膿
問いに答えたのは、不気味な女性の笑い声だった。居場所を悟らせないためか、周囲に反響させた声に、静夜と舞桜は警戒心を高める。
すると次の瞬間、黒い霧が地面から立ち込め、近くで獣の足音が蠢き出した。気配は暗闇に隠れたまま、不気味な悪意が二人を取り囲んで駆け巡る。
「うわッ! うわあああああぁぁぁ!」
へたり込んでいた将暉が悲鳴を上げる。見ると彼は何者かによって後ろから襟首を引かれ、闇の中へと引きずり込まれていた。
「ホント、想像以上に使えなかったわね、この男」
再び響く女性の声。聞き覚えのある声。それは静夜にとって最近知ったばかりの声。そして舞桜にとっては、嫌という程聞き慣れた声。
桜色に染まった舞桜は、その表情を険しくし、辺りを隈なく警戒する。今、彼女の胸にあるのは、悲しみか、それとも怒りか。幻聴であって欲しいと、僅かにその願いを込めながら、少女は声の主を探していた。
祈りは、届かない。
黒い霧が晴れる。再び、平安神宮に明るい月光が差し込むと、その女性は舞桜の目の前に現れた。
「……やはり、あなたなんですね……、母上」
舞桜が睨むその先には、禍々しい瘴気を纏った二匹の妖犬。その後ろに控える妖犬の群れ。そして、それらを従える女性の名は、竜道院美春。
静夜が昼間に挨拶を交わした、竜道院舞桜の母親だった。
「久しぶりね、舞桜。犬養家に一緒にご挨拶に伺った時以来だから、顔を合わせるのは一ヵ月ぶりぐらいかしら。元気そうで何よりだわ」
言葉とは裏腹に、美春の笑顔は、舞桜の無事を喜んではいなかった。むしろ、純粋で綺麗な殺意が向けられて、鳥肌が立つ。
「静夜様も、先程は見事なお手並みでした。まさか禹歩までお使いになれるとは……。……私の事は何時から?」
「何時からも何も、将暉でないなら、あなたしかいません。犬養家の人間を除けば、あなたが一番〈狂犬傀儡ノ首輪〉を盗み出しやすい立場にいますし、今日の昼間に僕を闇市で待ち伏せできるのは、昨夜僕たちを妖犬に襲わせた首輪の術者だけです。……一週間前の夜、あなたは妖犬の目を通して僕たちのことを見ていたはずですから、それから僕のことを調べ上げて、将暉を動かし、今日ここで、僕と舞桜を、殺そうとした。……違いますか?」
短く言葉を切りながら、静夜は残酷な真実を語る。眼を背けることの出来ない事実が、そこにはあった。
舞桜は黙って母を見つめ返す。桜色の髪は冷たい風に晒され、朱色の瞳は微かに揺れている。やはり、と、舞桜は言った。いつから気付いていたのかは分からないが、少女はおそらく、こうなることを予感していたのだろう。今、その胸の内で渦巻く想いは、如何なるものか、静夜には見当もつかなかった。
問い掛けに対し、美春は娘を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「……舞桜、私はね、……ずっとあなたを殺したかったの」
娘に向けられた母の笑顔は、狂気に満ちて清々しいほどに悍ましかった。
「あなたにはがっかりさせられてばかりね。あなたが男の子じゃないと分かった時も、あなたが霊媒体質だと分かった時も、あなたの陰陽術が一向に上達しない時も……。本当に、あなたはいったいどれだけ私を失望させれば気が済むのかしら?」
美春の、ゆらりと寄り付くような不気味な剣幕に、静夜は戦慄する。
北風が一層冷たくなる。舞桜はその華奢な身体を自らの細い腕で抱き締めた。
「……わ、私は、――」
「――そして! 挙句の果てには、私が用意した政略結婚までふいにして、家から逃亡したわよね? ……禁術に手を染めて破門されるなんて、前代未聞よ! 歴史に名を遺す、最悪の汚名よ!」
舞桜の反論は、母の荒れ狂った怒号に遮られる。夜の闇より深い憎悪が舞桜を呑み込んだ。
