二章第10話 『〈飢餓の絶望〉』
――実は町で、人と人が喰らいあっていたの。
屋敷に入ってすぐの所でまっすぐとアンナに向き直り、焦る気持ちを押さえつけながら、そう伝えて少し経った。
今、エリファは走るアンナの背を追って、赤く染った町中、その鮮血の絨毯を踏みつけている。
「どうなっているの、これは……!!」
「ひどいですね……」
ふと、町の開けた広場でアンナは歩みを止め、白い服の裾をぎゅっと両手で掴みながら、切れた息とともに声を吐く。その表情に浮かぶのは驚きと、怒り。
その声に続いて、ルシアンが目の前に広がる惨状を見て、歯を食いしばった。
生温い風に乗って、エリファ達の鼻腔を刺激する濃厚な鉄の錆びたような匂い。血の海には、もはや人の形をとどめていない骨の残骸のようなものが散らばり、島をなしている。
肉のようなものは無い。それは、捕食者達が肉を喰らい尽くしたからであって、残るものは骨と血のみ。
だが今となっては、その捕食者の影も、エリファが逃げ惑っていた時に比べて明らかに数が少なくなっている。
エリファの生体センサーに引っかかる数も、もちろんだ。
「っ……!! ルシアンとメーティス並びに他の者達は、まだ息のある者の治療と、理性を失った民の沈静化をしなさい!」
「はっ!」
「私、治癒術師でもなければ、戦士でもなく学者という立場なのですが……この状況そうも言ってられませんよね〜。はい、メーティス任されました〜」
アンナは、この目の前の光景の惨状を嘆くよりも、優先すべきは、未だ潰えていない命を少しでも救うことだと、ルシアン及び、屋敷から町の異変のために出動した者達に指示を送った。
それに、短く答えるルシアンと、ぐだぐだ答える背の低い屋敷の専属学者メーティス、多種多様なリアクションで答えるその他の兵たち。
自分の領地の民が、こんなにも惨いことになっているのだから、そのアンナの心情は穏やかなものではないと思うが、そういった場面でも外面だけでも冷静に対応出来るというのは相当なことだ。
ルシアン含めアンナの私兵達は、素早く町中へと散開し課せられた任務をこなそうとする。
現に、エリファが視認できる距離のギリギリの位置にいた捕食者の生き残りを、慣れた手つきで気絶させ無力化するのを見た。
「おおおお……ルシアンは分かってたけど、やっぱ王国の姫の護衛に選ばれただけあって他の奴らも強えのな」
「当然よ、私が自ら選んだんだもの」
「まじかよ、これ全員スカウトされた奴らなのかよ……」
見た感じ、兵達の数は百を超えている。その者達一人一人を、アンナが直々にスカウトしたとなると相当な苦労のはずだが、当の本人がなんてことない風に言うので、天才は物事の基準が高いのかとつくづく感じる。
逆に、その天才の基準を満たしたのが、この兵達であるから強いのは当たり前といえば当たり前なのだろうか。
ザガがその兵たちの洗練されたスムーズな動きを見て、感嘆を洩らした。
「――!!」
その矢先、エリファの生体センサーがおぞましい雰囲気を放った何かの生気を感じ取る。
それは、前にルシアンに連れられ『プレストロベリー』の入ったパンを食べた時に、町中で感じた恐ろしい気配と一致しており――、
「アンナ! 何か、何かが来る!」
「エリファ? どうしたの――――」
エリファが出した、焦燥感を含んだ呼びかけに兵たちの様子を見ていたアンナは振り返り、言葉の途中で息を飲んだ。
突如としてこの広場を満たした、吐き気を催すような不快感。どうしようもなく加速する鼓動と、身体中からじっとりと吹き出す冷や汗。
それら全ての原因と思われる、異質なプレッシャーを放つその存在は、エリファ達の前に現れ、
「こんにちはあ、エリファ」
「誰……!?」
話しかけてきた少女は、黒い花の髪飾りを紅色の髪に付けていて、その瞳は毒々しい紫。口からは鋭い八重歯を小さく見せ、身に纏うのは生地が髪飾りとおなじ黒色の微妙に露出度の高い、本体と袖が分離した変わった衣装。
パッと見、美しい花を連想させるような姿をしていた。
が、エリファにはそんな容姿の知り合いの少女は、どれほど記憶を辿っても該当するものがない。というより印象的な少女だから、一度出会っていたのだとしたら忘れるはずも無いが――、
「エリファ? 知り合いかしら?」
「……ううん、知らない」
「あらあ、あなたが私の事を知らなくてもお、私はあなたのことい〜〜っぱい、知ってるよお? ……ね、生まれたばかりの『幽鬼の姫』」
「――!!」
アンナの質問に対して首を横に振って否定し、それに続く少女言葉に、エリファは驚愕する。
『幽鬼の姫』と、確かにこの少女は言った。しかも、しっかりと生まれたばかりという説明までつけ添えて。
エリファの名前が世界に広まったというのなら、嬉しい限りなのだが、今のエリファはまだそのような知名度は無いはずだ。
なのにも関わらず、こちらは何も知らないのに、相手にこちらのことばかりが一方的に知られている。
その事に対する、妙な嫌悪感が何故かエリファの心を大きく掻き乱す。
「……ねえ、一つ質問をしてもいいかしら?」
「うーん? 別にいいけどお?」
呆然とするエリファに代わり、アンナがその口を開く。
少女が了承すると、アンナは怪訝な表情を浮かべながら、続けて、
「この異変……もしかして、貴方が原因かしら?」
アンナのその問いに、エリファははっとして顔を上げた。
