二章第4話 『事件の幕開け』
「落ち着かない……」
アンナという、王国の五人の姫の一人であり、物好きな領主の屋敷へと招かれた夜。
その一時的に寝泊まりすることになった無駄に豪華で広い部屋の真ん中の、大きく、ふかふかのベッドの上で、高い天井を、冴えた目で見つめている。
このベッドは勿論、品質がよく、大層寝心地が良いように計算されて作られているだろうが、エリファはかえって、それで萎縮してしまい、なかなか寝付けないでいた。
一つの埃も無い巨大な窓から、月の明かりが、部屋を照らす。
「……ザガ?」
エリファは、自分の首にかけられている、紫の宝石のペンダントに向けて、声をかけるが返事はない。
ザガはいつも寝る時、このペンダントの中に入っていってしまう。
呼びかけに答えないということは、眠っているということなのだろう。
エリファは、セレマ達の村で寝た時は、寝る為の服装を持っていなかったので、ドレスに皺がつくといけないと思い、裸で布団にくるまって寝ていた。
が、それを知ったアンナが、軽くゆったりとした灰色のパジャマというものをくれたので、今はそれを着ている。
「……少し、風にでも当たってこようかな」
気分転換をしようと、思い立って、ベッドからおりて、ペンダントを中のザガを起こさないようにゆっくりと置き、扉を開け、長い廊下に出る。
その長い廊下の壁にも、部屋と同じような窓が付けられており、外の明かりが朧気に入り込んでいた。
エリファは少し、そっとガラスに触れながら窓の外を覗き込み、町の様子を見下ろす。
三階建ての屋敷の二階からみた町の様子は、大分、明かりも消え、夕時の賑わいではなく、閑静な姿を見せていた。
「――エリファ? こんな夜遅くにどうしたのかしら?」
「……アンナ」
エリファは突如、その長く広い廊下に響いた、覇気のこもった声に、視線を窓から廊下の先の暗闇へと移す。
そして、近づいてきた、月の光を反射して輝きを増す白の長い、少し癖のついた髪を揺らす、赤目のこの屋敷にエリファを招いた張本人――アンナの姿を確認して、エリファはその名を呼ぶ。
「……そっちこそ、なんでこんな時間に?」
「領主の仕事は多いのよ」
よく見れば、アンナはその手に、紙の束を持っている。
それも、アンナの言う仕事のひとつなのだろう。
「で、エリファはどうしたの?」
「……寝付けなくて」
「あら。それはごめんなさい、部屋に問題があったかしら?」
「いや、違う。単に自分が慣れてないだけ」
部屋に問題があるわけではない、むしろ、無さすぎる。
敢えて問題というものを上げるのならば、その問題が全く見当たらないことだろうか。
完璧な部屋にいるというのは、何故だかソワソワしてしまう。
それに、部屋もそうだが、寝付けない理由に、一つ心当たりがある。
「……アンナ、町でルシアンと食べ歩きしてた時に、一瞬、悪寒を感じた」
「悪寒?」
「うん……気のせいかもしれないけど、一応アンナには伝えておく」
「わかったわ。直ぐに今からでも、見張りの兵士を増やしておくように言っておくわ」
「……信じるんだ」
意外にも、深く聞くことも無く、逆に聞き流すことも無く、アンナは行動を起こそうとする。
そんな、アンナの即断即決な様子に、エリファは真顔で驚く。
なんかこう、まだ出会って間もないがアンナの行動力には目を見張るものがある。気に入ったからという理由で、赤の他人であるエリファを屋敷に迎え入れるのは少々やり過ぎな気もするが、
「何故疑う必要があるのよ? それに、見張りを増やしても私には何も困ることは無いわ。強いて言うなら、兵士達の仕事が増えるだけね。でも、兵士達も、この私が下した命なら、喜んで地を這い蹲ってでもやると思うわ」
「……ブラック」
自尊的な態度。だが、アンナにはそれを嫌だと思わせない、妙な説得力がある。
そんな、アンナの発言から、兵士達の黒い職場風景を想像し、エリファは言葉を漏らす。
しかし、アンナの指示ならば、確かに兵士達はやりそうだ。そう思わせるほどの、カリスマのようなオーラをアンナからは感じる。
「エリファは、明日、朝になったら、町で王都への準備を整えるのだったかしら?」
「……うん」
「本当だったら私もついて行きたいところだけど、私が町に出ると大騒ぎになるのよね。残念だわ」
アンナの言葉にエリファは最初、屋敷までアンナに連れてこられてきた時の道の端に住民達がひれ伏し、騒然とした町の様子を思い出す。
あの時、ひれ伏した人々は余すことなく皆、貴族に対する恐怖みたいなものではなくではなく信頼の安心したような表情を浮かべていた。
おそらく、アンナの帰りを喜んでいたのだろう。
「……それでどう? 少しは落ち着いたかしら?」
「――あ」
アンナとの会話の内に、いつの間にやら、身体中の妙なソワソワ感は無くなっていた。
アンナの力強い素振りが、そうさせたのだろうか。
かこれを意図してやったというのならば、本当にどこまでも、人の上に立つ才に溢れている。
「……うん、落ち着いた」