「……ねえ、あなたは分かっているのかしら? あなたは全てを台無しにしたの。私が生きてきた全てを、私があなたに賭けた全てを! ……返して頂戴。贖って頂戴。ここで死んで、終わりにして頂戴!」
言葉が昂るにつれて、妖犬たちの妖気と迫力はさらに濃く、強くなっていく。
静夜は銃を握りしめて身構えた。
幸い、今は舞桜も憑霊術を発動させている。弾薬にもまだ余裕はある。最悪、ここから逃げきることくらいは出来るはずだ。だが、
「静夜様? 今夜は決して逃がしませんよ?」
美春はそれを許さない。
妖犬たちと対峙する静夜たちを取り囲むように現れたのは、新手の陰陽師たちだった。彼らは応天門を完全に塞ぎ、静夜たちを決して逃がさない布陣で、各々の法具を構えている。
「……さすがに、私一人でこれだけの妖犬を操っていたら数分と持ちません。ですから、今宵は他の皆さんにもお声がけして、手伝って頂こうと思いますわ」
見渡すと、美春に呼ばれて現れた陰陽師たちは皆、竜道院一門に属する家の陰陽師たちばかり。それも、当主や次期当主候補と言った、実力と実績を兼ね備えた精鋭たちが顔を揃えている。
「……この面子はつまり、《平安会》からの正式な決定が下る前に、竜道院一門総出で、厄介な娘を暗殺してしまおうと、そういうことですか?」
「さすが静夜様、察しがいいですね」
褒められても嬉しくない。
「まさか、これだけの陰陽師をあなたが一人で集めたわけではありませんよね?」
「ええ、もちろん。これは竜道院一門の親方、大旦那様の計らいですわ」
「お、お爺様が……?」
舞桜の瞳が驚愕に見開く。
《平安陰陽学会》の三大門派の一つ、竜道院一門を仕切る親方。それはつまり、《平安会》の御三家の一つに数えられる竜道院家の当主。舞桜の祖父に当たる人物だ。
その彼が直々に、実の孫である舞桜を殺せと、一門の陰陽師たちに命じたということだ。
「……もしかして、犬養家の首輪を使って妖犬に舞桜を襲わせたのも、ご当主からの命令ですか?」
「いいえ? それは、私が自ら提案したことです。娘の罪は母親である私の責任だと言ったら、大旦那様は任せて下さいました。ですが当然、私一人で憑霊術を相手にするなんてことは出来ませんから、穢れたこの首輪の力を使うことについても、大旦那様からお許しを頂きましたわ」
「そ、そんな、馬鹿な……」
〈狂犬傀儡ノ首輪〉は、舞桜の憑霊術と同様、妖の力を使役する術だ。故に、首輪の使用には憑霊術と同じように、制御を誤った時には術者が妖に侵される危険性が伴う。
さらに《平安会》は、妖の力を許容して運用される術や法具を忌み嫌っている。もし使用すれば、少なくとも舞桜と同等の罰が下されることになるはずだ。
それなのに、それを、竜道院一門の親方が許したというのか。
『妖に愛された呪いの子』、舞桜を殺すためなら、一門の地位を守るためなら、多少の禁忌を犯しても構わないと、そういうのか。
矛盾している。間違っている。
「それが、社会というものです」
美春は、狂気に染まった笑顔で、子供たちを見下した。
「正しさなんてものは、力が無ければ成り立ちません。そして、その力を守るためなら、嘘にまみれる覚悟も、また必要なのです。子供のわがままがいつまでも通用するほど、この世の中は綺麗じゃありませんのよ?」
獣の唸り声、野心に狂った殺気。
静夜は、思わず拳を握りしめる。
「舞桜、……あなたがここで死ねば、我々竜道院一門は、他家からの追及を少しは逃れられる。自分たちの手で災いの種を排除したとなれば、課せられる制裁も少しは軽くなるでしょう。結婚して、他家に嫁いで、京都から追い払うだけじゃ足りないのよ。もうあなたは死ぬしかないの」
無慈悲な宣告に憂いはない。母親らしい慈愛も同情もない。
娘を殺す。そのために、自らも禁忌に手を染めた母の覚悟は揺るぎなかった。