そうなのだ。町の人々は皆、全員理性を失い、『捕食者』と成り果てたはずだ。
なのに、この少女は何事も無いようにエリファに声をかけてきた。
後から町にやってきたのだとしても、この町の悲惨な血みどろな状況をみて、平然としているのもおかしい。この有り様を見て落ち着いてられるのは、異変の犯人か、よほど場になれた者か、狂人だけだ。
エリファ含めた場の全員が注目し、次の言葉を待っていると、少女はその顔に卑しく八重歯を見せながら笑みを作り、
「――そうだよお? 私は『飢餓の絶望』――シリアル・ファングリル。この町の出来事を引き起こした張本人!」
元気よく答えた。
――瞬間。
ダァン!!という大きな音が炸裂し、物凄い勢いの風圧が空間を揺らした。
暫くして、服の裾を握りしめて小刻みに震えるアンナの一歩踏み込んだ足元が深く、抉れているのを見て、エリファはその音と風がアンナによって放たれたものだということにきづく。
アンナが下げた顔を上げ、少女の方へ向けると、その表情を見て、エリファはゾッとした。
その顔は、今までの自信に満ち足りた顔ではなく、鬼という言葉がぴったりの怒りの形相だった。
エリファが不安そうな目で見つめていると、アンナは、身体と同様に震える声で、少女に問う。
「何故……何故かしら……?」
アンナの何故、という言葉が何の答えを求めているのかはわからない。この町が狙われた理由か、はたまたこの異変を起こした理由か。
だが、少なくとも少女は後者の方と捉えたようで、
「私、今、休み時間なのお」
「――は」
短く、答える。
この場にいる誰が、間の抜けた声を漏らしたのかはわからない。
だが、それ以上に、誰もが少女の言っていることがわからなかった。
「……だから、私、今、休み時間なのお。休み時間って誰にでもあるでしょお? それで、その休み時間に、仕事のストレスとかを発散するでしょお? ……例えば、趣味とかに没頭してさあ」
続く言葉に、皆誰も押し黙り何も言わない。理解不能。言葉の意味は理解出来ても、その行動原理の理解
が出来ない。いや、したくもない。
「私もストレス発散したかったのお。だから、この町の人達に喰い合わせたんだよお、これは単なる娯楽だよお?」
見れば、アンナの服の裾を握りしめる両手には血が滲んでいた。それでもなお、怒りで痛みを忘れたのか、握る力は緩めない。
そんな様子を気にすることもなければ見ようともしない少女――『飢餓の絶望』は「だって」と続けて、
「『食』っていうのはさあ! 素晴らしいと思わない!? 食事は生きるのに欠かせないでしょお!? 他者の命を喰らい、その命を自分の命にする、命と命の取引!! 他者を食い殺すことによって、私達は、その生を実感出来る! 食欲は生きていないと感じられない、身体が生きようとしていなければ感じられない!! そう、だからこそ、生きている証!! 相手の腕を、足を、腹を、首を、頭を、肉を、血を、骨を、魂を咀嚼する!! その時に私は命の美しさを一番実感できる! 私は生きているんだって実感できる!! ああ! なんて罪深くて、醜くて、美しい行為なのお!? そう思うで……」
「――結構、もういいわ」
どこか色っぽく、恍惚とした顔で怒涛の勢いの早口で、自分の『食』という行為に対する価値観を押し付けるように、どこか擦り寄るように熱弁するシリアル。
その言葉をアンナが血が滲んだ手を叩き、ぴしゃりと静かに遮った。
「よくわかったわ……お前を理解できないということが」
「おう、そうだな、こいつの言ってることはまじでさっぱりだ。まあなんつーかその、お前も命を軽く見なしすぎなパティーンか? 五百年の間に随分と、命を軽視派が増えたみたいだな」
「別にいいよお、そもそも理解してもらえるなんて思ってないから。それに、命は重いよお。命より大事なものは無いよお」
突き放すようなアンナとザガに、シリアルは、気にしなーい、と手を顔の横辺りでプラプラさせてから、命の価値については訂正する。
シリアルが言うには、この異変はシリアル本人の娯楽的な思考によって起こされたものだ。だから、この町が標的になったのは偶然なのだろうか。
「……命が重い? どの口が言うの?」
「命は重いよお。その重みを知っいるからこそ、『食』が美しいんでしょお?」
エリファの責める言葉に、まるで、常識を知らない人に言い聞かせるような物言いで反応する。
そう、この少女にとって、それはきっと常識なのだろう。少女の中ではそうなのだから、外であるエリファ達に理解してもらう必要なんてない。
「ああ、本当は、あなた達にも食べたり食べさせたりしたいんだけどお、様子を見に来ただけたし、やめておくねえ」
「やめておく?」
「休み時間ってさっき言ったでしょお? もうそろそろその休み時間、終わりなのお。あ〜あ、面倒臭いなあ……」
「じゃあ、もしかして――」
「うん、帰るよお。バイバ〜イ、また会おうね」
「あらそう」
何も悪びれず、無邪気に後ろへと振り返り、そのまま手を振りながら来た方向へと戻ろうとする少女。
そんな様子を見て、アンナはふっと笑い、それからゆっくりと告げる。
「――愚か者ね。逃がすわけないでしょう?」
次で、オープニングがやっとこさ終わります。
二章自体はまだまだ続きますが、次々回から『幽鬼の姫は終焉に揺蕩う』の本編開始です。




