君のために僕は詠う―6―
君のために僕は詠う―6―
朝から事務所内では、ものものしい空気が張りつめていた。秘書達が慌ただしく動き回っていた。
宮原はその様子を黙って見つめていた。
「先生…大丈夫ですか?顔色が優れませんが…」秘書の1人が心配そうに聞いた。
「…大丈夫なワケないだろう…」宮原は思わず苦笑した。「書類はちゃんと処分したか?」
「はい。全部処分しました」
「そうか…分かった。」秘書は、一礼して仕事に戻った。
――――あの田代が自供するとはな…
宮原は、大きくため息を吐いた。
一体、誰が田代を襲ったんだ?…検察は私が裏で手を回したと思っている――私は何も知らんぞ!!
宮原はしばらくの間、考えていた。
徐に事務所を出て、上着のポケットから携帯を取り出しボタンを押した。
「あぁ…私だ。…そんなに驚かなくてもいいだろう?――あぁ、大丈夫だ。“そろそろ”捜査に来るだろう――あぁ、分かっている。…ところで、夜、時間作れないか?話したい事がある。――あぁ、分かった。じゃぁ…」
宮原は、上着のポケットに携帯をしまい、また事務所に戻った。
――午前9時過ぎ――アキの携帯が鳴り出した。
アキは蛇口の水を止め、手を拭き、携帯を開いた。
知らない番号―――― アキは出るのを躊躇ったが…ハッとして携帯のボタンを押した。
[ …もしもし?アキさん?ケイです!] 携帯から元気な声が聞こえてきた。
「あぁ!やっぱりケイ君ね!」アキは、この間の本条の言葉を思い出して笑った。
[ 何?何笑ってるんですか?]
「…何でもないの。どうしたの?」アキは40分ほど前から“回っている”レンジの方に目をやった。
[ …今、家の近くにいるんですけど…来てもいいですか?]
アキは一瞬固まった。
「え?家って…私の家?」
[ はい!来てもいいですか?…て、もうすぐ着いちゃうけど…]
アパートの階段を上る音が、カン、カン、カンと響いてきた。
そして、ドアがコンコンと叩かれた。
アキは、携帯を耳に当てたままドアを開けた。そこには同じく携帯を耳に当てたままのケイが立っていた。
「来ちゃったよ!」ケイは満面の笑みで言った。
アキは思いっきり吹き出した。
≪やだ!!めちゃくちゃ可愛いい!!≫
待ってました!と言わんばかりに、レンジがピーピーピーと鳴り響いた。
「グットタイミングね。マドレーヌ焼いたの。ケイ君、食べる?」
アキの言葉にケイは
「うん!!もちろん!」と元気に答えた。
「美味しいわ…これ…何て言ったっけ?マド…」
アキの母親の友人で、同じアパートの1階に住んでいる大木美枝子はマドレーヌの味に感激しながら言った。
「マドレーヌ!おじさんの分、ここに置いとくね」
ケイはアキが美枝子も呼んだので、少しガッカリした様子で紅茶を飲んでいた。
「…美味しくない?」アキは心配そうにケイを見つめて言った。
≪やっぱり、私なんかが作ったのじゃ駄目なのかなぁ…≫
「ううん!すごく美味しいよ!」ケイは慌てて言った。
「良かった。…ねぇ、本条先生って甘いの大丈夫?」
「――うん…」
「そしたら…」そう言うと、アキは紙袋にマドレーヌを入れ、ケイに渡した。
「兄さんの分?」少し寂しげにケイは言った。
「うん。ケイ君も家で食べてね」そんなケイを不思議に思いながらアキは言った。ケイはにこっと笑って、
「うん!食べる!」と、言った。
――午後7時40分――。
本条は腕時計を見て、軽く息を吐いた。
所長室の机の上に広げられた書類をまとめ、鞄にしまった。
研究所を出て、駐車場に停めておいた自分の車に乗り込んだ。
≪ケイは夕飯食べただろうか?≫
本条は、携帯のボタンを押した。
しばらく、着信音が鳴った。
[ …もしもし?]
ケイの声の“後ろ”が騒がしい。
「ケイ?随分騒がしいな。今どこだ?」
[ 今?…アキさん家]
「…もう、連絡したのか…」
本条は呆れたように笑った。
「夕飯はどうした?」
[ アキさん家でごちそうになった…正確には、アキさんのおばさん家で、だけど…兄さんは?今から帰るの?]
