二章第6話 『その男、ザガ』
「うっし、まあ、従者として、ちょいとばかり主を守るとすっか」
黒の長ズボンと、鼠色の縦に細いラインの入った、ラフなシャツを身にまとい、ザガは、足がすくんだ主の助けとなるために、火の玉から人間の姿へと、変身を遂げ、顕現する。
辺りに悲鳴はなく、ただただ、徘徊する飢えた獣たちの、呻き声でむせ返っていた。
町の家々には、目立った外傷もなく、実に品のある美しい外見を保っている。が、下を見れば、捕食者たちがその地面に敷かれた紅い絨毯を歩くたびに、ぴちゃぴちゃとその液体を跳ねさせている。
その街の中を、暴走的に駆け回ってきたエリファの足も、飛び跳ねた赤い血がべっとりと付き、真っ赤に染め上げられていた。
エリファは、突如として現れた、長身の男に愕然とし、何も言わずに眼を大きく見開く。
「お、姫、驚いてんな。なんだかんだで俺がこの姿見せんの初めてだから、無理もねえか。けど、そうやって色々と考える時間は、あいつら空気読めねえから、与えてくれそうにないぜ」
あいつら、といって持っていた武器としては珍しい、大きな鎌を身体の正面で両手に握りなおしたザガが見つめる視線の先には、こちらへと向かってくる無数の捕食者たちの影。
その影たちは、どこからかザガとエリファ二人の居場所を嗅ぎつけたらしく、迷うことなく暴走したエリファが逃げ込んだ店の裏へと一直線に近づいてくる。
エリファが落ち着くまで待ってやりたい、その気持ちはやまやまなのだが、如何せん状況が悪すぎる。このままだと、いつかじり貧になって、全員あいつらの胃袋の中というのがオチだ。
そもそも、ザガがこの姿を現したのは、その落ち着ける時間を手に入れるために、エリファをルシアンたちのいる最も安全であろう屋敷へと、たどり着かせるのが目的だ。なら、
「腹減ってるところ悪いが、姫のためだ。ここは意地でも切り抜けさせてもらうぜ!」
鎌の先の高度を少し上げ、光に当った白い刃を反射により輝かせて、宣戦布告、否、逃亡宣言をする。
無理に戦う必要はない、屋敷に向かうルートを塞いでいる邪魔な捕食者だけをその場の状況に合わせて必要数だけ倒して行けばいい、今のザガには、正直なところあまりこの姿でいられる時間が多くはない。
出来ることなら、一直線に目的地へと向かいたいのが今の心境である。
「――っと。まじで、お前ら礼儀とかっつうもんを知らねえのな。食べるときには、まず手を合わせて『いただきます』だろうが!」
勢いよく飛びかかってきた捕食者の一人を、鎌の長い持ち手の棒――鈎柄と呼ばれる部分で、受け止め、それから軽々と押し返し、宙に浮かしたところで、鎌を素早く持ち替え、振りぬき、その刃で捕食者の腹を絶った。
上半身と下半身で二つに切り裂かれ、分断された腹部から膨大な量の血しぶきをまき散らしながら、その捕食者はあっという間に絶命し、地面へと落下する。
そんな光景を見てもなお、一瞬もひるむことなく次々に襲い掛かる他の捕食者に舌打ちをしながら、ザガは、そいつらの攻撃を軽い身のこなしで受け流しながら、頭を抱え蹲るエリファへと振り返り、
「姫、まだ歩けるか?」
「ごめんザガ……足に力が……」
捕食者たちの声を再び聞いて噛まれた時のことを思い出したのか、小刻みに体を震わせ、今にでも泣いてしまいそうな表情でザガの顔を見上げ、血のにじむ首元を手で押さえながらエリファが答える。
そうなるのも仕方がなかった、今までに、生まれ持った『完全幽体』という特殊な体質により、大きな傷を負ってこなかったエリファにとって、今回の痛みという感覚は、相当なトラウマになったはずだ。それも油断しきった相手からの、突然な、死へと繋がる一手だ。
今のエリファには、この捕食者たちは恐怖の象徴にでも見えているのだろう。
とにかく、エリファが動けそうにないということを把握したザガは、手を差し出し、
「オーケーオーケー、気にすんな。自力で動けねえなら、俺が姫を屋敷まで抱えて行ってやるさ。この鎌は俺の一部――片手でも問題なく振ってみせるぜ」
