君のために僕は詠う―9―
君のために僕は詠う―9―
『ケイ君はまだ帰らないのか?』
検事で、亡くなった父さんの友人の永田のおじさんが聞いてきた。
『僕が帰って来た時にはもういなかったですよ。また“走り”に行ってるんですよ』
俺の言葉におじさんは『そうか…』と呟いた。
ケイは中学生になってから身体を鍛えるようになった。身体を動かすと“痛み”が少し和らぐようだった。でも、身体を動かすと言っても軽い運動程度では意味が無いらしく、ジムに通ったり(人の少ない曜日に行っていた)、60キロほど走って来たり(本当に軽く走って帰って来た)…
こんな軍隊の訓練のようなトレーニングをやっていたので、1年も経てば男の俺達でもハッとするくらい、ケイの腹筋は線を引いたようにキレイに割れていた。腕も足も余分な脂肪は全く付いておらず、締まっていた。
身長も1年間で5センチも伸び、顔立ちも相変わらず端整で、学力は全国模試で10位以内に入っていた(これぐらいだったら騒がれずに済むと本人は考えたのだろう)。中学2年になり、ケイの高校進学の事で担任から何度か連絡が入るようになった。3年になったら校長が屋敷に来るのではないかと、俺は既にうんざりしていた。
当の本人は――学校生活には相変わらず興味が無い様子だった。クリスマスやバレンタインや誕生日(どうやって調べたのか…)に学校の女の子達が屋敷までやって来た時も、面倒臭そうに『いらないから帰って』と冷たく言っていた。
ただ…“走り”に行く時は明らかに違った。帰って来るといつも機嫌が良かった。――――そう、あの日以来ずっとこんな調子だった。
<内緒だよ>と言ったきり、ケイは何も教えてはくれないが…大体の察しは付いていた。
60キロの途中に、いや、60キロ地点に好きな子か…すでに恋人か…いたようだった。
“その子”の存在はケイにとってかなり大きいようだった。その証拠に、ケイは熱を出す事がなくなり、頭痛も治まっているようだった。
俺にとっては本当に嬉しく、微笑ましい事だった。(まだ早いかな、とも思ったけれど)
ただ、ケイの相手を知らないという事は、自分でも驚くほど歯痒かった。
『おじさん、すいません。僕これから大学に戻らないといけないんです。どうします?ケイ、待ってますか?』
『うん…そうだな…』そう言うと、おじさんは頭を掻いた。俺はピンときた。
『おじさん…またケイに“頼み事”ですか?』
俺の言葉におじさんは少し動揺したようで、俺は軽くため息を吐いた。
『“あれ”が最初で最後ではなかったんですか?』
『いや…そのつもりだったんだがね…ケイ君の情報が一番正確なんだよ。この間の事件もお陰ですぐ解決したんだ』
ケイの天才的な頭脳と運動神経に目を付けたおじさんは、証拠を掴めず、迷宮入り寸前の事件の捜査協力をケイに内密に頼んで来た。
学校の勉強より明らかに面白そうだとケイは二つ返事で引き受け、おじさんの思惑通り、完璧な情報を集めて来た。
『おじさん、ケイはまだ13歳ですよ』俺は呆れ顔で言った。
『…それは分かってるんだがね…ケイ君の才能を生かすには“良い仕事”だと思うんだよ。しかも、日本が平和になる!』
おじさんの半分開き直ったような口調に、俺はうんざりしていた。
『――――ただいま…あれ?昌男おじさん、どうしたの?』
ケイは額にうっすらと汗を滲ませ、爽やかに笑った。
『やぁ!ケイ君!今日はどこまで走ったんだい?』おじさんの言葉に
『いつもと同じコースだよな?ケイ』と俺が答えた。
俺がニヤっとしたのでケイは少し頬を赤くして、眉間にしわを寄せた。
『家のがケイ君の好物を聞いて来いってうるさくてね…』
おじさんは、俺がいなくなってからケイに直接話そうと考えたようだった。
『好物?何で?』ケイは、キョトンとしながら答えた。
『…来月、有治君がアメリカに行っている間家に来るだろう?家内がその準備をもうやってるんだよ。娘も大騒ぎだよ』
おじさんは笑顔で言ったが、ケイの表情は忽ち暗くなった。
3人はその<屋敷>の前でしばらくの間、立ち尽くした。
門から玄関ポーチまで1〜2分程歩き、ポーチの階段を2段上った。
