三章第8話 『月に叢雲花に風』
――突然。
それはあまりにも突然のことだった。
何もかも昨日までと同じ、平和な日を過ごしていたはずだった。
その平和であったはずの『聖堂』に満ちた、噎せ返るほどの禍々しく、ドロドロとした空気。
女神を祀る、神聖な場所である『聖堂』にはあってはならない邪悪な気配を『それ』は漂わせていた。
「――なぜ、なのですか。女神様……!!」
この世の醜い悪を全て集めたかのような、そんな存在、祀られていた『女神像』に、一人の修道女は問う。
放たれる膨大な闇の威圧に、修道女は立っていられない。
しかし、地面に尻を着いていたとしても、修道女足るもの、心までは邪悪に屈してはならない、と修道女は震える声を絞り出したのだ。
だが、対するその邪悪――女神の姿をした何かは、そんな修道女の努力を嘲笑う。
「ふふふ、今にも泣き出しそうなのに必死に堪えてしまって……目を見て。ほら、私よ、女神様、よ?」
女神の姿をした全く別の何かの瞳が妖しく光る。
邪眼だろうか。いやしかし、何の変化も無い。
「あ、ありえません! あなたのような邪な者が、私達の信じる女神などと!!」
「…………あら。あなたも世界に愛されているのね、残念。――ならせめて贄になりなさい」
女神の身体から気味悪く蠢く生えるはずのない触手が伸びる。
黒く揺らめき、実体を持っているかさえ怪しいその触手は、しかし確かに明らかな何本もの殺意を修道女に向け――、
「……セイラ、下がりなさい! ――『聖光』!」
黒の触手が修道女の蹲る身体を今にも貫こうとしたその時。突如、いくつもの眩く暖かな光の線が、修道女の背後から放たれ、触手の尽くを浄化していく。
「っ!! ……ふうん、さっきので死んでなかったのね。最高司祭レイラント・ヴェーラ」
女神の姿をした邪悪の言葉に、瓦礫の中から青年が、光の線を放った張本人が、どこか気の抜けた笑いをしながら這い出てくる。
その身体は傷だらけで、身に纏う白いローブの広範囲に渡って、その色を血で赤く染めていた。
どう見ても、瀕死の状態であったが、それでもやはり、彼は軽く笑い、
「はは、もはや満身創痍ですがね。ひとつくらい大事なものを守ってからじゃないと、そうそうくたばってやれませんよ」
そう言って、どこからか淡い光と共に現れたロッドを握りしめる。
笑ってはいたが、その声と表情にいつものお調子者としての余裕はなかった。
そこにあったのは、決意と覚悟のみ。
そんな彼の表情を見たセイラと呼ばれた修道女は、胸の奥から湧き上がる衝動を、感情を堪えきれなくなり、叫ぶ。
「パパ!!」
「……私なら大丈夫です。セイラは早くこの場から離れなさい」
「でも――」
「早く!! 私が『これ』を抑えられている間に、さあ!!」
次々と伸びる黒い触手を、レイラントが放った光の線がひとつ残らず消し去っていく。
互角のようにも感じられるその攻防、しかし、両者の状態を見ればどちらに勝機があって、どちらに敗北という未来が待っているのかは、一目瞭然だった。
ひとつの傷もなく尽きることない力を振るう『それ』と、既にボロボロで物凄い勢いで力を消耗していく最高司祭レイラント・ヴェーラ。
今は互角の攻防も恐らく、少しすれば、レイラントの方が次第に劣勢になるだろう。
だが、それを分かった上で彼は愛する一人娘、セイラ・ヴェーラを生かすために、こうやって時間稼ぎをしていた。
「パパ? ああ、道理で世界に愛されているわけね。……ふふ、ならば、早々に潰しておかなければ!!」
「させ、ないと、言っているでしょう!!」
「きゃあ!」
暫くレイラントを狙っていた触手達が、『それ』の言葉と共に再び一斉にセイラの方へと殺意を向ける。
その触手を尽く排除する光の線、セイラはまたも命を長らえる。
しかし、その動作により隙が生じてしまったレイラントは、一本別にレイラントの方へと向かっていた触手に右肩を撃ち抜かれてしまう。
「うっ、ぐ――」
「余程、その娘が大事なようね、レイラント」
