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調香師は時を売る  作者: 安井優
西の国編

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トーレス

 西の国を抜け出し、隣国へと侵入して三日。

 トーレスは、疲弊と空腹でもはや限界だった。金も、土地勘もなく、ずっと森をさまよい続けているのだ。トーレスは、近くにあった木にもたれかかると、せめて疲労だけでも回復しようと腰を下ろす。元の質が悪いのか、それとも、長距離を歩いたからか。買ってからまだ二週間ほどだというのに靴は擦り切れ始めていた。


 トーレスは王城を飛び出してからのことを思い返していた。無茶をした、と自分でも思う。自分の足で長い距離を歩いたことも、野宿をしたこともない王城育ちである。むしろここまでよく耐えた、と自らを称賛したいくらいだった。


 およそ二週間前。トーレスは王城を抜け出した。


 三人兄弟の末っ子に生まれたトーレスには、王位継承権もなければ、何の期待もなかった。愛情すらもまともに与えられたことはない。それでも、親の期待にこたえたいと、押し付けられた汚れ仕事をこなしたが、誰一人として振り向いてはくれなかった。初めからトーレスのことなど眼中にない、とでも言うように。

 トーレスの心が歪んでしまったのも無理はない。そんな環境で育ったがゆえに、いつからか、トーレスは家族を見返してやりたいと思っていた。それはいつしか復讐心となって、トーレスの内側で、ゴウゴウと燃え盛る炎となった。


 そんなトーレスに持ち掛けられた、隣国の王女、ディアーナとの婚約。これでようやく家族を見返すことが出来る。そう思っていた。しかし、結果は破談。唯一挽回できるチャンスすら逃したトーレスに、もはや居場所はなかった。家族はより一層トーレスを責め、恥さらしと(ののし)った。


 そして、その日は訪れた。

 破談の件が起爆剤となり、トーレスの心につもり積もった家族への不満や憎悪がはじけたのだ。トーレスは覚悟を決めた。

「こんなところ……出て行ってやる……」


 それからのトーレスの行動はすさまじいものだった。着の身着のままで王城を飛び出し、自らの服装が街で目立つとわかると、服屋で平民服に着替えた。

 トーレスは自由にできる金など持っておらず、王族のくせに金もないのか、と自らにいら立ちと絶望を覚えた。自らの来ていた服を売ることで、初めて自分の金を手に入れた。とはいっても、服を売って、新たに服を買ったので、その残りだが。


「収穫祭に行くの? いいなぁ」

「東の国って本当に街も綺麗だし、素敵よね」

「人もいいし、金回りもいいぞ。商人にはもってこいの国だよ」

 平民に紛れ、街を歩いていたトーレスはそんな会話を耳にした。そういえば、そろそろ隣国では、収穫祭とやらが開かれるはずだ。家族は毎年その時期に隣国へ会食に出かけるが、トーレスだけはいつも留守番を言い渡され、行ったことがなかった。

「東の国か……」

 トーレスは鉄道の駅へと向かった。この小銭でどこまで行けるのかわからないが、行けるところまで東へ。トーレスはそう決めた。


 結局、鉄道で行けたのは、王城と東の国境門とのちょうど真ん中あたりの駅までだった。繁華街を(よそお)ったスラム街の中心で、トーレスは鉄道を降りる。まだ昼過ぎだというのに気だるげな雰囲気が(ただよ)っている。汚れ仕事の多いトーレスには、勝手知ったる街の一つだ。怪しい店の脇を抜け、東へと向かって足を進める。

「くそ……。金の少しでも()ってくればよかったか」

 トーレスはそんなことをつぶやきながら、東の国境門を目指した。


 初めての野宿を経験し、眠れぬ夜を過ごした。初日などは、ロクに眠れもしないので、結局夜通し歩いてしまった。残暑は厳しく、風呂にも入れない。汗で張り付いた衣服が気持ち悪かった。当然食べるものもなく、時折、街に備え付けられていた井戸水を飲んで空腹を誤魔化した。次第に薄汚れていき、もはや王族だったころの華々しさは消えていた。街を歩くトーレスに冷ややかな視線が集まることもあった。しかし、誰一人としてボロボロな青年をトーレス第三王子だとは思わなかった。


