トーレスの思い出
トーレスは深く、深く頭を下げた。目元の涙をぬぐい、マリアに笑みを浮かべる。マリアは何度かトーレスの笑顔を見たことがあるはずだが、この時、初めて、トーレスと本当の意味で通じ合えたような気がした。
「ありがとう、マリア」
いつもの上からな態度ではなく、あくまでも対等な立場で、トーレスは自然と言葉をこぼした。
その香りは、当然ではあるが、トーレスの頭に嫌な記憶も思い起こさせるものだ。だが、トーレスは、不思議とそれを受け入れた。どちらかといえば、懐かしい気持ちや、哀愁めいた感情がふっと沸き上がって、あんな国でも……あんな家族でも、心のどこかで愛おしいと思っていたのだ、とトーレスは気づく。汚いスラム街も、冷え切った城下町も、牢獄のような王城も。すべて、トーレスの一部なのだ。
「本当に、ありがとう」
トーレスは、瓶を大切そうに握りしめて、もう一度マリアに頭を下げた。
マリアの胸には、じんわりと温かな気持ちが広がっていた。もとはといえばマリアが、言い出したのだ。余計なおせっかいにすぎない。むしろ、嫌なことを思い出させ、トーレスを傷つけてしまう可能性だって十分にあったのだ。それでも、忘れてはいけない記憶だと思ってはいたが、それもマリアの独りよがりな思いかもしれなかった。
だが、目の前のトーレスは、マリアに頭を下げている。笑みを浮かべ、穏やかに瓶を見つめ。
「良かった……」
安堵したマリアの目にもまた、涙が光った。
「お、おい……泣くなよ……!」
「マリアちゃんを泣かせるなんて、トーレス……君は……」
「ち、違う! 俺は何も!」
「言い訳はやめろ、トーレス」
マリアがボロボロと泣き始めれば、シャルルとケイはすかさずトーレスに鋭い視線を向ける。トーレスは慌てて弁明するも、殺気だった二人に気圧されてしまう。
「マリア! 頼むから、泣くのはやめてくれ!」
もはや祈りにも近いトーレスの言葉は、残念ながら届かなかった。
マリアの瞳からは、次から次へと涙がこぼれる。それは、安堵であり、喜びでもあった。ケイが認めてくれた時には、必死に泣くのを我慢したのだ。もうこれ以上は我慢できそうになかった。トーレスの感謝の言葉が、何よりうれしかった。
「……ごめんなさい、でも……止まらなくて……」
マリアは、何度も涙を拭うが、こみ上げた思いは、しばらく止まりそうもなかった。
「本当に、嬉しいんです……。トーレスさんに、ちゃんと、思い出を届けてあげられたような気がして……」
マリアの言葉に、トーレスはもちろん、シャルルとケイも、穏やかな目を向けた。
「調香師は時を売る仕事だと、前にマリアから教えてもらったことがある」
ケイがポツリと言葉をこぼす。トーレスの視線が、ケイへと移る。
「時を、売る……」
ケイの言っている意味が、分かるような気がした。マリアの香りが、鮮明に記憶をよみがえらせてくれたのだ。きっと、この香りをかぐたびに、トーレスは西の国へ……自分の育った故郷へと思いを馳せるのだろう。良いことも、嫌なことも平等に思い出し、そして、今の自分を見つめ、これからの未来に希望を抱くことが出来るだろう。たった一つ、この香りだけで。
「すごいものだな……、調香師というのは」
トーレスがふっと笑みを浮かべると、マリアは再びその涙をポタポタとこぼした。
マリアの涙が止まったのは、お昼休みも終わろうかという頃だった。トーレスは、そろそろ仕事に戻らなければ、と立ち上がる。マリアにもう一度礼を言うと、
「また、会えるか?」
そう聞いた。マリアは間抜けな返事をし、シャルルとケイは
「トーレス」
と声をそろえてトーレスを睨みつけた。なぜ、会えるか、という質問だけでこんなに責められるのか、マリアにはわからない。だが、トーレスは意にも介さず、それどころか、どこかあくどい笑顔を見せる。
「血族破棄は結婚できない。それは、団長も隊長も承知しているのでは? 私は、調香に興味が沸いただけです」
なぜか、トーレスが勝ち誇ったように、二人を見つめる。マリアだけがその様子をキョトンと眺めていた。シャルルとケイが口を開く前に、トーレスはマリアの横を通り過ぎ、団長室の扉を開ける。
「マリア。また手紙を出す。必ず返せよ」
いつもの横暴な言葉を残し、ひらりと手を振って去っていく。実に、トーレスらしい別れの挨拶であった。マリアは慌ててトーレスの背中に答える。
「もちろんです! パルフ・メリエで、お待ちしています!」
トーレスは振り向かなかったが、彼がどんな表情をしたのか、マリアにはなぜか、わかる気がした。
甘い香りの残った団長室で、シャルルとケイが深いため息をつく。
「全く。トーレスはやっぱり、ケイの部隊に入れるべきかな」
「いえ……それだけは勘弁してください」
ケイがげんなりとした様子で返事をすれば、シャルルは、クスクスと笑った。そして、マリアが再び戻ってきたのを見やって、
「ありがとう、マリアちゃん。トーレスのことを気にかけてくれて」
シャルルはニコリと笑みを浮かべた。
「もともとの性格か、意地っ張りなところがあってね。トーレスは、絶対に弱音を吐かないし、気にはなっていたんだ。トーレスなりに、いろいろと思うところもあっただろうしね」
シャルルは視線を窓の外へ向ける。トーレスのことをよく見ているのだな、とマリアもケイも、そう思わずにはいられなかった。一応、身元引受人としての責任もあるのかもしれない。
「だから、今回のことは、僕からもお礼を言わせてほしい。マリアちゃん、本当に、ありがとう」
騎士団長として、シャルルは最大限の敬意をマリアに示す。マリアは少し恐縮したが、シャルルが顔を上げると、柔らかに微笑んだ。
「さ、そろそろ僕らも仕事に戻らないと」
パン、と手を叩いたシャルルの口調はいつもの軽いものへと戻った。
「送っていけなくてごめんね」
「とんでもありません。こちらこそ、お忙しいのにお時間をいただいてしまって」
マリアが慌てて首を振ると、シャルルは爽やかな笑みを浮かべた。
「本当は、マリアちゃんのためになら、いくらでも時間をあげたいくらいだけど」
「ほぇ?!」
マリアがパチパチと目を瞬かせれば、ケイが再び大きなため息をつくのだった。
結局、二人に門まで見送られ、マリアは騎士団本拠地を後にした。
(トーレスさんが、少しでも喜んでくださって良かった……)
一人の時間が訪れると、マリアの胸には再び温かな気持ちが舞い戻ってくる。自らの作った香りで、誰かの心が揺れ動く。それは、調香師として一番感慨深いものであった。
「少しは、おばあちゃんみたいな調香師に、近づけているのかな……」
マリアは、澄み渡る秋晴れの空に手をかざす。祖母の墓参りが迫っていた。
気づけば、秋も深まり、マリアの横を通り過ぎる風は軽やかに色づいた木々の葉を運んでいくのだった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
おかげさまで、26,000PV&5,600ユニークを達成しまして、本当にたくさんの方にこうしてお手にとっていただけていることに感謝が尽きません。ありがとうございます!
今回のお話で、なんとなく西の国編もようやくひと段落を迎えることが出来ました。
皆様に少しでも、じんわりと心温まる感じがお届けできていたら嬉しい限りです。
西の国編はもう少しだけ続きますので、幕間のような気持ちでお楽しみいただけましたら幸いです。
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