娼館の香
これだよ、とケイは落ち着いた声で言った。
念のため、残り二本も確認したが、西の国での出来事を思い出すのは、やはり何度確認しても最後から三つ目の瓶だけだった。嗅覚が最も人間の記憶に結びついている、というのはどこかで聞いた話だが……これほどとは。
ケイは、嬉しそうに瞳を輝かせたマリアを見つめた。
「魔法みたいだ……」
ケイの素直な感想は、なんとも稚拙な、子供っぽいものであったが、それを聞いたマリアは安堵の笑みを浮かべた。
マリアの調香技術は、時代が時代なら、それこそ魔法だとか奇跡だとか、そんな風に崇められていたのではないだろうか、とケイは思う。マリアは、一度も行ったことのない場所の香りを、トーレスとケイの言葉だけを頼りに完璧に作ってみせた。何度となく失敗しても、彼女はあきらめない。最後には必ず、一握りの成功を確実に掴んでみせるのだ。
「……本当に、マリアは素晴らしい調香師だな」
ケイの最大級の賛辞は、マリアの胸をぎゅっと締め付けて離さなかった。
(長かった……)
マリアは、疲労のせいか、それともずっと考え続けたことから解放された喜びのせいか。緩くなった涙腺を無理やりに押しとどめ、笑顔を作る。
「良かったです……。本当に、良かった……」
本当に、自分に作り出せるのか。一時はそんな不安さえあったのだ。今までは、どんなに難しい香りでも、何とかなると思っていた。だが、今回は、暗闇の中を手探りで歩いているような、そんな気持ちがずっとついてまわっていたのだ。香りに正解はないというが、それでも無意識に答えを探してしまうもの。マリアは一人、孤独にその苦しみと戦ってきたのだった。
「これは、何が混ざってるんだ?」
ケイが興味深そうにレシピを覗き込む。
「ローズに、イランイラン、バニラ、シナモン……それに、タバコの香りがメインです。とにかく長く甘い香りが続く、重たい香りを多く配合しているんです」
マリアは、一つ一つ丁寧にケイへと説明する。花や香りには疎いケイにも、その話は興味深いものだった。香りには持続性があること、それぞれの香りに効能があること、特徴や、その香りのバランスまで。マリアの、幼少期から積み重ねられてきたであろう調香の確かな知識に触れ、ケイは感心するばかりだった。
「そういえば……タバコの香りは、本当にあのタバコの香りなのか?」
ケイは、ずっと気になっていたことを口にする。タバコ臭い、といえば誰しもが想像できる、あの苦みと渋みが混ざったような何とも言い難い香り。ケイの質問にマリアは、一つの瓶を差し出した。
「これが、実際にタバコの葉から香りを抽出した精油です」
どうぞ、と差し出され、ケイは少し戸惑いながらもそれに手を伸ばす。タバコの匂いは正直、苦手なのだ。だが、自分から聞いておいて、断るというのも気が引ける。
ケイは覚悟を決め、その瓶のフタをえい、と開けた。
「……あま、い……?」
予想外の香り。ケイはもう一度鼻を近づける。もちろん、タバコ独特の苦みのある燻ぶったような香りはするものの、どちらかといえばほんのりと甘さが残るような、そういう香りなのだ。これがどうして、あのタバコ臭さになるのか不明なほど。
「実は、タバコの香りは、男性用の香水なんかにも使われたりすることもあるんです。私も、実際に使うのは、今回が初めてでしたけど……」
マリアの補足に、ケイはますます目を見張る。まさか、そんな代物だったとは。
「スモーキーな感じもして、ちょっと渋い、というか……男性がつけると、少しセクシーな感じがしますよね」
マリアの言葉は、あくまでも調香師としての一意見であったが、ケイはその言葉にピクリと反応する。一言一句、すべてをきっちりと記憶して、ケイは頭の中のメモ帳を閉じる。香水など、つけたこともなかったが、どうせマリアの店に来ているのだ。せっかくなら、一度くらいはマリアの作った香りを身にまとうのも悪くない。