ドアの前には本条有治とケイが笑顔で立っていた。
「よく来てくれました。さぁ、どうぞ」
アキと隆一と美枝子は、出された来客用のスリッパを履き、居間へと案内された。居間は程よく冷房がきいていて隆一と美枝子はホッと息を吐いた。
台所では、ケイが慣れない手つきでお揃いのカップとソーサーをガチャガチャいわせていた。見かねたアキは「手伝うよ」とケイのそばに行った。
「…いやぁ…実に立派なお屋敷ですなぁ…」
隆一はため息を吐きながら言った。
「本当…ドラマとか映画に出てきそう…」
美枝子も感動したように言った。
「ただ大きいだけですよ。築100年以上は経ってますから手入れが大変です」
本条は笑いながら言った。
アキが5人分のコーヒーを淹れて運んで来た。ケイは黙って本条の横に腰を下ろしていた。
「早速働いてもらって悪いね、アキちゃん。今日の分もお給料払うよ」
本条の言葉にみんな笑った。
「一応、これが契約書です」本条から手渡された契約書に3人は目を通した。
「随分、高待遇だな…」隆一は目を大きくした。
「先生…こんな…」アキは困惑の表情で本条を見た。本条は微笑んだ。
「家政婦の仕事はかなり重労働なんだよ。それでは少ないって思うかもしれない」本条の言葉にアキは苦笑した。
「アキちゃん、部屋の方は1階と2階どちらがいい?」
「…そしたら、1階で」
「分った。来る時までに片付けておくよ。ベッドとかチェストとかなら俺の母親が使っていたのならあるけど…今使っている家具を持って来てもいいよ。運送屋はこちらで手配するから」
隆一と美枝子は、ホゥと息を吐いた。
「本当に何から何までありがとうございます。私達も安心して息子達の所に行けますわ」美枝子は笑顔で言った。
「いえ、こちらの方が無理言ってしまって…アキちゃんに来てもらえて本当に助かります。ケイも喜んでるし」本条は笑いながらケイを見た。
「うん!またアキさんのシチュー食べれるね!」
ケイが頬を赤めながら言ったので、みんな声を上げて笑った。
「ケイ君、アキちゃんは他のお料理も上手よ」美枝子の言葉にアキは慌てた。
「やだ!おばさん、やめてよ!ケイ君、そんな期待しないでね」
アキはあせあせしながら言った。
しばらく談笑し、3人は屋敷を後にした。
「良かったわね。アキちゃん」美枝子は嬉しそうに言った。
「うん…でも、先生に申し訳なくて…」アキはうつむいて言った。
「いつものアキちゃんらしく、真面目に働いて先生に答えればいいじゃないか」
隆一の言葉にアキは笑顔で頷いた。
土曜日の朝―――気持ちの良い晴天だった。
隆一達の部屋からはどんどん荷物が運び出され、空っぽになった部屋をアキは美枝子と2人で一生懸命汗だくで掃除した。隆一と息子である博一と手伝いに来たケイはトラックに荷物を積んでいった。隆一と博一と運送業の男達3名は、ケイの働きっぷりに見惚れていた。
「いやぁ〜細い身体で…どこからそんな力が出るんだい?」男達は舌を巻いていた。「高校1年だって?卒業したらうちで働かねぇか?」
「ちょっと、あなた達!ケイ君ばっかり働かせて!」美枝子の言葉に5人の男達は苦笑した。
「―――アキちゃんは?もう片付いたのか?」休憩中、麦茶をガブガブ飲みながら隆一は言った。
「昨日、荷物は運んでもらったよ。アパートの部屋も片付けた」
「じゃぁ、アキちゃんも今日から新居か…」隆一は笑顔で言った。
昼前には家具などの荷物は全部トラックに積まれ、部屋もキレイに片付いた。
「昼飯はどうする?」汗を拭いながら隆一は言った。「少し早いが、食ってから出発するか?」
「駄目だよ。百合子が昼飯準備して待ってるんだ」博一は慌てて言った。
「あら、それじゃぁアキちゃんはどうするの?」美枝子は心配そうに言った。
「私はいいよ。おばさん」
「えぇ…でも…」
「今からおばさん達について行ったら帰るの遅くなるもん。それにあっちの部屋の片付けまだ終わってないし…」
美枝子は寂しそうな表情をした。
「お互い片付いたら家に泊まりに来たらいいさ!高速バスなら3時間で着くだろ?なんなら車で迎えに来ようか?」博一は笑顔で言った。
