約束はオレンジの香りとともに
秋の木漏れ日が心地よい。
窓から吹き込む柔らかな風がマリアの髪をさらりと揺らす。睡眠時間を削って調香していたマリアが、ついうたた寝をしてしまうのも無理のない穏やかな昼下がり。
カラン、と鈴の音が心地よく響き、マリアはびくりと体を揺らした。
「……すまない。起こしてしまったか」
ガバリと目を開けたマリアの前に立っていたのはケイで、そのケイは神妙な顔つきであった。
「ご、ごめんなさい!」
マリアは耳まで赤く染め、慌てて頭を下げる。
(お客様が来ないからって寝ちゃうなんて!)
あまりにも恥ずかしい失態に、マリアはケイを直視できない。かくいうケイも、偶然とはいえ、好意を寄せている相手の可愛らしい寝顔など見てしまったのだ。簡単にマリアへ話しかけられるほど、気持ちの整理は出来ていなかった。
しばらくの沈黙が二人を包んだのち、おずおずと口を開いたのはマリアだった。
「きょ、今日は! どうされたんですか?」
いまだ頬には赤みが残り、声も上ずってはいるが、あくまでも店主と客。接客をしなければ、とマリアは曖昧に笑みを浮かべた。
「いや、その……茶葉が、増えたと聞いたから、買いに来たんだ」
ケイは戸棚に置かれた商品に視線をさまよわせる。
「そうでしたか。それなら、こちらに」
マリアはなんとか気持ちを律して、いつも通りの笑みを装った。
ケイは茶葉を選んでからしばらく、マリアの方へ視線をやったり、かと思えばその視線をそらしたり、と忙しなかった。
「その、疲れていたのか?」
ようやくケイからしぼり出された一言に、マリアは、すみません、と頭を下げる。
「昨日、久しぶりに調香を張り切ってしまって……。仕事中に寝ちゃうなんて、本当にすみません」
「いや。俺は、かまわないが……。その……」
何かを言いたげにするケイに、マリアはきょとんと首をかしげる。
「お時間があるなら、お茶をお入れしましょうか」
ケイは、何か話したいようにも見えた。口下手なのに、隠し事は苦手で、さすがのマリアでも気づいてしまうほどに。
ティーカップに紅茶を注ぐと、ケイはすぐさま口をつけ、一気に飲み干した。
「団長! シャルル、団長の家に、いるのか?」
開口一番。ケイの口から飛び出たセリフに、マリアはまばたきを繰り返す。
「へ?」
「団長が、最近やけに帰りが早くて……つい、その話を聞いてしまったんだ」
ケイは悔しそうに口を結ぶ。マリアはそんなケイの様子をポカンと見つめた。
「木曜日から土曜日までは、お家にお邪魔させていただいてますが……」
マリアが答えると、その続きを聞く前にケイの表情があからさまに曇る。それがなぜなのかは、当然マリアも知る由はない。
「そ、それは、その。つまり。なんだ」
しどろもどろになったケイは、言葉を探しているのか、それともその言葉を口にしたくはないのか。身振り手振りが大きくなる。珍しいこともあるものだ。これほどまでにケイが動揺している姿をマリアは見たことがない。
「調香の依頼を受けたんです。それで、その関係で」
マリアがさらりと続きを口にすれば、今度はケイがポカンとマリアを見つめた。
依頼の内容は、プライバシーに関わることであり、シャルルからも口止めされているので話すことは出来ない。代わりに、どんな香りを作っているか、ということや、それで昨日はあまり眠れなかった、ということを話せば、ケイはようやくホッと胸をなでおろした。
ケイが安堵した理由に、マリアは首を傾げつつ、
「その、オレンジの香りは、作れたのか?」
というケイの質問に、うぅん、と曖昧な笑みを浮かべる。
「おそらく、作れたとは思うのですが……分量がわからないところがあって。使ってくださる方に喜んでもらって初めて、作れたということになるのでしょうね」