「あぁ…。迎えに行くよ。アキちゃんに代わって」
ケイがアキに携帯を渡そうとする時、“後ろの声”が微かに聞こえた。誰かの歌声のような声だった。
≪…宴会でもやっているのか?≫本条は、微笑んだ。
[ …もしもし?本条先生?アキです]
アキの元気な声が響いた。
「アキちゃん?ケイがお世話になったみたいで、悪かったね」
[ いえっいえっ!気にしないで下さい!遅くまでケイ君引き止めちゃって、ごめんなさい!]
「いいんだよ。ちょうど今から研究所出るんだ。ケイを迎えに行くからね」
[ 分りました。気を付けて――――]
本条は携帯を鞄の上に置き、車を走らせた。
30分ほどで本条はアキのアパートに着いた。車の音に気付いたアキがドアから顔を出した。
「アキちゃん、悪かったね。ケイ、迷惑掛けなかったかい?」
「とんでもないです!こっちの方がケイ君に迷惑掛けちゃって…」
アキは申し訳なさそうに言った。
「兄さん!もう来たの?」ケイも顔を出した。顔には全く出てはいなかったが、“臭い”はしっかりした。
「ケイ!お前、酒飲んだのか!?」
「ちっ違うんです!先生!おじさんが無理にケイ君に飲ませちゃって…」
呆れ顔の本条にアキは慌てて言ったが、
「こら!ケイ!!もう帰るのか!?まだ、これからじゃないか!」
美枝子の夫の隆一が、顔を真赤にして叫んだ。
「おじさん!もう、静かにしてよ!ご近所迷惑でしょ!」
アキは声を抑えながら言った。「おばさん!ケイ君帰るよ」
「あらあら、ケイ君また来てね!あら!先生!こんな遅くまでお仕事だったんですか?大変ですね〜」美枝子も頬を赤らめていた。
「――本当にすいませんでした」
なんとか(?)車に乗った本条とケイにアキは言った。
「ケイ君、本当に大丈夫?結構飲んだよね?」
「うん。全然大丈夫!」ケイは明るく答えた。
「ごめんね、アキちゃん。このまま帰って本当に大丈夫なのかい?」本条は“出来上がった2人”の事を心配していた。
「あぁ、大丈夫ですよ。2人ともお酒好きで毎日飲んでるんですよ。今日は少し飲み過ぎたみたいですけど…ケイ君いたからおじさん嬉しかったんですよ。ケイ君、おじさんに付き合ってくれてありがとう」アキの言葉に、ケイは嬉しそうに笑った。
「また、来るね」ケイは車から身を乗り出して言った。
「うん、また来てね」アキが笑顔で答えたので、本条は
「アキちゃん、そんな事言ったらケイ、毎日来るよ!」と、慌てて言った。
「――楽しかったか?」
運転しながら本条は、横目でケイを見た。
「うん、楽しかった。ご飯もすごく美味しかったよ」ケイは嬉しそうに言った。
ケイの表情は車内が暗くてはっきりは分からなかったが、嬉しそうにしている事は分かった。
「そうだ…アキさんからお土産もらったよ。マドレーヌ!これも美味しいよ」
ケイは持っていた紙袋を開け、マドレーヌを1個口に運んだ。
「俺にじゃないのか?」
「まだたくさんあるから大丈夫だよ」ケイは美味しそうに食べていた。
こんなに幸せそうにしているケイを見れるなんて――父さんは想像していただろうか?――
あの日、ケイの手を引いて立っていた父さんの姿を、今もはっきり覚えている。<タシギ>に対する絶望感と、そして自分自身に対する失望感。そんな極限の状況で、父さんは何を考えていたのか……
―――そして、何を一番望んで死んでいったのか…。
夜、ケイの寝室を覗く。ケイの寝息が聞こえるとホッとした。
――良かった…ちゃんと“いる”――
<あの日>、父さんが死んだ日からほぼ毎日続けている。
本条は、自分の部屋でパソコンのキーボードを叩いていた。
開けたままの窓から心地よい風がゆっくりと入ってきた。
本条はケイがアキからもらってきたマドレーヌの入った紙袋を開けた。甘い香りが本条の顔の辺りに漂った。
本条は、もう3個ほどしか残っていないマドレーヌを1個口に運んだ。
「…美味いな…」本条は呟いた。
