ソティの退屈しのぎ
シャルルの家の門を開け、マリアは深呼吸を繰り返した。
依頼を受けてからちょうど一週間。
「出張店舗なんてどうかな」
シャルルが放ったこの言葉は半分冗談で、半分本気だった。
結局、マリアは、半年は働かなくても生活できるのではないか、という金額を提示された上、シャルルの押しに負け、ソティの押しに負けたのだ。
『しばらくの間、パルフ・メリエは日曜日から水曜日までの営業となります。木曜日は従来通りお休みをいただき、金曜日と土曜日は下記の住所で出張店舗を開きます。住所は……』
パルフ・メリエの玄関先に張り出された案内が、マリアとシャルルの交渉結果だった。
家の鍵は渡されている。不用心過ぎやしないだろうか、と思うのだが、騎士団長の家で悪事を働ける人間もそうそういないだろう。シャルルも激務に追われる身だし、アーサーもそれは同じだった。そんなわけで、マリアに鍵を渡すのも当然なのだが、マリアが落ち着かないのも当然だった。
「ソティさん、こんにちは」
マリアが顔を出すと、ソティはキラキラと目を輝かせた。色素の薄い瞳は、相変わらず息を飲む美しさをたたえている。
「あら! マリアちゃん! 早速来てくれたのね、うれしいわ」
ソティの手元にはレース編みが広がっている。
「素敵なレース編みですね」
ベッドのそばへ腰を下ろしたマリアは目を見張る。細かな透かし模様、花がふわりと円形に広がっているような、幾何学的なそれは、とても繊細だ。ミュシャもかなり上手だったが、ソティのそれもミュシャに匹敵するほどの腕前。
マリアがまじまじと見つめていると、ソティは楽しそうに口を開く。
「ふふ。ベッドの上でできることは限られているから、こういうことはいつの間にか得意になってしまったわ。エリーもいないし、使うところもないんだけど」
「エリー?」
「娘よ。アーサーの妹で、シャルルの姉。三人兄弟なの」
「そういえば、お姉さんがいらっしゃるって以前聞いたことがあります」
「エリーは結婚して、今は東の国に住んでるの。こういうことは女の子のほうが早いっていうけど、本当ね。アーサーもシャルルも、そろそろ結婚の一つや二つ……」
結婚は一つでいいような、とマリアは苦笑を浮かべる。ソティは相変わらず、息子たちの将来が心配でしょうがないようだった。
「早く、マリアちゃんがお嫁に来てくれれば、私も安心なのだけど……」
頬にそっと手を当てて悩ましげな表情を浮かべるソティは、まるで人形のようだ。話題が自分に向いていなければ、その美しい光景に惚けていたところだろう。
(シャルルさんが、迷惑をかけるかもしれないって言っていた意味が、少し分かった気がするわ……)
結婚の話をこんな風に何度もされては、迷惑とはいかないまでも、さすがのマリアも反応に困るというもの。愛想笑いを浮かべて、別の話題を探す。
マリアは、ベッド脇に備え付けられた棚に目を止めた。
「そういえば、香水はつけられないんですか?」
確か、先日シャルルがよくプレゼントする、と言っていたはずだ。だが、ソティからは特段そういった香りはしない。
「なんだかもったいなくて。少しずつ使っているの。寝る前が一番多いわ。マリアちゃんのお店の香りは、どれも素敵で落ち着くわ」
「それじゃぁ、今日からはぜひ、いつでもお申し付けください。お庭をお借りしてお店を開く予定なんです。その分、たくさん香水も持ってきていますし」
ソティは嬉しそうに微笑むと、引き出しを開け、中に入っていた香水瓶を取り出した。
シャルルは確かに、よく香水を買いに来ることが多いと思っていたが、そのうちの半分はどうやらソティに贈られていたらしい。シャルルも香水を身に着けてくれていることが多いので、あまり気にはしていなかったが、改めて考えれば納得のいく量だった。
「どの香りが一番お好きですか?」
七つほど並べられた香水瓶は、ちょうど、香りの分類に沿ったものだった。