「ええ、大事ですとも。何せ、愛する妻が残してくれた形見なのでね、だから……セイラ、逃げろ! これは命令だ!!」
「――ッ! ……わかった、パパ、絶対助けを呼んでくるから!!」
このまま自分が留まっていては、逆に父を不利な状況へと追い込んでしまう。
そう気づいたセイラは、ついに父の命令通りに、『聖堂』からの脱出を試みて、その場から走り出す。
街へと行き、助けを呼ばなければ。
確かに、セイラの父、レイラントは隣の大陸とは違い、魔法の発達していないこの大陸において、数少ない魔導士の一人ではあるが、それでもあの化け物には勝ち目はない。
だからこそ、あの化け物に勝てる程の力を持った存在を呼ばなければ。
「……きっと、神があなたを導くでしょう」
決意を胸に、走り去っていく自分の娘の後ろ姿を見たレイラントは呟く。
これが最後と悟っての、一言だ。
レイラントは目の前の女神の姿をした化け物へと、向き直り、宣言する。
「まさかあの子が、トリガーだったとは……はてさて、『邪神』よ。この最高司祭レイラント・ヴェーラの全力をもってあなたを葬り去りましょう!!」
――空間に、白光が満ちる。
※※※※※※※※※※
白の生地に紫の幾何学的な紋様が入った修道服に身を包んだ、最高司祭の娘と呼ばれた修道女。
信者達に囲まれ、慰められていたはずの彼女は、金の長い髪を乱しながらエリファ達の前へと現れた。
「……あなたがたは『絶望』、ですよね?」
「――!! どうして、そう思うの?」
その彼女の口から出た、予想外の問いにエリファ一同に僅かながら衝撃が走る。
もちろん、彼女の前で『絶望』という言葉は発していないはずだ。
エリファは、落ち着き、冷えきった表情で問いかけに問いかけで返す。
すると、物怖じせずに最高司祭の娘は、エリファの瞳を真っ直ぐに見つめて答える。
「私の知り合いに『絶望』がいます。……あなたがたはその人の雰囲気と似ていたので。それに、修道女の前であれ程までの『異質』な空気を発して気づかれないはずがありません」
「あちゃ~……」
最高司祭の娘の言葉に、先程暴走しかけたことを思い浮かべ、苦笑を漏らすシリアル。
すっかり反省しきった様子のシリアルはバツが悪そうに、縮こまってしまう。
そんな普段とは違う態度のシリアルを見兼ねたのか、ウィルが一度、わざとらしく咳払いをして、
「おほん……で、そんな最高司祭の娘さんが僕達『絶望』みたいな悪の権化に助けを求めてていいのかい?」
「…………私は」
修道服の布を握りしめ、唇を噛む最高司祭の娘。
その裏には色々な葛藤が渦巻いているに違いない。
しかし、その上で彼女は、エリファ達に助けを乞うた。
だからこそ、今一度エリファ達は彼女の心に問わねばなるまい。
目の前の彼女は、一度俯いてから、顔を上げ――、
「私は、何としてでも父を助けたい。その為なら、なんだってします。悪魔にだって心を売ってみせます!」
「はっはっは!! おい『臆病』! 我ら『悪魔』扱いされておるぞ! 助けを乞う相手に向かって『悪魔』!! ぶわっはっはっは!!」
クロの言う通り、助けを乞う相手に向かって『悪魔』はなかなかに面白いが、なるほど、
「……なんでも、ね」
「うっ。……え、ええ、なんでもです」
「そ。ならいくつか条件がある……一つ目は、私達を『聖堂』に入らせること。そもそも入れないと貴方の父も助けられないし」
あの審判の扉をスルーして『聖堂』に入れる方法があればいいのだが、助けてあげる身としてはそれくらいはやってもらわないと困る。
「はい、それは心得ています」
「……二つ目は、助ける際に私達が何をしても、目を瞑ること」
「――!」
それはそうだ。
彼女は父を助けたい、エリファ達は『組織』から『パンドラの箱』を奪還したい。
我々は目的の為には手段は選ばない。
エリファ達にとって人一人の命なんて、正直なところどうでもいい部類だ。
だから、エリファ達には、助ける対象である最高司祭と、『パンドラの箱』以外はどうなっても関係はない。