「そう、それなら、よかったわ」
アンナは白い髪を細い指の先でつまみ、弄りながら少し頬を赤らめ照れた様子で言う。
なにはともあれ、今からわざわざ夜風に当たる必要は無さそうだ。
エリファは今は、すんなり眠れる気がした。
「私は、やることがあるから失礼するわ、おやすみなさい、エリファ」
「……おやすみ」
アンナはまた廊下の闇に消えていく。
エリファはその背中を見届けてから、窓の月明かりから手を離し、部屋に戻っていった。
※※※※※※※※※※
「ふあああ」
小鳥たちが鳴く声がして、朝日が部屋に入り込んでいる。
ペンダントから聞こえる短い欠伸。
それから、ザガはエリファの前に姿を現した。
「もう、朝か?」
「……うん」
昨夜、エリファは慣れない部屋で、寝ることに苦労したというのに、一足先に、ぐっすりと寝ていたザガが、寝惚けたような声で尋ねる。
「姫、なんだよ、そんなに見つめて。そんなに綺麗な青い瞳で見られると照れるだろ?」
「…………別に」
良質な眠りへの嫉妬で、ザガに睨みをつけていると、その小さい紫の火の玉の身体から、茶化したような言葉が発せられた。
寝付けない主を放って、先に眠りにつくなんて従者としてどうなんだ、と言いたくなる心を抑えて、エリファは短く答えた。
エリファは速やかに、パジャマからいつものドレスのような服装に着替え、髪を二つにまとめてザガと部屋を出る。
「あ、お客さん。おはようございますです〜」
「おう、おはよう気持ちのいい朝だな! ……ってお前誰だ?」
部屋を出たところで、声をかけるのは、薄い茶色の髪を後頭部で、団子のように纏めている、タレ目の背の低い少女だ。
色白の肌を隠すように、長い袖と地面に擦れている裾といった、その背にサイズが確実に合っていないマントのような物を羽織っている。
なにより、その少女の容姿で目を引くのは、その背に不釣り合いなほどに育った、豊かな胸部だ。
服の上からでも分かるその二つの山は迫力がある。
「私はメーティスです〜、一応、アンナ様に専属で雇われている学者ということになってます〜」
「学者……」
「そんな、お客さん、私のこと可愛くてスーパー賢い美少女学者なんて照れます〜」
「いや、うちの姫、そんな事、一言も言ってねえかんな?」
「ええ、ほんとですか〜? 嘘ですよね〜、はい嘘です〜」
「あのー、メーティスさんだっけ? 一人で会話しないで貰えます?」
ザガの必死のツッコミも虚しく、不思議な雰囲気の少女は「えへへそんな〜」と、頬を赤らめながら何も目に入っていないかのように、一人で完結しながら、ゆっくりとエリファ達を通り過ぎ、離れていった。
※※※※※※※※※※
「しっかしまあ、お前、ほんとに物好きみたいだな。あの学者、キャラ濃すぎだろ」
屋敷の広い玄関で、ザガがアンナの前で呟く。
「あの学者? ああ、メーティスに会ったのね。あの娘、面白いでしょう?」
「あれがか? 一人で会話しながらどっかいっちまったぜ。もしかして、お前、あんな奴みたいなのばっかり集めてるの?」
「アンナ様の周りは確かに、変わった者が多いですが、皆、何かしらの才を持っている人ばかりですよ」
ザガの質問に、アンナではなく隣にいた、ルシアンが代わりにフォローするような形で答える。
やはり、アンナという変わり者に集まる者達も須く変わり者ということか。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。
「アンナ様は人を見る目があるのですが、ある意味ではないというか……」
「ルッシー、お前も苦労してんな……」
「ルシアン。貴方もしかして私のこと馬鹿にしてるのかしら?」
「いえ、滅相もない」
二人のやり取りに、不機嫌そうな表情を浮かべるアンナ。
実際なところ、まともそうに見えるルシアンも大分変わり者だろう。昨日の模擬戦時に見せた、あの戦闘への強い関心は普通のものでは無い。
「……とりあえず、町に行ってくる」
「ええ、エリファ行ってらっしゃい」
そんな、ちょっとした一連の会話を終え、エリファは屋敷を後にする。
※※※※※※※※※※
闊大な中庭を通り抜け、屋敷の敷地の出入口の門から、町へ出た。
「姫、どうする? まず何から調達するか」
「……やっぱり食料」
「ま、だわな」
「それと、昨日ルシアンが買ってくれたパン、もう一回食べたいな」
「かー! 姫にそんなにも求められるなんて、あのパンが羨ましいぜ。俺もパンになりてえ」
そんな軽口を交えながら、街中を進む。
「……え」
「おい! 冗談だ! そんな本気で青ざめるなよ! 傷つくぜ」
「――違う、ザガ、前」
「……ぁ?」
ふと、立ち止まり、エリファがいつもの無表情を歪め、前方に指を指す。
その指の先には、地面に飛び散った、夥しい量の赤黒い鮮血。
そして、聞こえるは、くちゃくちゃという咀嚼音と、ごりごりという骨を砕くような音。
「――人が人を食べてる」
エリファ達の目の前では、一人の人が、もう一人を食べる、共食いという罪深き行為が行われていた。