 ようやく国境の門についたのは、王城を抜け出してから十日が過ぎたころだった。収穫祭は最終日で、多くの人が門に並んでいた。トーレスはようやく生きた心地がした。門にできた列に並び、王国内に入る手続きを行う。門番はトーレスに怪しげな視線を向けたが、トーレスは王族だったころの振る舞いを思い出し、旅商人だと嘘を並べた。


 こうして、トーレスは商人や観光客に紛れて、ようやく隣国へと足を踏み入れた。収穫祭を見てみたい。王城を抜け出した初日にはそんな気持ちさえあったのに、着いた頃にはもはや、早くどこかで休みたい、という気持ちばかりが(つの)っていた。無一文のトーレスには叶うはずもない願いであったが。


 この西の国境門は、どうやら王都から離れた場所にあるらしい。トーレスがそのことを知ったのは、国境門からしばらく東へと向かって歩いていた時のことだった。夕暮れが迫る道を馬車が通りすぎていく。

「おおい、そこの方」

 通り過ぎた馬車の一台が止まり、馬車を操っていた男がトーレスに声をかけた。

「そろそろ馬車がなくなるぞ。街の広場や城下町へ行くつもりなら、早く馬車を捕まえたほうがいい」


 トーレスはその言葉に顔をしかめた。

「何?」

「この国は初めてか?」

「あぁ」

「だったら、なおさら歩きなんてやめたほうがいい。何日かかるかわからんぞ」

 男は、良かったら乗っていくか、と付け加えたが、トーレスが金を持っていないと知ると、早々に馬車を走らせた。


 トーレスは深いため息を吐くと、薄暗くなっていく空を見上げた。基本的には、みな、馬車でこの道を移動するのだろう。街灯は少なく、あたりは木々が生い茂っていて、民家らしきものは見えなかった。分岐している道もあったので、わきにそれれば小さな村はいくつか点在していそうだが、なにぶん土地勘がない。トーレスは、隣国でも野宿か、とやるせない気持ちになった。


 だが、だからといってあのまま王城にいるのは、トーレスには耐えられなかった。あの時のことを思えば、今のほうが幾分(いくぶん)かマシなようには思えるほどだ。

 ずいぶんと野宿にも慣れてきたトーレスは、できるだけ人目につかないように、と森の中へわけ入る。

「まだ少し、歩けるな……」

 選択を誤った、と今なら思う。薄暗い森を歩くことほど危険なことはない。しかし、この時のトーレスは、正常な判断など出来る状態になかった。


 こうして、森の中をさまよって三日。収穫祭はとうに終わりを告げた。

「……くそ」

 トーレスは悪態をつく。行き場のない怒りをどこかにぶつける体力すら、今のトーレスにはなかった。トーレスを支えているものは、もはや気力だけだ。それも、家族に復讐したいという強い憎悪の気持ちばかりだった。


 トーレスは、体を預けていた木に手をついて、無理やり体を起こす。足取りはふらふらとしており、もはやいつ倒れてもおかしくはなかった。なんとか木々につかまりながら、足を進める。そんなトーレスの頬を撫でるように、風がふわりと通り抜け、トーレスはハッと目を見開いた。


「チョコレート……?」

 森でするはずのない、甘い香り。一縷(いちる)の希望を見出したトーレスは、その香りのするほうへと進路を変えた。

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!

本日新たにブクマをいただきまして、夢の100件が見えてきました……!

本当に、本当に! ありがとうございます!


さて、ずいぶんと久しぶりな上に、まさかこんな登場になるとは、という感じですが……。

トーレス王子のことは、思い出していただけましたでしょうか。

(誰? という方は、ぜひ、王城編もお楽しみください♪)


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