二章第5話 『初めての痛み』
「――人が人を食べてる」
白目をむいた、人間の肉体を、必死に貪るもう一人の人間。
その口周りには、血がべっとりとついている。
「どうなってんだよ……変わり者ばっか居るとは言ったけどよ……」
目の前で起きている事象は、もはや『変わり者』とだけでは収まらない。
しかも、『共食い』をしているのは、この目の前の二人だけではない。
町の奥へと視線をずらすと、人間の死体に群がる大勢の人間。
そんな光景が、いくつも確認された。
「――お姉ちゃん」
「……え?」
突如聞こえた声に、振り返るとその頬に涙を流した、赤いワンピースの小さい女の子がエリファを見つめて立っていた。
涙を手と腕で拭い、顔を顰めながらエリファに近づいてくる。
「うあああぁぁぁあん……お姉ちゃあぁぁん」
「……」
泣きじゃくる女の子を慰めようと、その小さな身体を力強く、尚且つ優しく、抱擁する。
小さい女の子に、こんな光景、耐えられるわけがない。
できるだけ、もうこれ以上、血を見せないために、エリファはその身体で、女の子の視界を隠す。
「お母さん……お母さんがああああぁぁ」
「……大丈夫。私が、何とかするから」
何が、大丈夫なものか。
言葉と今の状況から察するに、親が殺されたのだろう。
であれば、エリファが何をしたところでもう助かるまい。
「大丈夫、大丈夫」
「姫…………」
それでも、エリファはなんの根拠もない言葉を口から漏らし続ける。
エリファ自身、何故こんなことを言っているのか、はっきりとは分からない。
エリファは、生き物の生気を感じ取ることが出来る。
だが、この町は人が多く、全人口数を把握することは出来なかった。
つまりは、この町の生体反応がある程度減っても、元々の最大数を知らないから、エリファには、今日はちょっと人が少ない、位にしか感じなかったのだ。
もし、エリファが、もっと早く気づけていれば、被害を抑えられたかもしれない。
もしかしたら、その事に罪悪感を覚えているからかもしれない。
――私がもう少し頑張れば、こんなことにはならなかったのに。
そうやって自身を責める心が、女の子へと、いや、自分へと、逃げるような言葉を吐かせているのかもしれない。
「――ほんと? お姉ちゃんが、たすけてくれるの?」
「…………うん」
エリファの腕の中で、泣き喚いていた女の子は、顔を見上げて、エリファの顔をじっと見つめる。
エリファは、それが、自分を糾弾する視線に思えて、自然と女の子から目を逸らした。
罪の意識はあるのに、それを追及されるのが怖くて、受け入れられない。
「ありがとう。お姉ちゃん――」
止めて欲しい。
感謝されるようなことは何もしていない。
むしろ私が、私の油断が、この女の子の親を殺したのかもしれないのに。
「――おねえちゃんが、たべられてくれるんだ」
「――え?」
ぎしっ、と、首元から、鈍い音がする。
そして、感じる鋭い痛み。
噛みつかれ、女の子の歯の一本一本が、肉体に食い込んでいくのがわかる。
「姫ッ!!!」
熱い、血がドクドクと脈打ち流れ出す感覚。
命の零れていく音。
――痛い。
「あ、ぁうあ、あっ、あぁ……」
何故、『幽体』に噛み付くことが出来るのか。
――痛い、痛い。
一体、自分の身に何が起きているのか。
――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――。
「――おいしいなあぁ……おねえちゃん」
「っく、ぁ、あぁ、うあぁ、ああああぁぁぁ」
「姫、落ち着け! 姫!!」
「おかあさんがね、たべもの、ゆずって、くれなかったの、だから、わたし、おなか、すいてたんだあ」
エリファの震える視界に映る、エリファの中で罪の象徴だった女の子は、恐怖の対象へと変貌を遂げる。
「でも、まだ、たりないよ。もっと、ちょうだい?」
「姫! っ、クソ! そうか、まずいな、まだ姫は痛みに耐性が無いのか!」
「じゃあ、いただきまあす」
「させるかよ馬鹿! 『プロテクション』!」
ザガが、魔法を発動させ、女の子と、エリファの間に魔力の壁を作り出す。
「じゃま。じゃま、じゃま! おなか、すいた。おなかすいたぁぁぁああああ!!」
「な、こいつ壁に!」
女の子いや、獣は、目を大きく見開き、一心不乱に、ザガが生み出した壁に、何度も何度も、その額を打ちつける。
額から血が出ているのにも拘らず、理性を失った獣の動きに止まる気配は無い。
「姫、しっかりしろ! こんな所でやられる訳にはいかねえぞ!!」
「ぁ、ああ、ぐっ、はぁっ、うう」
「くわせろ! くわせろおおおおおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
バキッと、いとも容易く、魔力の壁が破られる。
そして、すぐさま、極限にまで飢えた獣は、エリファに手を伸ばし、押し倒して、のしかかり、抑え込んだ。
そのまま、エリファに迫る牙。
「あ、ああ、うわあああああああああああああああああぁぁぁああああああああぁぁぁあああああああ!!!」
エリファが、今までに、発したことの無い声で、叫び、獣の身体を押し返して、距離をとる。
逃げなければ、この飢えた獣から。
この世界に生まれてから初めて、味わう、死を感じる痛みに、エリファは完全に、恐怖のどん底へと陥っていた。
逃げる、何処に?
