君のために僕は詠う―7―
君のために僕は詠う―7―
あの日、日本列島に台風が上陸した。
もの凄い雨風で、家政婦が慌てて雨戸を閉めていた。
『有治坊ちゃん、すいませんが雨戸閉めるの手伝ってくれませんか?堅くて動かないんですよ』俺は家政婦に頼まれて、雨戸を閉めに2階へ上がった。
俺達が暮らしていた屋敷は、築年数100年を超えていてかなり古かった。
何度か改築工事もやったのだが、雨戸は男の力でも簡単には動かなかった。
『ココ、もう腐ってるよ。台風が過ぎたら修理してもらおう』
『分りました。明日にでも電話します』
長くこの屋敷で働いている家政婦は、別の部屋の雨戸を閉めに向かった。
俺の勤めていた大学も、台風のため休校になっていた。俺は午前中に大学へ行き、学生達のレポートをチェックし、雨足がひどくなる前に屋敷に帰って来た。父さんも帰って来るだろうと思っていた。
……父さんはどこへ行ったんだろう?…
朝早く出掛け、連絡がない。携帯に掛けたが出ない。どこにいるか分からないので迎えにも行けなかった。――いつも父さんを迎えに行っていた訳ではなかった。天気が悪い時や、夜遅くなると大抵、大学の人間が父さんを送ってくれた。でも、今日は違った。大学には行っていなかった。
屋敷の雨戸がガタガタと激しい音をたてていた。夏の蒸し暑さと台風のせいで嫌な汗をかいていた。
そして、嫌な胸騒ぎを感じていた。
『坊ちゃん!有治坊ちゃん!!旦那様が!!』家政婦の声が響いた。
俺は慌てて1階に下りた。家政婦が玄関の前で突っ立っていた。
俺は息を呑んだ。
父さんが玄関に立っていた。
父さんの横には、小柄な男の子が父さんの手を握っていた。
『まぁ!旦那様!ずぶ濡れじゃないですか!タオル!タオル持ってきますね!』
家政婦は慌ててタオルを取りに奥へ行った。
『父さん…一体どうしたんですか?』俺は言いながら、その男の子に目をやった。
『…すまない…有治。事情は後で説明する。ちゃんと説明するから…この子の面倒を見てやってくれないか?』
俺は父さんの顔を見た。父さんの口元がかすかに震えているように見えた。
父さんの様子がいつもと違うのは明らかだった。――――いや…何か月も前から父さんはおかしかった。ブツブツと独り言を言う事も多くなっていた。最初は、“取り組んでいた研究”が上手くいっていて興奮しているようだった。父さんはその“研究”に没頭していた。
『…分かりました』俺は短く返事をした。
父さんは、フッと笑った。俺は父さんの笑った顔を久し振りに見た。父さんは、男の子に語りかけるように言った。
『ケイ。今日からここがお前の家だ。そしてこの人がお前のお兄さんだ。いいね。ケイ…』父さんはその男の子を抱きしめた。
そのケイと言う男の子が俺の方を見上げていた。その瞳は不思議なくらい綺麗で…俺は思わず見入った。
『さっ旦那様!このままお風呂場へ行って下さい!すぐお風呂沸きますからね!ボクも風邪ひくといけませんからね!』そう言いながらタオルでケイの濡れた顔を拭いた。
『ケイ、一緒に風呂入るか?』父さんの言葉にケイは黙っていた。
俺はケイに目線を合わせるように膝をついた。
『ケイ君だったね?父さんとお風呂に入っておいで。そしたらすぐご飯にしよう』ケイは澄んだ瞳で俺を見つめ、コクンと頷いた。
『もう、早速お兄さん子だな』父さんは目を細くして笑った。
その日からケイは本条家の一員となった。
父さんは大学に休職届を出し、一日中ケイと過ごすようになった。
書斎にある書籍を見ているケイを見付けると、父さんはその書籍の説明をし始めた。まだ9歳の子供に熱心に語っていた。
ケイは、信じられないくらい完璧な頭脳を持っていた。最初は俺の勘違いかと思ったが、天才科学者と謳われていた父さんの“言葉”を完璧に理解していた。何故あんな子供が存在するのか?――もしかすると、父さんの研究に関係するのではないか――俺は言いようのない不安を感じていた。
そんなケイにも子供らしい一面があった。食べ物の好き嫌いが激しく、家政婦の作った料理も半分ほどしか食べなかった。
『ケイ。ちゃんと食べなさい』父さんは言ったが、ケイは黙ったまま2階の自分の部屋へ行ってしまった。
『旦那様…申し訳ありません…』ケイが料理を食べない事に責任を感じていた家政婦は困惑した表情で言った。
『いや…君が悪い訳ではない。気にしないでくれ』父さんは苦笑して言った。
ケイが屋敷に来て1か月ほど経ったある日、俺は父さんに呼ばれた。
『―――有治、お前いくつになった?』父さんは唐突に聞いてきた。
『29です』
『そうか…もうそんなになるか…結婚は?まだしないのか?』
