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調香師は時を売る  作者: 安井優
ガーデン・パレス編
13/232

嵐は突然に

 ケイは走った。間に合ってくれ、と神頼みをしながら地面を強く蹴る。ぐっと全身に力を入れてケイは手を伸ばした。華奢(きゃしゃ)な体を無理やり引き寄せて、受け身をとる。次の瞬間、自分の背中に地面の感触を感じて、ケイはほっと息を吐いた。どうやら間に合ったらしい。


 自らの手の中の人物がゆっくりと顔を上げた瞬間、その柔らかな髪が揺れてふわりと甘い香りが鼻をかすめる。ケイがその香りに顔を上げると、至近距離で目があった。唇が触れるか触れないか、そういう距離。


「あっ!!」

「悪い!!」


 二人は顔を真っ赤にして離れる。しばらく互いに顔が見れず、その姿勢のまま無言の時間が続いた。マリアは赤く染まった頬に両手を当て、ケイもまたその熱のやり場に困った。なんとか自然に振舞おうと、ケイは口を開く。


「……その……大丈夫か」

「……はい、ありがとうございます」

「あぁ。いや、無事なら良かった」

「ケイさんのお陰です。すみません」

 重くなかったですか、というマリアの質問にケイはブンブンと首を横に振る。お世辞などではなく、実際、ケイにはそんなことを意識する暇がなかったのだ。

「俺は大丈夫だ。その……マリアが大丈夫ならよかった」


 ようやくここで二人は視線を交わし、そして互いに小さく会釈した。ケイが先に立ち上がり、マリアに手を差し出す。マリアもおずおずとその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。パンパン、とマリアはスカートの土を軽く払って、落ちた雑巾を拾い上げる。それから倒れた脚立を立て直した。


 どうやら、店の看板を綺麗にしている最中だったらしい。

「あまり無理はしない方がいい。必要なら、後で俺がやっておこう」

 ケイがそういうと、マリアはしゅんとした様子で、すみません、と謝った。

「お客様に頼むのは申し訳ないですし……」

「かまわないでくれ。こういうのも仕事のうちだ」

 ケイがそう言うと、マリアは少し悩んでから、それじゃぁ、と頭を下げた。


「せめて、後でお茶でも飲んでいってくださいね。ケイさん、ありがとうございます」

「わかった。それじゃぁ、こちらもお言葉に甘えるとしよう」

「はい!」

 マリアの顔にようやくいつもの笑顔が戻る。ケイもつられて少し微笑み、まずは店に入ることにした。


「それで、今日はどういったご用件ですか?」

「これを渡しに来たんだ」

 マリアの問いに、ケイは腰に下げていた革袋から小包を取り出した。


 青いリボンに真っ赤な(ろう)——シーリングワックスが押されている。その印は、王家のシンボルを(かたど)ったもの。つまり、王家から直々のお届けもの、というわけだ。


「ちょうどここ数日、隣国で王家の会食が行われていてな。昨日、会食中に頂いたものらしい。極東の国から仕入れた珍しいもので、王妃様が香りを気に入ったんだそうだ」

 マリアはその箱を受け取って、そっと鼻を近づけた。特に、箱からの香りはしない。

「これは、開けても?」

「あぁ。それと同じ香りを、マリアに調香してほしいと」

 ケイの言葉に、マリアはその手を止めた。


 調香師の仕事は、香りを生み出すこと。どんなに珍しい香りや一般的に嫌われている匂いであっても、必要とされれば、今あるものを組み合わせて作りださねばならない。動物たちほどではないにしろ、人間も香りには敏感なのだ。しかも、依頼人が王妃様とくれば、まったく同じものでなければならないだろう。調香の仕事は何度か引き受けたことがあるが、とてもプレッシャーがかかる。


(……それに)

 マリアはログハウスの二階に充満するライラックの香りを思い出して、(ひたい)をおさえた。

(こんなことなら、早めに切り上げるべきだったわ……)


 ライラックの香りを取り出す実験は順調に進んでいたので、本来であれば終わらせても良かったのだが、少しくらい商品にならないか、と欲を出してしまったのだ。新しい香りを作るには、その香りを正確に記憶するためにも、ライラックの香りが完全に消えた状態でやるべきだ。


(ライラックの香りを抽出して、実験道具を片付けるのに三日。香りを消すのに最低でも三日はほしいけれど……)

「難しいのか?」

 ケイは、うんうん、とうなるマリアに声をかける。マリアは少し考えこんでから、観念したようにうなずいた。


「はい。この香りがどういったものかにもよりますが……」

「すまない。団長ならもう少し詳しく知っているのだろうが、俺も団長に頼まれてな。詳しいことは分からないんだ」

「そうでしたか。シャルルさん……団長殿はどちらに?」

「予定通りであれば、今頃はちょうど王家の方々を護衛中だ」


 ケイは、少しでも早く届けるように、との指示で一足先に隣国を出て今朝こちらに戻ってきたのだが、もともとは今朝まで滞在する予定だったはずだ。

「そうですか……」

「その、何かできることがあるなら言ってくれ。俺では頼りにならないかもしれないが」

 ケイの言葉に、マリアは困ったような顔をする。

「いえ。私事で申し訳ないのですが、実は、今、別の香りを抽出する実験中でして……。他の香りが混ざっては、うまく調香できない可能性もあります。ですから、この場所では、最低でも後一週間ほどは調香を控えたいのです」

 王妃様の命とあれば、断ることはできない。しかし、変なものを作るわけにもいかない。


「ふむ……。なるほど」

 マリアの意図を汲み取ったのか、ケイもしばらく考えてから

「では、明日、もう一度こちらに来よう。箱は開けなくても良い。預かっておいてくれ」

 そう言った。マリアも、断ることが出来ない手前、

「わかりました」

 と答える他なかった。


 ケイは箱を置くと、看板を掃除してくる、といって店を出た。マリアも二階へとあがる。すぐにでも、ライラックを片付けた方がよさそうだ。量は多くはないが、香りは十分だ。これくらいであれば取り出すことができるだろう。


(忙しくなりそう……)

 マリアは大きく深呼吸して、気合を入れなおした。


いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。


いよいよ、このお話から新章突入です。

内容&更新頻度は変わらずお届けしますので、これからもぜひぜひよろしくお願いします。


20/6/21 段落を修正しました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんどは、王家(正確には王妃)からの依頼。 こんどは、マリアはある香りを再現する仕事になりそうだ。大急ぎではないのだが、のんびりとはいえない仕事内容である。 ほんと、このお話はゲストが…
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