アキは、会社に行く前に美枝子の家に寄った。
「おはよう…」いつも元気な美枝子もさすがに青い顔をしていた。
「おはよう、おばさん!気分悪そうね。大丈夫?」アキは苦笑しながら言った。
「なんとかね…私はいいんだけど、あの人は駄目ね。今日は仕事行けそうにないみたいよ」
「おじさん、かなり飲んだもんね〜もう若くないんだから気をつけないと駄目よ。」
「そうね…本人もさすがに反省してるわ。ケイ君に負けたくなかったみたいよ」
トイレから、美枝子よりさらに青い顔をした隆一が出てきた。
「あぁ…アキちゃんか…昨日はすまなかったね…羽目外し過ぎたな」
フラフラしながら隆一は台所のテーブルの椅子に腰を下ろし、コップ一杯の水を一気に飲み干した。
「おじさん…もう無理しちゃ駄目よ」アキは心配そうに言った。
「あぁ、分かってるよ。これからは量減らすよ。…しかし…昔はこれぐらいじゃ酔わなかったのになぁ…」隆一は両手で顔を覆った。
「もう歳なんですよ!ケイ君と同じように考えちゃ駄目よ」美枝子は隆一のお椀に味噌汁を注いだ。「あなた、ご飯は?どうします?」
「ご飯?いらねぇよ!」仏頂面の隆一を横目に、美枝子は自分の茶碗にご飯をよそった。隆一は味噌汁を一口飲み、「…ご飯、少しくれ」と言った。
「じゃぁ、私行くね」アキは微笑みながら言った。
「心配掛けてごめんね、アキちゃん。気を付けてね」そう言いながら、美枝子はアキと玄関まで行こうとした。
「アキちゃん、ケイって子によろしく伝えといてくれ」ご飯を口に運びながら隆一は言った。
大木家の電話が鳴った。
「あら、やだ。誰かしら?こんなに朝早く…」美枝子は怪訝そうに言った。
「おばさん、私はいいから出なよ」
「ごめんね、じゃぁ…」美枝子はアキに手を振りながら電話へと急いだ。
「もしもし?大木です…あら、大家さん。どうしたんですか?…」
アキは「行ってきます」と小声で言って玄関のドアを閉めた。
「おはよう!アキちゃん!」加茂夕貴が更衣室でアキに声を掛けてきた。
「おはようございます。今日は随分早いですね」
いつもより1時間も早く出社してきた夕貴を見て、アキは驚いた。
「今日は朝礼の準備があってね。かなりの重大発表あるみたいよ」
「重大発表?何なんですか?」朝礼に出ないアキは気になった。
「私も詳しくは知らないのよ。ただ…今日の朝礼はパート従業員も出ないといけないみたい」夕貴は肩をすくめて言った。
「そしたら、私も出ないといけないんだ…」アキはため息を吐いた。
お昼のチャイムが鳴り、教室中が一気に騒がしくなった。
教室で弁当を食べる者、仲良しグループと外で弁当を食べる者、購買部に急ぐ者、何も食べずに昼寝する者、学生達は毎日変わらずこういった昼を過ごしていた。
しかし、今日の平川恵美は違った。
学校の屋上の鉄のドアの横で、いつもとは全く違う昼を迎えようとしていた。
恵美の心臓はバクバク鳴っていた。緊張のあまりクラクラしていたが、なんとか踏ん張って立っていた。朝5時に起きて作った弁当を握りしめて……。
屋上のドアが開いた。
≪来た!!来ちゃった!!≫恵美の緊張がピークに達した。
「――本条君!」
震えて裏返った声に、ケイは振り向いた。
「ほっ本条君、今からご飯?」恵美は頬を赤らめながら言った。
「――うん。何?」少しの沈黙の後、ケイは無表情で言った。
「…あ…あのね!私、お弁当作って来たんだ!よっ良かったら食べてくれない?…あの…一緒に…」恵美は顔を上げて喋れなくなり、うつむいた。
「いらない」ケイの言葉に恵美はすぐに反応出来なかった。
「…え?」
「いらない。弁当持ってる」
恵美は一瞬動けなくなった。なんとか冷静になろうとした。
≪落ち着け!本条君は誰にでもこういう態度じゃん!!落ち着け!私!!≫
「…そっそしたら一緒に食べてもいい?」
恵美は最後の勇気を振り絞って言った。