血に塗れた、町並み。
もはや、町中が、捕食者で、溢れかえっているだろう。
慣れない痛みが、感じられる死が、いきなりの訳の分からないこの状況が、エリファを追い詰め、パニック状態にさせていた。
※※※※※※※※※※
「あ、おい! 姫!」
気づけば、エリファは走り出していた。
目の前の恐怖から逃げるために。
「うわあああああああああ!! くるなぁ! くるなあ!!!」
魔術で剣を生成し、襲い来る、捕食者たちに、投げつける。
それらは、深々と捕食者たちの身体に突き刺さり、分断し、血を飛び散らせた。
宛もなく、エリファは死臭が漂う町を逃げ惑い、疲れ、物の陰に身を隠す。
「――め!姫! 聞こえてるか!」
「――っ!! ザガ……」
走り回り、喉が枯れるほどに叫び尽くし、少し、落ち着いてきた、エリファに、ザガの声が届く。
エリファはザガを見るなり、いつもの無表情は見る影もなく、泣き顔で、言葉を漏らす。
「ザガ……痛い、痛いよ。怖いよ……」
「大丈夫だ、噛み付かれた部位が大分悪いけど、まだ死にはしねえよ。むしろ、興奮して派手に動くと、血がいっぱい流れて、それこそまずいことになるぞ」
「でも、でも……!」
「いいか、姫、よく聞け。この状況は謎ばかりだ。なんでこんなことになってんのか、全くわかんねえ。ただ、この様子だと、間違いなく町の全員が余すことなく暴走してやがる」
それは間違いない。
何故なら、エリファが町を走り回っていた時には、正常な者は誰も見なかったからだ。
見たものは、理性が飛び、獣となった人間と、死体のみだ。
「ふー……ふー……」
「つまりは、見張りの兵士達もそうだ。だから、この事が万が一、屋敷のアンナ達に伝わっていなかったら問題だ。あそこには、この町の最大の戦力がいるはずだからな」
「…………」
「事を解決するには、ルシアン達の力を借りた方が安全だ。とりあえず、屋敷で姫が落ち着くまで、あいつらに守ってもらうのもありだ、幸い、姫は、あいつらに貸しがあるからな」
「……」
「だから、まずは、屋敷を目指すぞ。俺が話してる間に、少しは落ち着いたか?」
鋭い痛みは消えない。
だから、完全に落ち着くのは無理だ。
だけど、ザガのゆっくりとした説明の時間のお陰で、少なくとも、辛うじて思考が出来るレベルには理性が戻ってきた。
「よし、なら行くぞ。――――姫?」
「また……町の中を……」
ザガの言うことはよく分かる。
だが、捕食者達がうようよと存在する町中をまた屋敷に向けて、走るというのは怖い。
目標ができた分、多少は楽になるかもしれないが、それでも、初めて死を感じるような痛みを与えられたというトラウマはそう簡単に消えるものでは無い。
何故、物理攻撃に完全な耐性を持っているはずの、エリファの身体に傷をつけることができたのだろうか。
「安心しろ。俺が、姫のことは絶対に守ってやるから。姫は、俺を信じてくれるだけでいい」
「でも……」
「任せとけ、俺だってやる時はやるって前にそう言っただろ? 今がその時だ。今はとにかく、全部俺に預けろ」
ザガは、いつになく、優しい声をエリファに投げかける。
「ちょっと、魔力借りるぜ。今の姫の状態じゃ、短い時間になるだろうけどな」
「……?」
ザガがエリファに触れる。
その触れた箇所から、少し、エリファの魔力がザガへと流れ込む。
すると、ザガの炎はたちまち眩い光を放ち――、
「うっし、まあ、従者として、ちょいとばかり主を守るとすっか」
エリファが目を開けるとそこには、大きな鎌を抱えた、長身のやや髭の生えたサングラスをかけた男が立っていた。