試しにケイにも、三つほど分量を変えた試作品を楽しんでもらう。
「オレンジの香りか。いいにおいだ」
ケイはようやくそこでふっと柔らかな笑みを浮かべた。本日初の笑みである。
二人の間に漂っていたなんとも言えない空気も和らぎ、ケイの口数も少しだけ増える。
「マリアの香りは、いつも落ち着く」
マリアの作った香水に向けられた言葉だが、マリアの心臓がドクン、と跳ねた。マリアが驚いたような瞳を向ければ、ケイも自分の言ったことに気づいたのか慌てて弁明するのだった。
おかわりを注いだはずだったが、ケイのティーカップはいつの間にか空になっていた。そろそろ帰るのだろうか。マリアがそんなことを考えていると、ケイが何やら口を開いては、ややあって、再び口を閉じる。まだ何か、言いたいことがあるようだ。
「マリアは、甘いものは好きか?」
「え? えぇ、まぁ」
突然の質問に、マリアが不思議そうな視線を向けると、ケイは小さな声で続けた。
「オレンジの香りで思い出したんだが……。以前、ランチをした店があっただろう。あそこの店主が、新商品で、オレンジのケーキを開発したらしくてな。味見を頼まれたんだが、こういうのは、女性の方がいいだろう」
つまりは、またランチにでも行きましょう、というデートのお誘いなのだが、不器用ゆえ、ケイには理由が必要なのだ。
「空いてる日があるなら、一緒に、どうだ」
後半はもはや消えかかってしまいそうな勢いで、ケイは視線を背ける。
マリアはマリアで、どういうわけか、ケイのこういった態度に、つられて恥ずかしくなってしまう。甘いものには目がないので、当然、行かないという選択肢はない。
「それじゃぁ、今度の木曜日なんていかがでしょう」
声に出してから、さすがに急すぎだ、とマリアは思う。これではまるで、我慢のできない子供のようで恥ずかしい。
「本当か!」
しかし、そんなマリアの思いをかき消す勢いでケイが目を輝かせるので、マリアの気持ちも素直に晴れやかなものになった。
ケイを見送るついでに、マリアも作った香水をシャルルの家へ送ろうと村へ向かう。村まで続く森の小道を、ケイと歩くのは初めてではなかろうか。
「そういえば、このあたりを一緒に歩くのは初めてだな」
隣を歩いていたケイも、同じことを考えていたのかポツリと言葉をこぼす。
シャルルよりも背の高いケイには、少し森の小道は窮屈そうだ。頭のあたりにまで垂れ下がった枝を時折よけながら、木漏れ日を気持ちよさそうに感じている。
(なんか、いいな……)
マリアの顔には、ケイによってできた陰が落ち、鮮やかな紅葉が視界には広がる。
――まだ、この気持ちの名前を、マリアは知らない。
村までの道のりは、かかった時間以上にあっという間に感じるものであった。
「それじゃぁ、ケイさん。お気をつけて」
「あぁ。マリアも。仕事、頑張りすぎて眠らないようにな」
冗談めかしたケイはふっと柔らかな笑みを浮かべ、そして、ごく自然にマリアの頭をふわりと撫でた。
「ふぅん……。ついにマリアにも彼氏かい?」
マリアの後ろから揶揄するような郵便屋の青年の声が聞こえる。マリアがびっと背筋を伸ばすと、
「まだ冬も来てないってのに、先に春が来ちゃうとはね」
郵便屋がニヤニヤと笑みを浮かべた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
なんと! この度、ついに30,000PVを達成しました!
多くの方々に読んでいただけていること、本当に感謝が尽きません。ありがとうございます!
オレンジの香りを完成させたマリアに、まさかの来客でした。
「大切な思い出」編もいよいよ折り返しですが、最後までお楽しみくださいますと幸いです*
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