『……父さん…僕に話さないといけない事がありませんか?』俺の言葉に父さんはうつむいた。そして徐に鞄からケースに入ったディスクを取り出した。
『この中に、私の研究のすべてが入っている』父さんはそう言うと、ケースからディスクを取り出し―――そのディスクを半分に割った。
俺は驚いて、一瞬動けなくなった。
『有治…お前は私の研究を理解出来るか?』父さんは俺の目を見て言った。
『…いえ…できません』俺も父さんの目を見て言った。
『…そうだな…お前だけではない。みんなそう思っている』
『父さん…一体何があったんですか?』
父さんは目を閉じ、大きくため息を吐いた。
『――――超えてはならない一線を超えてしまった…』父さんは呟くように言った。俺は眉をひそめ、父さんの話を聞き入った。
『限りなく神に近い人間を作りたかった…。そんな人間が存在したら、世界は変わると信じていた。そんな完璧な人間が医者になったら?政治家になったら?どんな素晴らしい世の中になるか…』父さんは軽く息を吐いて喋り続けた。
『完璧な人間を作るためには、完璧なDNAを持つだけではいけなかった。その完璧なDNAを100%働かせなくては意味がないのだ。人間は持っている能力の半分も出し切れずに死んでいくのだ。有治、お前もそうだ。そして私も…』父さんはうつむいた。
俺は分かっていた。父さんが母さんの“死”を受け入れられずにいる事を……母さんが担当医の手術中のミスで命を落とした事が、父さんを研究へと駆り立てたのだ。
『完璧なDNAの持ち主の精子と卵子でケイは誕生した…私の研究に耐えれたのはケイだけだった…あの子だけが潜在能力を100%使いこなせる』
俺は息を呑んだ。全身から冷や汗が滲み出るのが分かった。
『あの子は私の研究の集大成だ』
父さんはそう言うと、また大きくため息を吐いた。
『…父さん…これからどうされるんですか?』俺は堪らず訊いた。
『……有治…これが最後の頼みだ。よく聞いてくれ』
父さんの目が険しくなった。
『私の研究には<タシギ>という製薬会社が関わっている。近いうちに<タシギ>の人間と話を付ける。……その後…もし…』父さんは言葉を詰まらせた。
俺は嫌な予感がした。
『…もし私に何かあったら…ケイを頼む。有治、ケイをあいつらに渡してはいけない。あいつらに渡せば…すべては終わる』
父さんの目から一粒涙がこぼれた。俺は困惑して言葉が出てこなかった。
『私は…あいつらに騙されたのだ。もっと早く気付くべきだった…』
父さんは震えながら拳で机を叩いた。
『父さん!落ち着いて下さい!』俺はそう言いながら自分自身もなんとか落ち着こうとしていた。
『父さん、<タシギ>の人間がケイを奪いに来るのですか?』俺の言葉に父さんは頷いた。
『父さん、永田のおじさんに相談しましょう!父さんもケイもきっと守ってくれますよ!<タシギ>との話合いには僕も付いて行きますから…』
『有治…それでは何も解決しない。そんな甘くはないんだ…<タシギ>には私一人で行く。永田には話してある。あとの事は永田と相談して決めてくれ』
『父さん!!』
『お前にはすまないと思っている…。でも、お前ならケイを普通の子のように育てられると信じている』
父さんはそう言うと俺の手を握りしめて、頭を下げた。
次の日、父さんは朝早くから出掛けて行った。ケイを屋敷に残して―――
俺は家政婦に休みを取らせ、永田のおじさんに連絡した。
『自分の研究の“後始末”は自分でしたいと本条は言っていたよ。あいつらしいな…』永田のおじさんは笑いながら言った。父さんに何人か部下を付けているから大丈夫だと言った。――それでも俺は胸騒ぎがしていた。
その日の夕方、ケイがいなくなった。俺は慌てて探し回ったが見つける事は出来なかった。
――まさか、<タシギ>の連中が!?…まさか!俺はずっとケイのそばにいたのに…
陽もどっぷりと暮れ、俺は汗だくのシャツを着替えるため2階へと上がろうとした。そしてハッとした。
ケイが1人で玄関に立っていた。手も顔も洋服も、血で真っ赤に染まっていた。
『ケイ!!』俺は慌ててケイに近寄った。『ケイ!怪我したのか!?』
ケイは無表情のまま俺に言った。
『これ…僕の血じゃない』そう言うと、開いていた玄関のドアから外を眺め、一点を指差した。
『おじいちゃんが燃やしていいって言ったんだ。だから燃やした』
俺は、ケイが指差した方に目を凝らした。夜空が赤く“動いて”いた。
突然、電話が鳴り、俺は慌てて受話器を取った。
[ ……もしもし!?有治君か!大変な事になった!テレビを見るんだ!<タシギ>が燃えているぞ!]