(確か団長も、たまにつけていたな……)
どこまでも色男な恋のライバルを思い出し、ケイはそっとため息をついた。
マリアは、早速ケイが「これだ」と言った瓶を、丁寧に梱包していく。
「トーレスさんにお渡ししたいのですけど……、お休みの日ってあるんでしょうか」
できれば直接渡したい。マリアがケイに尋ねると、何か考え事をしていた様子のケイは、やや遅れて、あぁ、と返事をした。
「そうだな……。今は、トーレスもいろんな仕事を覚えている最中で、丸一日休みをとるのは難しいかもしれないが……数時間なら、時間も作れるんじゃないか。団長に相談してみよう」
ケイの言葉に、マリアはパッと明るい表情を浮かべた。
四日後。マリアは騎士団本拠地を訪れていた。
あの後、ケイがすぐにかけあってくれたらしい。昼休みの間一時間程度なら、という条件付きで、シャルルも了承してくれたのだそうだ。パルフ・メリエの定休日を設定してくれたあたり、マリアにも気を使ってくれたようだった。
「マリアさんですね」
門の前で衛兵が、お待ちしておりました、と敬礼をする。マリアも慌てて頭を下げた。
マリアが案内されたのは、団長室だった。何度か訪れたせいで、すっかり見慣れてしまった気もする。ノックを三回打つ前に、シャルルの声が聞こえた。
「失礼します」
マリアが扉を開ければ、シャルルとトーレスはもちろん、なぜかケイもそこに座っており、三者三様の面持ちでマリアを見つめる。何事か、とマリアが困惑すれば、シャルルがいつもの爽やかな笑みを浮かべた。
どうやら、ケイはトーレスに連れてこられたらしい。
「マリアが全く違う香りを持ってきたら、ケイ隊長に、俺の貴重な一時間を返してくれと言わねばならないだろう?」
騎士団で日々もまれているはずなのに、相変わらずの態度である。マリアが困ったように眉を下げると、
「気にするな。後できっちり指導しておく」
とケイがトーレスを一瞥した。トーレスはふん、と視線を背ける。まだまだ庶民に馴染むには時間がかかりそうだった。
「それじゃぁ、早速ですが」
実際のところ、約束の時間は一時間だ。悠長に話をする暇もない。存分に香りを楽しんでもらうためには、それ相応の時間が必要なのだ。マリアはカバンから丁寧に梱包した瓶を取り出し、トーレスへと差し出す。
「こちらが、娼館の香になります」
マリアの手から、そっとトーレスが瓶を取る。梱包を丁寧にはがし終えると、少し緊張したような、強張った表情を浮かべて、トーレスは瓶を見つめた。
キュ、とフタの開く音が、やけに静かな団長室にはよく響く。マリアの鼓動が、ドクドクと耳の奥で鳴る。トーレスがゆっくりとフタを開けるその動作の一つ一つが、とても長い時間のように思えた。やがて、そのフタが完全に開くと……あたりにぶわりと、濃厚な香りが広がった。
その瞬間。トーレスは、たった一粒、美しい涙をこぼしたかと思うと、ポツリと呟く。
「……これだ……」
ツゥッと流れる一筋のきらめきが、トーレスの整った顔に跡をつけ、そして、団長室の床に染みを作った。
「そうか……。俺は、もう……あの国へ戻ることはないのだな……」
その言葉は、後悔か、安堵か、喜びか、悲しみか。それは、誰にも分らなかった。
団長室はやがて、西の国の娼館に変わり、ぼんやりと薄暗く光るピンクや、紫の煙がマリアの目にも映った気がした。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
ついに、「娼館の香」をトーレスに渡すことが出来ました。
長かった西の国編もいよいよ大詰め。最後までお楽しみいただけましたら幸いです。
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