差し出した手とは違う方の手で鎌を持ち、片手でも振れるというのを、エリファを少しでも安心させるために全力で振り回しアピールする。
これは、根拠の無い自信ではない。ザガがエリファが目覚めるまでに、幾度となくこの鎌を振ってきたからこそのこの言動だ。
対するエリファは一瞬戸惑いをみせながらも、それから弱々しい力で、差し出されたザガの手を握り返した。
「――よし。……おう軽い軽い」
そのまま握った手を介して、ザガはエリファを持ち上げ、細いが意外と筋肉のしっかりした腕の側面に、座らせ、思わぬエリファの身体の軽さに、声を漏らす。
「かなりトバすから、しっかりつかまってろよ、姫。何かの拍子に姫を落っことしたりしたら、それこそ俺が耐えられねえ」
もちろんエリファも危険だが、そんなことになったらザガの精神も保つ自信がない。結構、冷静に見えて内心かなりザガはエリファがこんなにも取り乱したことに焦りを感じていた。取り乱し、動けない主のために足になったり、守ったりするのは従者の務めだが、その主が自分の失敗によって命を落としたりなんて考えると、ぞっとする。
そんなザガの警告を聞いた、エリファは素直にその言葉に従い、腕をザガの胴体へと回し、体重を預けて抱き着く。
「おっと、姫に『ぎゅっ』ってされるとか、これこんなご褒美イベントだったか?」
「ザガ……!」
「はは、冗談だ。――じゃあ、いくぞ!」
思わぬおいしい展開に、身体をくねらせてにやけるザガに、そのくねる身体にしがみついたエリファが揺れながら、力なき怒りをザガに向けた。
ふざけながらも、回されたエリファの腕から震えを直接感じ取り、ザガはより一層、主を無事に屋敷へと送り届けることに対する決意を硬くする。
力強い掛け声とともに、ザガは血が滴り落ちた地面を踏みにじるようにして、掛け声と同様に力強く走り出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
目指すは最高戦力が集まっているであろう屋敷。その道中には食事のマナーが恐るべきほどになっていないイーター。
ザガは、進行方向を塞ぐ理性を失い獣じみた人々を、エリファを片手で抱き上げ、支えながらも片手で持った本来、両手で扱うべき武器で怒涛の勢いで切り刻み、突き進んでいく。
「……ったく、それにしても本当に訳の分からないことだらけだぜ」
朝起きて、メーティスという変わった学者と出会い、一方的な会話を終え、領主であるアンナと、従者であるルシアンに挨拶をして、街に出て、少し歩いたらこれだ。
町中に溢れかえる、カニバリズム。
豹変した町人の様子を見て気づいたことは、全員が飢えているということだ。それこそ、同種であり、しかも同じ集団に属する、人間を食べてしまうほど極限に。
思えば、昨日の夕方にルシアンに紹介してもらった飲食店に行列ができていたころから、この異変はすでに起こり始めていたのかもしれない。
でも、これが変わった町の風習とかじゃなければ、町の皆をそうさせた誰か、おるいは何かの原因があるはずだ。だが、今のところそれは、しっぽすら見せていない。
「うおっ! あぶねえだろうが! うちの姫に何かあったらどうすんだ!」
後ろを振り返り、追手の有無を確認していると、進む足を、何かに摑まれ、バランスを崩しそうになるが、倒れこむすんでのところで踏ん張りをきかせ、何とか持ちこたえた。
身体の重心を整えると同時に、足元に確認した捕食者に反射的に罵声を浴びせ、そのまま振り払い、走り去る。
「……ザガ、大丈夫?」
しおらしく震える声で、ザガの胸のあたりに顔を埋めながら目をつむるエリファが心配そうに声を上げる。
それに、これ以上、不安がらせないように、ザガが少し大げさなモーションで本当のことを伝えようとして――、
「おう、俺はぴんぴんしてるぜ。屋敷ももうすぐ、だっ!?」
住宅の陰から前触れもなしに飛び出してきた捕食者に、先程バランスを持ち直してみせて気の緩んでいたザガは、反応が遅れ、盛大なタックルをかまされてしまう。