俺は慌ててテレビのリモコンのボタンを押した。テレビの画面にはもの凄い勢いで燃え上がっている<タシギ>が映っていた。
――父さん…。
俺はその時、燃えている<タシギ>の方を見つめているケイの横顔を見た。
俺はケイのその横顔を二度と忘れる事は出来ないだろうと思った。
丸一日燃え続けた<タシギ>のビルは、跡形もなく燃え尽きた。
ビルの中から、14名の<タシギ>の幹部職員と父さんの遺体が発見された。
14名の幹部職員の遺体には銃弾の跡と、撲殺された痕跡があり、父さんの遺体には撲殺された痕跡はなく、銃弾の跡が3発あった……と、永田のおじさんから聞いた。
そして、<タシギ>は暗殺者集団だった事、その14名の幹部職員はプロの殺し屋だった事も教えてくれた。
俺は直感した。
父さんを殺したのは<タシギ>の連中で、その連中を殺し、ビルに火を付けて燃やしたのは―――ケイだ。
「そんな金額じゃ、駐車場も借りれないよ。お譲ちゃん」
5軒目の不動産屋の男にどっかのCMのような事を言われ、アキはムッとした。男は馬鹿にしたようにニヤニヤとしながらアキを見た。
「分りました」アキはそう言うと足早に店を出た。
――やっぱり…難しいなぁ…どこも家賃高過ぎる…。
アキは朝から不動産屋を訪ね歩いていた。最初はにこやかに対応していた店員も、アキの話を聞くと忽ち足元を見出した。
そろそろお昼になろうとしていた。陽射しがギラギラとアキの身体を焦がした。アキは疲れ果て、ペットボトルのお茶を何回も口に運びながら、昼食を取ろうと手頃な店を探した。その時、アキの携帯が鳴った。
[ ……アキさん?ケイですけど、今何してるの?]
ケイの突然の電話にアキは驚いた。
「ケイ君?どうしたの?…今?…今ちょっと外に出てるの」
[ じゃぁ、僕も“そこ”に行きます!]