それをいちいち指摘されていたらめんどくさい。
「…………わかり、ました」
「じゃあ、三つ目は僕から。君の父がもし助かったら、手柄は全部、『幽鬼の姫』がやったということにしておいてくれ」
「……? それは、どういう?」
「そのまんまの意味さ。君の父を助けたのは僕らではなく、『幽鬼の姫』だ。いいね?」
「…………」
ウィルの言葉に最高司祭の娘は怪訝な表情を浮かべながらも静かに頷く。
ウィルによって付け加えられた条件はエリファにとっては願ったり叶ったりだ。
『自分がどれほど変わっても』、アンナとの約束は守るつもりだ。エリファは絶対に友との約束を破ったりしない。
「よし。なら、状況を説明してもらえるかい?」
「は、はい、実は……」
※※※※※※※※※※
「――それで、去り際に父の声が聞こえたのですが、
『邪神』、と、そう呼んでいました」
「『邪神』だって……!? いや、そうか……だが、どうして急に……?」
最高司祭の娘あらため、セイラ・ヴェーラの説明を聞いたウィルが『邪神』という単語に大きく反応する。その後すぐに考え込むウィルの様子を疑問に思ったセイラは問う。
「『邪神』を知っているのですか?」
「ああ、いや、そういう訳ではないんだが……まあ取り敢えず状況はわかった」
なんとも歯切れの悪い回答だ。
まあウィルのそういう様子は今に始まったことでは無いのだが。
ちなみに、セイラの説明を要約するとこんな感じだ。
いつも通りの『聖堂』に突如として不穏な空気が漂い始め、『聖堂』の中にある『女神像』と瓜二つの『邪神』と呼ばれた邪悪な存在が現れ、最高司祭レイラント・ヴェーラにその場から逃がされたセイラは、エリファ達に助けを乞うた。
いささか、簡単にしすぎたが大体の流れはこうだろう。
そこで疑問になるのが、なぜ文字通り聖なる場所である『聖堂』に『邪神』のような邪悪が現れたのかということなのだが、それに関してはエリファは話を聞いた今、漠然とだがわかっている。
「……『邪神』、か。そんな気がしなかったわけではなかったのだけれど、やっぱり……うん、なら尚更止めないと。こんな状況になったのは私の責任もありそうだ」
もしエリファの予想が正しければ、今回の件はだいぶ厄介なことになる。
色々と覚悟を決めなければ。
エリファはいつからか生成していた二本の『咎人の剣』を確かめるように握りしめる。
「……? エリファ、どうしたのぉ?」
「いいや、何でも。……自分に絡まった因縁達に、そろそろケリをつけなきゃと思っただけ」
「ぶー。エリファまでウィルみたいに難しいこと言ってるぅ」
頬を膨らませるシリアルに苦笑しながらも、エリファは内心で、喜びやら期待やら、何かそういった類の感情を感じていた。
それも当たり前か。
やっと、抑えているものを解放する時がやってきたのだから。
やっと、自分を縛る鎖を解く時が来たのだから。
今回の戦いは、恐らく間違いないといっていい。エリファという存在にとって大きな転換点になる。
もう、邪魔なものはとっぱらわれた。
あとは、我慢せず、『それ』を振るうだけ。
一度、『それ』を認めれば、エリファは変われる、いや、変わってしまう。
その時が今はただただ待ち遠しい。
「さて。じゃあ、早速、『聖堂』に向かおうか。……とは言っても、あくまで不利な状況になったらすぐ撤退だ。まだ、『組織』のことも『邪神』のことも情報が少なすぎるからね。分かったかい?」
「了解」「あいわかった」「おっけぇ」
「君も、それでいいね? 一応、君の父のことは優先しようとは思うが」
「ええ、わかりました。お願いする身です、無茶は言いません」
ウィルの言葉に上品に礼をするセイラ。
その合意を見て、ウィルは再度口を開く。
「――よし、では最高司祭の救出、及び、『箱』の奪還への行動開始だ」
※※※※※※※※※※
――舞え、健気な花弁達よ。
――舞え、大きな風が邪魔しようとも。
――舞え、ずっと遠くその存在を知らしめる為に。
――舞え、舞え、舞え。