「…なんで?なんで僕があんたと一緒に食べないといけないの?」
恵美は目の前が真っ白になった。
「ちょっと本条君!そんな言い方ないじゃん!」恵美の友人達がすごい勢いで飛び出してきた。
「恵美、本条君のために一生懸命お弁当作って来たんだよ!ひどいよ!そんな言い方するなんて!」
ケイは軽くため息を吐いた。
「別に、弁当作ってなんて頼んでないけど」ケイの言葉に恵美達は言葉を詰まらせた。
「恵美は本条君の事、ずっと好きだったんだよ…」友人の1人が泣き出しそうな顔で言った。恵美の瞳から涙が零れていた。
「僕があんたを好きになる事なんてないから、他当たってよ」ケイはそう言うと、恵美達に背を向け歩き出した。
「最低…」「信じらんない」そういった言葉を恵美の友人達は呟いた。
恵美は震える手で、弁当を握りしめていた。
アキは大きくため息を吐いた。
いつものようにバスを降り、アパートまで歩いて帰っていたが、足取りは重かった。アパートの階段を上ろうとした時、美枝子から呼び止められた。
「今、帰り?」
「うん。具合はどう?おじさんは?」アキの言葉に美枝子はうつむいた。
「具合はいいんだけどね…アキちゃん、ちょっと家上がって」
アキはいつもと違う美枝子の様子を気にしながら、美枝子の家に上がった。
「あぁ、アキちゃん。お疲れさん」朝より大分顔色が良くなった隆一は言った。
「どうしたの?おじさん、おばさん…」
美枝子は急須に茶葉と湯を入れ、湯呑に注いだ。
「何かあったの?」美枝子の入れた茶を見もせず、アキは言った。
「……それがね…困った事になっちゃってね…」美枝子はチラッと隆一を見た。
「困った事?」
「うん…大家さんが大事な話があるからって昼に家にみえたのよ。…そしたらねぇ〜…ねぇ、あなた」美枝子は言いにくそうに隆一を見た。隆一は眉をひそめていた。
「大家さん、何て言ってたの?」
「うん…このアパート取り壊してマンション建てるそうよ」
アキは目が点になった。
「このアパートの管理じゃ赤字だから、アパート取り壊して大きな建設会社に土地を売るそうなのよ。前から話はあったそうよ…」
「え…いつ?いつ取り壊されるの?」
「9月ぐらいって…」
「9月……」アキは愕然とした。
「大家さんもね、アキちゃんの事心配してたのよ。良いアパート探してみるって言ってたわ」
「やだ、おばさん!おじさんも、私の事心配して落ち込んでたの?」
アキの言葉に2人は顔を見合わせた。
「アキちゃん、部屋探すの大変なんだよ。ここみたいに安いトコ、そんなに無いよ。万が一見付かっても、敷金礼金もいるし引っ越し費用も…」
「ちょっとあなた!」美枝子の言葉に、隆一はハッとした。
「いっいや…探せばあるかもな…」
「そうよ!大家さんが良いトコ探してくれるかもよ!私も友達に当たってみるわ」隆一も美枝子も慌てて言った。
「ありがとう。おじさん、おばさん」アキは微笑んだ。「私なら大丈夫よ!心配しないで。それより自分達の心配しなくちゃね!」
アキの言葉に2人は苦笑した。
事態は極めて深刻だった。
このアパートは美枝子夫婦が世話してくれたから住む事ができた。今度は最初から自分でしないといけない……。隆一の言うように、部屋を探すのは時間もお金もかかる。しかも、アキはまた別の大きな問題を抱えていた。
今朝の朝礼での重大発表―――― アキの勤める会社も不景気で経費削減を余儀なくされた。社員のボーナスや残業手当を大幅カット、パート労働者の勤務時間短縮…などなど様々な決定事項が発表された。
パート労働者であるアキも、仕事の量は変わらないのに働く時間が減らされるため、給与が減ってしまうのだ。
給与は減る。家賃の高いアパートに引っ越さないといけない。母親の妹夫妻の借金返済。
アキは自分の部屋で、しばらく途方に暮れていた。
≪とりあえず、アパート探しとアルバイト探ししないと…≫
アキは自分に言い聞かせるように、呟いた。