「えっ!?ケイ君!ちょっと…」アキは慌てて言ったが携帯は切れた。
≪えっ!?何?どういう事?≫アキは茫然としてしまった。
「アキさん!」
アキの後ろにケイが笑いながら立っていた。アキは事態を全く把握出来ず、ポカンと口を開け、突っ立っていた。
「アキさん!そんなに驚かないで。」ケイはカラカラと笑い出した。「そこでアキさん見かけたから、驚かそうと思ってね」
「なっなんだ…びっくりした…もう!!驚かさないでよ!」
アキは泣きながら笑っているケイを睨みながら言った。
「ごめんっごめん…本当に何してたの?」ケイはアキが手に持っていた不動産情報誌に目をやった。「家、探してるの?」
「あっいや…何でもないのよ」アキは慌てて情報誌を後ろに隠した。
「引っ越しするの?」ケイはアキの顔をじっと見つめた。
アキは困ってしまった。ケイを上手くかわせないと思った。
「…うん…。そう、引っ越しするのよ」アキはとりあえず笑顔で言った。
「どうして?」ケイは間隔を空けずに訊く。
「…うん…アパート取り壊されるの。だから…」アキは段々余計な事をケイに話している気になっていた。
ケイは大きい瞳をさらに大きくさせて「どこに?」と言った。アキは5秒ほど黙ってケイに言った。
「ケイ君、お昼ご飯食べた?一緒に食べようか?」
「うん!食べるよ!その前にどこに決まったか教えて」
アキはケイを全くかわせず、拍子抜けしてしまった。
「ケイ君って、結構知りたがりね」アキは苦笑した。「まだ、決まってないの」
アキの言葉にケイの顔がパッと明るくなった。
「ねぇ!そしたら僕の家に来なよ!部屋ならたくさんあるんだ!」
ケイの“提案”にアキは唖然とした。
「なっ何言ってるのよ!またからかってるの?」アキは笑いながら言ったが、ケイは真剣な表情で
「よし!今から有治兄さんに相談してみるよ!また後で連絡するね」
そう言うとケイは凄い勢いで駆けて行った。
あまりの展開の速さに、アキは呆然と立ち尽くしていた。
「……ケイ。一体何をしたんだ?」
本条は眉をひそめて言った。
「え?何って…何が?」
ケイは少し焦った感じで答えた。
最初に研究所へ行き、本条は大学へ行っていると聞いたケイはそのまま大学の講義室までやって来たのだ。
「随分良く出来た話だな。ケイ。どうやったんだ?」
「…別に…何もしてないよ」そう言うとケイは黙って本条を見つめた。
本条は軽くため息を吐いた。
「ケイ…少しやり過ぎじゃないか?この間話しただろう。やり過ぎると疑われるぞ」本条は厳しい口調で言った。
「…ちゃんとやったよ。誰も損なんかしてないだろう?」ケイは口を尖らせた。
「そう言う問題じゃないだろう。お前は彼女の事に首を突っ込み過ぎている。……アキちゃんは承諾したのか?」
本条の言葉にケイは少しうつむいて、首を横に振った。
「…他に何をした?ケイ、正直に答えないと話を進められないぞ」
ケイは、言いにくそうにしながら唇を噛んだ。
「……アキさんの借金…片付けた…」ケイの言葉に本条は目が点になった。
「お前…そんな事までやったのか!?」
「…アキさんが喜ぶと思って…」ケイの困惑した表情を見て、本条は大きくため息を吐いた。
「彼女はお前の話には乗らないよ」
「何で!?」
「分らないのか?確かに、普通の人間ならすぐ飛びつくだろう。だけど、彼女は違うだろう。とても真面目で素直だ。誰かの手を借りてまで楽しようとは思はないはずだ。第一、借金の事は何て説明するつもりだった?まだ高校生のお前の言う事なんて誰が信じる?」
ケイは黙って本条の話を聞いていた。本条はそんなケイの顔を見つめた。
――――余程、あの子が好きなんだな…
本条はしばらくの間考えて、ケイに言った。
「アキちゃんには俺から話そう。ケイ、お前は入るなよ」
ケイは不安げな表情で本条を見た。
「…俺もこれから家を空ける事多くなるからな…アキちゃんがいてくれた方が安心か…」本条の言葉にケイの表情はパッと明るくなった。
「うん!ありがとう!兄さん…」ケイの笑顔に本条も笑みを零した。
「二度とこんな事はするなよ。何かあった時は永田のおじさんじゃなくて俺に言うんだ。分かったか?ケイ」
「うん。分かった」ケイは嬉しそうに答えた。
「――――本条先生…」か細い声がした。
誰もいなかったはずの講義室に女子学生が1人…いや2人、3人…講義室の入り口から中を覗き込んでいた。
「…どうした?」本条はその女子学生達を見て、≪やれやれ…≫と軽くため息を吐いた。
「レポートの事で質問がありまして…」そう言いながら女子学生はケイを見つめていた。
「先生…この子は?…」女子学生は一斉に耳をそばだてた。
「――は?」アキは何が何だか分からなくなっていた。
アパートに帰ってすぐにTファイナンスの高井から連絡が入った。
[ ですから、昨日、松田さんの貸付金が全額完済されてたんですよ!!どういう事ですか?] Tファイナンスの高井は興奮気味に訊いてきた。
アキは高井の声が遠くなるのを感じた。携帯が手から滑り落ちたのだ。
「…一体…どういう事?…」
アキはそう呟くと、一気に力が抜け、畳の上にペタンと座った。