7話 唾液取引。
究極の二択──というほどではないが、懊悩するに相応しい。
『懊悩』って初めて使ったんだが、それくらいの二択ということだ。
美緒が助けてくれなければ、オレは破滅だ。美緒が「うわぁ。女子トイレなのに、男子がいる。3組の川元くんだぁ」というだけでおしまい。
すぐにこの噂は広まり、オレの学校生活は地獄と化す。というか停学くらうのでは。
これを回避するには、美緒の条件を飲むしかない。つまり、美緒の唾液を飲む。そんな酷いことをされるなんて───
あれ。これって、そんなに嫌がることか? 唾液といっても、相手は美少女だ。性格が悪くとも、容姿端麗は事実。逆にご褒美では? 同級生の男子の中には、カネを払ってでも美緒の唾液を飲ませて欲しい、という変態もゴロゴロいるはず。
オレは無料で飲める上、それによって美緒の助けまで得られる。何を迷うことがあろうか。
そこでオレは飲むことを受け入れ、その合図に頷いた。だけど、どういう手順で飲むのだろう。口移しが普通だよな?
と思ったら、美緒がくちびるの隙間から、糸を引いた唾液が垂れてきた。反射的にこちらも口でキャッチ。
数秒、ここからどうしろというのかと硬直したが、最後は飲み下した。
何だろうか、キスと違って、いやに背徳的な行為だった。
美緒がほほ笑み浮かべて聞いてきた。
「どんな味だった?」
味だと? そんなもの知るか。というか、唾は唾だろうが。脳内補完で果物の味とかになるのか?
これが桜子の唾液だったら脳内補完もありだったが、今や古崎美緒はオレの敵でもある。可愛いけど。
しかし、ここでまた怒らせる発言をしたら、綾香に正体をバラされそうだ。いま最優先するべきは、女子トイレからの脱出。
そのためにはプライドを捨てるのだ、オレ。
「おしいかった」
味を聞かれたが、どんな味と答えれば正解かは分からない。そこで苦肉の策としての『おいしかった』発言。自分で言っていて、こいつキモイ、と思ったけどな。
美緒はクスクスと笑ってから、「今回は許してあげる」と答えた。
仕切り壁から覗いていた顔が下がり、隣の個室から出ていく足音がした。そして綾香に報告。
「ただの女子生徒だったわよ」
「えー、それなのに1分間くらい覗いていたけど?」
「知り合いだったから、ちょっとお喋りしていたの」
そんな会話が遠ざかっていく。オレは脱力して、便器のタンクに背中を預けた。
生き延びた。我、生還する。
よし、今のうちに女子トイレから出よう。授業中のいまがチャンスだ。まず耳をすまし、物音がしないことを確認。いま女子トイレは無人だ。
オレはそっと個室の扉を開け、そして女子生徒と目があった。
なぜだ? 足音もせず、人の気配もしなかったから扉を開けたというのに。なぜいる? 幽霊ですか? トイレの花子さん?
いや、違う。単純に静かに移動する子なのだろう──。
オレはこの子を知っている。佐東由芽。同じクラスの子で、どちらかといえばカースト下層にいる。ただこうしてまじまじと見ると、顔立ちは整っているし、身体もスレンダー。
おそらく図書委員という役職、さらに休み時間には一人で読書していることが、序列を下げる要因となっているのだろう。
などと考えていたら、佐東が怯えた表情で、いまにも叫びそうだ。普段は大人しい子が叫ぶのだから、インパクトは通常の数倍。それだけは避けなければ──
まず、どうしてオレが女子トイレにいるのか、その説明をしなくてはいけない。
冷静に話せば、佐東なら分かってくれるだろう。だが今は話を聞いてくれる余裕はなさそうだ。無理もない。女子トイレの個室から男子が現れたのだから。
ほかに選択肢はない──!
瞬間、追い詰められたオレは動いた。佐東の口を片手でふさぎ、もう一方の手を彼女の腰に回した。そのまま個室内へと入り、扉を閉める。
「いいか、手を離すけど悲鳴は上げないでくれ」
オレに口を塞がれたまま、佐東がうなずく。涙目なのが罪悪感だ。
オレはゆっくりと手を離した。
刹那、佐東が弱々しい声で言う。
「レ、レイプだけはしないでぐだじゃい……」
この世界線、もうやだ。