邂逅
トーレスは目の前に広がる光景に思わず息を飲んだ。黒みがかったシックな色合いの花が見事に咲き誇っており、一面を覆っている。
「これは……」
花になど、今まで微塵の興味も沸いたことがなかったのに、トーレスはなぜか心を惹かれた。
間違いなく、この香りはこの花からしている。トーレスは花に顔を近づけ、たっぷりと息を吸い込んだ。あたりに立ち込めるチョコレートの香りが、より強烈にトーレスを刺激する。体が途端に空腹を思い出す。
「さすがに、食えないよな……」
トーレスはしげしげと花を眺め、ため息をついた。
結局、無駄に体力を使った上に、体が空腹を思い出してしまったせいで、トーレスはその場から動けなくなった。
「まさか、この俺が花に囲まれて死ぬなんてな」
自嘲気味にトーレスはつぶやく。限界に、限界を重ねてここまで来たが、もうどうにもならないような気がしていたのだ。これはもしかして、幻想なのではないか。トーレスの頭にそんな考えがよぎる。あの世の入り口かもしれない。トーレスは力なく目を閉じた。
マリアはふんふんと鼻歌をこぼして、森の中を歩いていた。そろそろチョコレートコスモスが咲いているはず。去年の冬も無事に越え、春には芽を出していた。マリアにとっては、秋のお楽しみの一つだ。
「良い香りだったなぁ……」
マリアは昨年楽しんだチョコレートコスモスの香りを思い出して、目を細める。ほんのりと優しい、とろけるような甘み。思わずその場で立ち止まってしまうような、後ろ髪をひかれる香り。
ふわりと風に乗って運ばれてくる香りが、だんだんと甘みを増していく。この辺りだったはず、とマリアは視線を向ける。
「え?!」
チョコレートコスモスの花に囲まれて倒れこんでいる人の姿に、マリアは慌てて走り出した。
「大丈夫ですか?!」
男の人だ。見たことのない顔立ちをしている。このあたりの人ではない。年は若く、自分と同じか、やや年上くらいに見える。
「しっかりしてください!」
マリアは慌てて青年の胸元に耳を当てる。ゆっくりだが、鼓動の音がする。呼吸もしており、ひとまずは安心だ。眠っているのだろうか。こんなところで? マリアは青年を軽くゆする。フード代わりにまかれていた布がほどけ落ち、青年の赤みがかった髪がサラリと揺れた。
青年の瞼がうっすらと開き、美しいヘーゼルアイがのぞく。
「お……前、は……」
かすかな声に、マリアは青年の手を握る。
「私は、マリアです。このすぐ近くに家があります。歩けますか?」
マリアの声に青年は力なくうなずいた。青年はもうほとんど自分の意志では動けないようだったが、マリアが肩を貸すと、足を引きずるようにして歩き始めた。
チョコレートコスモスはお預けだ。だが、もはや、そんなことなどどうでもよかった。マリアは懸命に青年を支えながら、店の扉を開ける。青年をイスに座らせ、マリアはフルーツウォーターをコップに入れた。
「とりあえず、お水を。飲めますか?」
「あぁ……」
青年にコップを差し出せば、青年はそれをゴクゴクと飲み干した。
フルーツウォーターのおかわりを渡して、マリアは二階へ駆け上がる。あの様子では、しばらく何も食べていなかったに違いない。鍋にもう一度火を入れ、スープを温める。好き嫌いはわからないが、とにかく今は何か体に物を入れたほうがよさそうだ。
それから、お風呂とベッドの用意。昨日洗ったばかりのシーツをベッドにかけて、浴槽に湯を張る。バスオイルを数滴垂らし、マリアは再びキッチンへと戻った。
階下にスープを持っていくと、青年は少し驚いたようにマリアを見つめた。なぜ、そこまでするのか。青年の瞳はそう語る。
「とにかく、今はこれを食べてください」
マリアは半ば強引に押し付けるように、スープ皿とスプーンを青年に手渡した。青年は少し逡巡したが、結局、空腹感に負けたようだ。そっとスープに口をつけ、黙々とスプーンを動かす。マリアは青年がスープを食べる様子を、ただ隣に座って見つめていた。
スープを食べ終えると、少しばかり力が戻ったようだった。それと同時に、疲労がどっと押し寄せる。トーレスの体中を眠気が襲う。トーレスはとろりと下がる瞼を懸命にこすった。
「お風呂で体を休めてください。階段は登れそうですか?」
優しく微笑む女性に、トーレスは力なくうなずいた。多分、今なら階段くらいは平気だ。
(なぜ、見知らぬ他人にここまで優しくできる……)
トーレスは、階段を上る彼女の背を見つめた。
シャワーも、浴槽も、王城で過ごした最後の日以来だった。全身の汚れが落ちていく感覚は、恐ろしいほど気持ちがよかった。ドロドロとした、心に渦巻く何とも言えない感情も、汚れと一緒に排水溝へと流れていくような気がする。
温かなお湯を全身に感じながら、トーレスは備え付けられた鏡で自らを見つめた。疲弊の色が濃くにじみ、どこかげっそりとしている。もはや、王子だと思うものは誰もいないだろう。
(俺は……こんなにひどい顔をしていたのか……)
トーレスは自らの姿に自虐的な笑みを浮かべた。何もかもを失い、すべてが空虚だった。
久しぶりの浴槽も、気持ちがよかった。体が溶けてしまいそうだ。トーレスはだらしなく手足を伸ばしてそんな風に思う。何か香りづけをしているのか、清涼感のあるすっきりとした香りと、ほんのりと温かな甘みが混ざったような、不思議な香りがした。
「香り屋か……」
一階に置かれていたいくつもの瓶と植物をトーレスは思い出す。浴室の外に備え付けられた棚にも、いくつか瓶が置かれていたはずだ。あれはすべて、香水の類だろう。
浴槽につかって体が温まったせいか、それとも香りのせいか。気づけば、トーレスの体中に張り巡らされていた緊張の糸はすっかりほどけていた。ずいぶんと体も楽になった。何より、心が軽くなったような気がする。王城にいたころのいら立ちは静まり、王城を飛び出してからの不安やストレスがずいぶんと緩和されたような気がする。
「不思議なものだな……」
トーレスは、ぬるくなり始めた浴槽の湯を掬い取って、その香りを吸い込む。心に寄り添ってくれるような、いや、自然と受け入れてしまうようなそういう香りだった。
風呂を出ると、リビングで先ほどの女性が待ち構えていた。
「寝てください」
彼女は有無を言わせぬ強い口調でそう言った。この王子に命令など、と思ったが、今のトーレスには、ありがたい申し出だった。彼女の言葉を素直に受け入れ、案内された部屋のベッドに入り込む。野宿続きでまともに眠ることすらできていなかったトーレスは、そのふかふかとした柔らかな感触に、ようやく安堵した。
部屋にもアロマがたかれているようで、ほんのりと優しい、穏やかな草花の香りがする。森の香りとは違う少しエキゾチックな香りも混ざっていて、逆にそれがトーレスの心を落ち着かせた。ここはもう、不安と緊張の中さまよった森ではない。
「おやすみなさい。良い夢を」
トーレスが眠りにつく直前、彼女が柔らかく微笑んだ気がした。
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ついに、マリアとトーレスが出会うこととなりました……!
二人の出会いを彩ったチョコレートコスモスについては、活動報告に小話を記載しておりますのでよろしければそちらもご覧ください♪
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