マリアとカモミール
いつもよりも一時間ほど早く鳴り響いた目覚ましを止めて、マリアはベッドから身を起こした。普段であれば、後十分、後五分、と粘っているところだが、ここ数日は違う。マリアはスリッパを履く暇も惜しんで寝室を飛び出した。ログハウスの屋上へと続くはしごを踏み外さないように気を付けながらもマリアは急ぎ足で登る。
今日こそは、咲いている気がするのだ。
「おはようございます、カモミールさん!」
屋上の扉を開け放ち、マリアは思わず大きな声でそう言った。
街の中であれば、近所迷惑であっただろうが、ここは森の中。マリアの声は、新緑の香りを運ぶ風にさらわれて木漏れ日に吸い込まれていく。カモミールの鉢植えに駆け寄ったマリアは、その白い花弁に思わず目を輝かせる。それは、つい数日前につぼみを見つけてから今か今かと待ちわびた開花だった。
「はわぁぁああ~~~!」
悲鳴ともとれぬ奇声を発して、マリアはその鉢植えを抱きしめた。パジャマに土がつこうが、顔に朝露がつこうが関係ない。何せ、あの、カモミールがついに咲いたのだ。昨年の秋に植えてから、丹精込めて育てていた甲斐があった、とマリアは小躍りする。それと同時に、風でカモミールの甘い香りがふわりと広がって、マリアの頬はますます緩んだ。
(やっぱり、この時期といえばこの香りね)
マリアはゆっくりと鉢植えをもとの位置に戻して、屋上の隅に置かれた道具棚から小さなカゴを取り出す。そして、咲いたばかりの花を一つずつ丁寧に摘み取っていく。まだ咲き始めたばかりで少量だったが、これが明日以降どんどんと増えていくことを思えば、マリアの笑みは止まらない。カモミールなくして、マリアの店の一年は始まらないというものだ。摘んだばかりの、まだ少し青臭さの残るフレッシュな香りを、もう一度だけ、と堪能して、マリアは屋上の扉を閉めた。
自らの洗顔もそこそこに、マリアは先ほどのカモミールを丁寧に水洗いする。虫や土がついていないかを入念にチェックして、カゴへ戻す。最後にカゴを軽く水切りして、キッチンの端、ちょうど日陰になっている場所へカゴを置いた。シンクの上についた小さな窓を開けて、風を通す。
(完璧)
マリアは独りごちた。こうしていれば、一日もすれば乾燥するだろう。早ければ夕方にでも使えるようになっているかもしれない。マリアは満足げに微笑む。こうして一息ついたところで、マリアはようやく自分がパジャマ姿であったことに気づいて、慌てて身支度をするのであった。
身支度をすませ、イチゴジャムをたっぷりと塗ったパンにかじりつきながら、マリアはカモミールの使い道について考えていた。カモミールティーにアロマオイル、キャンドルや石鹸もいいな、などと思考を巡らせる。
(もしかして!)
オレンジやジンジャーといった他の香りと調合しても良いかもしれない、とマリアは試しに近くにあったママレードのジャムを手に取った。フルーティーなカモミールの香りと柑橘系の香りは相性も良いのではないだろうか。先ほどのカモミールの香りを思い出し、ママレードに鼻を近づける。
「うん、良いかも!」
試してみる価値がありそうだ。マリアはパンの最後のひとかけを飲み込んで、メモにペンを走らせた。
昨年はジャスミンと調合し、評判を呼んだカモミールだが、今年はそれよりも気に入ってもらえるのではないか。これは女性受け間違いない。マリアは思わず頭の中の算盤をはじく。好きでやっていることとはいえ、れっきとした商売なのだ。マリアに「大金持ちになりたい」という意欲はないものの、自分が食べていくためには多少なりとも稼がねばならない。特に、森のはずれで調香師なんてものを営んでいる以上、なかなか新規の客は見込めない。そうなれば、今、ひいきにしてくれている客が離れていかないように新商品を作ることは重要であった。
そんなわけで、マリアは自らの趣味半分、仕事半分に新しい調合を開発しよう、と意気込むのだった。
20/6/6 改行、段落箇所を修正しました。ルビを追加しました。
20/6/21 段落箇所を修正しました。