しばらくして、本条の車がトラックの横に停まった。
「まぁ!先生!」美枝子は驚きの声を上げた。「わざわざ来て下さったんですか?」
「えぇ…すいません、遅くなってしまって…ケイは役に立ちましたか?」本条の言葉に
「大したもんだよ!ぜひうちで雇いたいよ!」と運送業の男達は口を揃えて言った。
「じゃぁ、そろそろ出発しようか!」博一の言葉を聞いて、男達はトラックに乗り込んだ。
「アキちゃん…落ち着いたら遊びに来るのよ」美枝子は目を潤ませて言った。
「うん、おばさん。色々ありがとうね」アキも泣きそうな声で言った。
「ほらぁ!母さんもアキちゃんも、泣いてどうするんだよ。またすぐ会えるだろう!」博一は苦笑しながら言った。
「先生…」今まで黙っていた隆一がいきなり口を開いた。
「先生、アキちゃんは本当に良い子です。どうか、よろしく頼みます」
隆一は本条に深々と頭を下げた。
「おじさん…」アキは目頭が熱くなるのを感じた。
「えぇ、分かってますよ。心配しないで下さい」
本条は微笑みながら言った。美枝子はタオルで涙を拭った。
「ケイ君も今日はありがとう。アキちゃんと一緒に遊びに来てね」博一も少し鼻を赤くしながら言った。
「博一…この子はな、おっそろしく酒強いぞ。2人がかりじゃないと太刀打ち出来ねぇ…」
隆一が真顔で言ったので、みんなどっと笑った。
博一の運転する車を先頭に、トラックはゆっくり走り出した。
「じゃぁね!アキちゃん!」美枝子は車の窓から身を乗り出し、アキ達が見えなくなるまで手を振っていた。アキも車が見えなくなるまで手を振り続けた。
「……アキさん…」
ケイの言葉にアキは振り返った。
「大丈夫だよ。○○県なんてすぐ隣じゃん!走っても行けるよ」
ケイが笑って言ったので、アキも微笑んだ。
「そうね。2人で走って行く?」
「うん!」ケイは笑顔で答えた。
アキは一呼吸置いて「先生、ケイ君…」
本条とケイはアキを見つめた。
「至らない私ですが、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げたアキに本条とケイは笑顔で答えた。
「こちらこそ、よろしくね。アキさん!」
「大変だろうけど、無理に気負いせずに頑張ろうね。アキちゃん」
2人の言葉にアキは「はい!」と笑顔で答えた。
「さて…」本条は言った。「俺達も昼ご飯食べに行くか?」
3人が屋敷に帰って来た頃には、午後3時を少し回っていた。
「アキさん、何か手伝う事ある?」ケイがアキの部屋を覗いた。
「もうすぐ片付くから大丈夫よ。ありがとう」
「何かあったら呼んでね。居間にいるから」そう言ってケイは部屋から出て行った。
アキはある程度片付け、部屋を見渡した。アキの選んだ部屋は1階の奥にあった。その部屋は台所の近くだったので、朝早く起きて朝食の準備に取り掛かっても2人を起こす事はないだろうと考えた。
その部屋は畳で言う8畳ぐらいの広さの洋室で、すでにベッドと大き目の立派なチェストが用意されていた。――使わないなら片付けるから――と言う本条の言葉にアキは慌てて自分が今まで使っていたタンスとベッドをリサイクルショップに引き取ってもらった。
そのチェストを使わないなんてもったいない!とアキは強く思った。そのチェストは丸脚の象嵌入りの7段チェストで滑らかな曲線と繊細な彫刻が優雅な雰囲気をかもし出していた。その横には同じデザインの3段チェストが並んでいた。ベッドもヨーロピアン調の細かい彫刻があしらわれ、マットレスも素晴らしく寝心地が良かった。アキはそのヨーロピアン調のベッドとチェストを見つめ、ため息を吐いた。
ふと、3段チェストの取手の金具の色が1つだけ微妙に違う事にアキは気付いた。アキはその金具に触れてみた。
―――アンティークぽいから色が違うのかな?
アキはベッドから腰を上げ、部屋を出て1階を見渡した。そして2階に目線を移し、吹き抜けの天井を仰いだ。そこには大きな窓があったので、日当たりが良く、玄関ホールはとても明るかった。
アキは軽く目を閉じた。
―――今日から新しい生活が始まるんだわ…父さん、母さん、私頑張るからね!