元々力の入っていなかった腕だ、その突進に対する反発の勢いでザガの身体から、しがみついていたエリファの腕がするりと抜けて、そのまま、エリファの身体が前方の宙に投げ出される。
「しまっ!? ――『ブースト』ッ!!」
咄嗟にザガは足腰に魔力を送り込み、そのエネルギーで強化された足で思い切って地面をえぐるようにして蹴り、投げ出されたエリファの着地地点に向けて飛び込んでいく。
「話してる時に、攻撃すんなよ!! 躾がなってねえぞ!」
通常の何倍にも膨れ上がった、弾丸のようなスピードで、エリファの真下へと滑り込み、鎌を投げ捨てた両手でその身体を受け止め、腕の中の柔らかな感触にザガは安堵しながら一息ついて、襲い掛かる捕食者たちをまとめて蹴り飛ばし、猛烈に抗議する。
もちろんそんな抗議には聞く耳を持たず、ついには、捕食者同士で噛み合い始める始末だ。だが、これは狙われていないという、二人にとってまたとないチャンスであることを示していた。
ザガは地面に転がっていた愛用の武器である鎌を拾い上げ、
「何も聞いちゃいねえな!? ……てことは今がチャンス!」
再び、屋敷へと走り出す。後方を見て捕食者たちの動向を探るが、今のところお互いの肉を食い散らし、骨をしゃぶるのに夢中である。
ザガの『ブースト』の効果はもう消えており、これ以上に魔力を使用するとこの姿での活動に限界が来てしまうために、再発動することも叶わず、持ち前の身体能力だけで突っ走る。
それでも、運ばれているエリファがその頬に、かなりの風を感じることができる。それだけ、ザガの元々の最大活動レベルが高いことを、その鉄のにおいがする風が示していた。
「――おう、姫、着いたぜ。追手も来ていないみたいだ」
「……ほんと?」
恐怖で目をつむっていたエリファが恐る恐る目を開くと、目の前には左右に竜の像が建てられた、格子状の門――アンナの屋敷の出入り口である門が視界に映る。
ギイィィ。
ザガはエリファを抱えたままその門を開け敷地内へと歩みを進めて、悠然としただだっ広い水の流れる音が聞こえる庭を背景に、真っ直ぐに伸びた白い石畳の道を辿って行く。
「ザガ……ありがとう。少し落ち着いたから、降ろしてもいいよ?」
「んー?」
「……ザガ?」
「ああ、すまんすまん」
もう少しこの愛らしい少女に触れていたいなどと思ったりもしたが、そのほかでもない愛しい主の命令だ、ここは素直に聞いておく。
しゃがんで、彼女が転ばないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと屋敷の玄関前で降ろす。
「っ!! ザガ、この屋敷の生体反応、少し減ってる気がする……」
降ろされて地に足をついたところで、エリファが一瞬ぴくりと身体を震わして、眼を見開きながら不安そうな口ぶりで吐露する。
「おいおいそれはねえだろ、俺が思うにこの町の奴らがおかしくなり始めたのは、昨日の夕方、それかもっと前のはずだ。昨日の夜、この屋敷の奴らの腹がいつもより減ってるとかそういうたぐいの変化はなかったろ?」
「でも――」
――ふんふふ~ん。ふんふんふ~ん。
突如として、鼻歌のようなものが会話するエリファ達の鼓膜へと、屋敷の玄関の扉の奥からたどり着き、震わせた。
機嫌のよさそうなその声を聞き、エリファは何事もなく無事だったのかと思う心と、知らない声の主への不信感を思う心を共存させる。
エリファは何か腫れ物に触るような感覚で、屋敷の玄関扉の金色の取っ手をつかみ、時間をかけてその扉を開ける。
――するとそこには、一人の女。
ふらふらとした足取りで歩いていたその女は、扉を開けたエリファ達の姿を確認するや否やその愉快そうな鼻歌を中止して、クマのあるその目でエリファをじっと見つめて、それから、笑い、
「あぁ……また増えた」
ぽつりと、息を吐くように呟き、血のついた細長い刀身の切先を、エリファ達へと向けた。