「そうねぇ……」
ソティは迷いながらも、一つの香水瓶に手を伸ばした。
「シトラス系ですか」
マリアは、ふむ、と口元に手を当てる。万人受けする香りであるがゆえに、記憶を蘇らせる糸口にはならなそうだった。
(せめて、バルサム系や、スパイシー系、オリエンタル系みたいな、独特の香りなら、夫さんにつながるヒントになったかもしれないのに……)
残念ながら、そううまくはいかないものである。
良いにおいだと感じる異性のことを、好きになる確率が高い。
これは、調香師の間では有名な話だった。もちろん、科学的根拠などはなく、ただ噂程度に語り継がれているものだ。だが、実際にそういう話を耳にすることもある。マリアが作ったフローラルコロン……「愛の花束」も良い例だろう。
だからこそ、ソティが無意識に好きだと思う香りは、夫のものではなかろうか。そう考えたのだった。
マリアが、落ち着く香りもシトラス系か、と尋ねれば、ソティは首を縦に振った。
(旦那様が、シトラス系の香水を身に着けていたのかしら?)
アーサーか、シャルルが戻ってきたら確認してみる価値はありそうだ。とにかく、少しでも多くの情報が欲しかった。
(娼館の香を作るのも苦労したけど……香りを探るところから始めるのは、本当に骨の折れる作業ね)
マリアは内心で大きく息を吐くと、ソティの手首にそっと香水を振りかけた。
シトラスの香りを存分に堪能したソティが、そういえば、と首をかしげる。
「香りと記憶には、どんな関係があるのかしら」
ソティには詳しく話していなかったな、とマリアもうなずく。
「香りというのは、人の記憶と密接につながっているんだそうです。ふとした瞬間の香りで、昔を思い出す、なんて経験はありませんか?」
「そうね。確かに言われてみれば、私、チキンの香りをかぐと、クリスマスを思い出すのよ。子供のころ、あの丸焼きがよっぽど嬉しかったんでしょうね」
ソティは、クスクスと思い出し笑いを浮かべた。
マリアが持ち込んだトランクを開け、中を見せると、ソティは子供のように破顔した。
「まぁ! これ、全部香水なの?」
「これは精油ですね。ほんの一部ですが、いくつか、香りを試してみましょうか」
「香水ではないの?」
「香水の原料、ですかね。香りを楽しむだけですが、良かったら」
「本当?! 楽しみだわ」
マリアの提案に、ソティの声が上ずる。ソティの退屈しのぎにもちょうど良さそうだった。
ソティは存分に香りを楽しんだ後、はしゃぎ疲れたわ、と冗談めかしてほほ笑んだ。確かに良い時間だ。夕食の支度などもしなければならない。普段は、お手伝いさんが来てくれるらしいのだが、お世話になる間はマリアが作ると申し出た。
「それじゃあ、後で夕食をお持ちしますね」
ソティは相変わらず嬉しそうな表情だったが、疲労の色が見えていた。
(明日以降は、もっと気をつけなくちゃ……)
マリアはソティの様子をそっと見つめた。
「美味しそうな匂いだね」
夕食を運ぼうと階段を上がろうとしたちょうどその時だった。帰宅したのはシャルルで、意外な人物にマリアも思わず足を止める。
「おかえりなさい、シャルルさん」
マリアが声をかけると、シャルルは口元をおさえる。マリアがキョトンと首をかしげると、シャルルは視線を外して、なんでもない、と手短に答えた。
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お読みくださっている皆様に、お礼申し上げます! ありがとうございます!
今回は、マリアとソティの久しぶりに少しのんびりとした雰囲気のお話になりました。
まだまだお話はしばらくバタバタしますが、たまの息抜きも楽しんでいただけましたら幸いです。
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