しばしの別れ
次の日の朝、マリアはミュシャを起こさぬようにそっと部屋の扉を開けた。日はすでに上り始めており、あたりは明るくはなっているとはいえ早朝。ここまで来てくれた上、手伝いまでしてくれた人を起こすのは野暮というものだ。マリアは屋上へと上り、うんと伸びをする。朝の陽射しがまぶしい。
「さ、今日も頑張らないと」
マリアは、よし、とうなずいて、二階へと戻った。
マリアの朝は忙しい。まずは洗濯。それから、着替え。屋上の掃除をして、育てている植物に水をやり、使う植物は状態を見て摘み取る。それらの下処理をしたら、ようやく朝ごはんを用意する。普段であれば、朝ごはんを食べて、洗濯物を干し、家と店の掃除に開店準備。
今日はミュシャがいるので、ミュシャが起きてくるまでに掃除と洗濯物だ。
『……夕方からは曇りに……気温は……明日は雨が降りそうです』
ラジオから流れる天気予報を聞きながら、マリアは
(明日の分の花も、夕方には摘んでおいたほうがよさそうね……)
と、ホウキを掃く手を止めて考える。店内を見まわしたが、そもそもあまり客の来ない店。商品については問題なさそうだった。
そのまま、マリアは玄関先と店の外も掃除する。店の外は簡単に落ち葉を片付けたり、郵便受けを軽く拭いたりする程度だ。しばらく掃除されていない看板は、明日の雨でまた汚れるだろう、と見て見ぬふりをすることにした。
本当に明日は雨が降るのだろうか、と思うほどの晴天だが、天気予報が大きく外れることはあまりない。マリアは、空を見上げる。柔らかな青が広がっており、本格的な春の訪れを感じられる陽気だった。
掃除のついでに洗濯を終え、マリアが二階へ戻ると、ミュシャが寝ぼけまなこでこちらを見ていた。
「おはよう、ミュシャ」
「うん、おはよう……マリアは早いね……」
ミュシャは、このまま放っておけばもう一度寝てしまいそうだ。マリアも決して目覚めの良いほうではないが、ミュシャのこの姿を見れば何倍もマシだ、とマリアは思う。
「朝食作ったから、一緒に食べよ」
「うん……」
ミュシャはゆっくりと洗面所の方へと向かっていく。
育ちの良さを感じさせる普段の優雅な動きは想像もできない。マリアはその後ろ姿にクスクスと微笑んで、作った朝食を温めなおす。温めたティーカップにママレードカモミールティーを注ぎ、さらにママレードジャムを少し加える。これくらいの方が、朝のミュシャには良さそうだ。
しばらくして、ミュシャが戻ってきた。
「ん……良い匂い。ふぁぁ……」
あくびをしながら席に着き、ミュシャはカップを手にとった。
「あ、おいしい。昨日よりママレードの香りがする」
眠くても味はしっかりとわかるようで、マリアはそんなミュシャに再び笑みをこぼした。
「朝はそれくらいの方が、ミュシャにはいいんじゃないかと思って」
「さすがマリアだね」
「ふふ。良かった。あ、マスタードもあるけど使う?」
ホットサンドにナイフをいれるミュシャにマリアがそうすすめると、ミュシャはブンブンと首を横に振る。
「まだ辛いものはダメなの?」
「ずっとね。これから先ずっとダメな予定だよ」
ミュシャの言葉にマリアが笑うと、ミュシャはむっとした視線をマリアに投げかけながら、ホットサンドを口に放り込んだ。そして、その顔をパッと輝かせる。
「おいしい。マリアって本当に天才」
先ほどまでの表情とは打って変わってそんな風に笑うので、マリアはおかしくなる。お礼を述べてから、自らもホットサンドを口へ運ぶ。
「そうだ! ねぇ、ミュシャ、夕方から天気が悪くなるみたい。早めに出たほうがいいわ」
マリアは今朝のラジオを思い出し、そう言った。すると、ミュシャは少し怪訝な顔をする。ホットサンドを飲み込んで、しばらく何かを考えこんだ。
「うん……そうだね、残念だけど」
ホットサンドを半分食べ切ったところで、ミュシャはそう言って口を拭く。ミュシャとしては、一秒でも長くとどまっていたいところなのだが、雨が降ってきては馬車もあまり多くはなくなる。街へ戻るのが遅くなっては、マリアの両親にも迷惑がかかるというものだ。
「またすぐ会えるってば。電話もちゃんとする」
「約束だよ」
「ふふ、ミュシャったら本当にママみたい」
ミュシャの気持ちは残念ながらマリアには伝わっていないのだが、ともかく、マリアには必ず電話してよ、とミュシャは念を押した。
片付けを済ませ、ミュシャが帰り支度をしたところで、マリアはミュシャを呼び止めた。
「これ、ミュシャに」
マリアは小さな紙袋をミュシャに手渡す。
「え、いいの?」
「うん。この間のお洋服のお礼。大したものじゃないんだけど……」
マリアからの突然のプレゼントに、ミュシャは目を丸くした。
「アロマオイルなんだけど、お風呂に入れると良い匂いがするから使ってみて」
「うん、ありがとう」
ミュシャは、ぎゅっとその紙袋を抱えた。
きっと、このアロマオイルの香りをかぐたび、マリアを思い出すだろう。ミュシャはそう思う。寂しさをぐっとこらえて、ミュシャは店を後にした。店の外までマリアはミュシャを見送り、
「それじゃあ、またね。ミュシャ。元気でね」
そういって大きく手を振った。
ミュシャにとっては長い長い別れのようだが、マリアにとってはしばしの別れだ。
(まったく……本当に嫌になるよ)
行きよりも荷物は軽くなったはずなのに、ミュシャの足取りは重い。
しかし、それでも胸元に抱えたマリアからのプレゼントを思えば、少しばかり心も晴れる。
森のどこかに咲いているのであろう、ライラックの香りがふわりと漂う。
(きっと来年からは……この香りでも、マリアを思い出してしまうんだろうな)
ミュシャは、そんなことを思いながらため息をついた。
終わってしまえば、きっとしばしの別れだ。
ミュシャは自分にそう言い聞かせて、街へと戻るのであった。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
突然ですが、章管理のため、ここまでをいったん『第1章 はじまり編』とさせていただきます。
次のお話から、新しい章(?)が始まりますので、お楽しみにいただけますと幸いです。
20/6/6 改行、段落を修正しました。
20/6/21 段落を修正しました。




