じたそれは、想像に反して穏やかで、温かい。
「あな、た……」
ソティの口から無意識に発せられた言葉は、一人きりの家に良く響いた。
『愛してるよ、ソティ』
優しい声が、どこからともなく返ってくる。ソティが辺りを見回しても、誰かがいる訳ではない。心の内側から、頭の中から、響く記憶の中の声。
「おいていかないで」
だんだんと小さく消えていく声を追いかけて、ソティは思わず空虚に手を伸ばす。だが、それは叶わず、ソティは肩で息をした。
「……あなたは、誰?」
ソティは消えてしまったはずの記憶の欠片を脳内で探し求める。優しくて、穏やかな声。まぶしい太陽のような香りを纏った、最愛の人。
「覚えてる。覚えてるわ……」
名前も、顔もくっきりと明確な形にはなっていないのに、その人がココにいたことだけははっきりと分かる。
ソティは香水をそっと手に出して、再び鼻を近づける。
――もう一度、目の前に現れて。私を、優しく抱きしめて。
その願いはかなわなかった。微かに、懐かしい香りを感じただけで、それ以上は何もない。
「どうして……?」
ソティは表情を曇らせる。喪失感がソティを包み、先ほどとは違う涙がこみあげてくる。
「もう一度、もう一度だけでいいのよ。あなたに……、あなたに、会いたい」
ソティは、最愛の人を失ってしまったことを思い出したのだ。そして、もう二度と、あの穏やかな時間は戻ってこないのだということに、気づいてしまった。
それより前のことは、やはり思い出せないままだった。幸せな日々があっただろうことは、なんとなくだが感じ取れる。一瞬ではあったが、優しい声がソティの名を呼び、それがソティをこれ以上ないほどの幸福感に包んだからだ。
「もう、会えないのね」
ソティはポツリと呟く。受け入れてもなお、その傷が消えることはない。癒えることも。
「でも、ちゃんと……あなたは、ここにいたんだわ」
ソティはぎゅっと香水瓶を抱きしめる。もう二度と、なくしてしまわないように。
その夜、ソティは久しぶりにアーサーとシャルルと三人で食卓を囲んだ。昼間のことを、どうしても息子二人に伝えたかったのだ。
「今日ね、マリアちゃんから素敵な香水をいただいたの」
ソティが切り出すと、アーサーとシャルルは食事をする手を止めた。
「オレンジの香りで……私、一瞬だけど、思い出したのよ。あの人が、私を愛してくれていたことも。もう二度と、会えないことも……」
ソティはまた泣いてしまいそうだった。けれど、息子たちの手前、母親がそんな顔をしてはいけないと、母としてのなけなしのプライドがそれを阻む。
アーサーとシャルルは驚いたように目を見開いたが、言葉を発することはなかった。代わりに、二人の美しいブルーの瞳がソティに続きを促していた。
(二人のブルーの瞳にも……見覚えがある)
ソティは初めて、そんな風に思う。自分の瞳とは明らかに違う色。水面のような、空のような、勿忘草のような。
「思い出せないことだらけなの。でも、ちゃんと、私の中にいるのよ。声が聞こえた。一瞬だけど、あなたたちのお父さんの声よ」
ソティは美しく微笑む。アーサーも、シャルルも、その微笑みにぐっと唇をかみしめた。
「泣かないで。あなたたちには、随分と迷惑をかけてしまったわ」
鈴の音が鳴るように笑うソティの細い手が、アーサーの頬に触れ、シャルルの髪を撫でた。
ふわりと、オレンジの香りがする。
「父さんの、香りだ……」
シャルルが小さく呟くと、ソティがにっこりとうなずく。
「えぇ。懐かしくて、素敵な香りでしょう。私、この香りが一番好きよ」
アーサーはついに、涙をこぼした。メガネを外して、アーサーはゴシゴシとその瞳をこする。涙の止め方を知らないのは、ソティと同じだったようだ。
「ふふ、アーサーが泣くなんて。いつぶりかしら」
何年たっても、何歳になっても、息子は息子だ。ソティがクスクスと笑えば、アーサーはバツが悪そうに、顔をそむけた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
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感謝してもしきれません……本当にいつも、ありがとうございます。
ついに、マリアの作ったオレンジの香りとともに、ソティの記憶が少し蘇りました!
ですが……実は、「思い出の香り」編はまだもう少し続きます。
ぜひぜひ、最後までお楽しみいただけますと幸いです!
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