アキは大きく深呼吸してから、居間へと急いだ。
本条から大まかなライフスタイルと簡単な注意事項の説明があり、アキは真剣な面持ちでノートにメモした。
「…それから…たまに町内会長が来るけど、俺がいない時は対応してね。用件だけ簡単に聞いて、なるべく家には上げないで」
「?はい…」アキは不思議そうな顔をした。
「1回上がったら2〜3時間は帰らないんだよ、そのおばさん。香水の臭いと何か分かんない臭いが混ざり合って、家中漂うんだ。最悪だよ」ケイが肩をすくめながら言った。「兄さんの顔見に来てるんだよ」
本条も肩をすくめたので、アキは思わず笑った。
「さて…もう6時か…そろそろ支度して出掛けるか?」
「…あの…どちらへ?」アキは戸惑いながら聞いた。
「アキちゃんに紹介したい人がいるんだ。本人がどうしても今日がいいって言うもんだからね」本条はソファから腰を上げた。
「俺の父さんの古い友人でね、いつも良くしてもらってるんだ。これからちょくちょく会う事になるだろうから仲良くしといて」
「わっ分りました」アキは緊張した面持ちで答えた。
「アキさん、そんな緊張しなくて大丈夫だよ。ただのオヤジだから」
ケイはアキの肩をポンっと叩いた。
「そうそう、それに何か困った事あったらすぐ聞いてくれるよ」
本条も笑顔で言った。
「そうなんですか?」
「だって、検事だもん」ケイの言葉にアキは固まった。
―――ケイ君の言った通りかも…とアキは苦笑した。
最初、永田から名刺を渡され『けっ…検事長…』と驚いたが…お酒が回ればただの“オヤジ”だった。永田は自分の生い立ちから喋り始め、本条の事、ケイの事を自分の息子の事のように自慢げに語った。アキはその長い話を苦にもならずに聞く事が出来た。
アキは、隆一や美枝子の事を思い出していた。
「昌男おじさん、その話さっきも言った」ケイはうんざり顔で言った。
「そうか?そしたらなぁ…」永田は目のまわりを真っ赤にしながら言った。
「おじさん、そろそろ帰らないと家に入れてもらえなくなりますよ」本条も呆れ顔で言った。「ごめんね、アキちゃん」本条の言葉に、アキは笑顔で首を横に振った。
部屋の時計を見たアキは、慌ててベッドに潜り込んだ。
深夜2時になろうとしていた。
――明日は(いや…もう今日か)本条先生、仕事休みだから8時に起床だったわね…ケイ君は…何時に起きるんだろう?
アキは右横に寝返りを打った。目を閉じたがなかなか寝付けなかった。
本条は“いつものように”ケイの部屋を覗いた。いつも聞こえる寝息が聞こえなかった。
「…ケイ?眠れないのか?」
しばらく沈黙があり、「うん」とケイが呟くように答えた。
本条は部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。
「そんなに心配?」ケイが少し身体を起こして言った。
「…何が?」
「…毎日、部屋覗いてるじゃん」
本条は黙っていた。
「どこにも行かないから大丈夫だよ」ケイの言葉に本条は苦笑した。
「いつから気付いてたんだ?」
「…忘れた」
「そう…」本条は言いながらケイの部屋を見渡した。
「僕ってそんなに可哀そう?」
ケイの言葉に本条は言葉を詰まらせた。
「初めて会った時からずっとそう思ってるだろ?」ケイは笑って言った。
本条はうつむいたまま黙っていた。
「……辛くないのか?」本条はケイの目を見つめて言った。
「…辛くはないよ。ただ周りの空気が面倒なだけ。ただそれだけだよ」そう言うとケイは微笑んだ。「自分の運命、深く考えたら果てしなく深いだろ?だから考えない」ケイの言葉に、本条は笑みを零した。
「そうだな…」
ガタガタと窓が風で揺れた。
「…兄さん…ありがとう」ケイはハニカミながら言った。「アキさんの事…」
本条は恥ずかしそうにしているケイを見つめた。
「一つ聞いてもいいか?」
「うん?」
「なんであの子なんだ?」本条の言葉にケイは一瞬黙った。
「あの子は確かに良い子だけどね…」本条は笑いながら言った。
ケイはしばらく黙ったまま、天井を見つめた。
「…他の女の考えている事は、神経を集中すれば大体分かるんだ。漠然とだけど…」ケイは少し息を吐いた。「アキさんの考えている事はあまり分からないんだ」
「分らない?」本条は訊き返した。
「うん…ただ、何か温かいオーラみたいなモノを感じるんだ。一緒にいると…とても落ち着くんだ。よく分からないけど…気持ちが楽になる…」
どう説明したらいいか分からない様子でケイは言った。
本条は、頬を赤くして話すケイの頭を撫でた。
「お前からのろけ話聞かされるとは思わなかったな」
「聞いてきたのはそっちだろ!」
ケイは口を尖らせた。