君のために僕は詠う―4―
君のために僕は詠う―4―
「やぁ!有治君!よく来たね」
検事長である永田昌男は、訪ねてきた本条有治を笑顔で出迎えた。
「どうだい?研究の方は。学会では大絶賛だったと聞いたが」
「はい、お陰さまで。おじさんも、相変わらずお忙しそうですね」
本条は、机の上に積まれた書類の山を見て言った。
「これでも大分マシになったんだ。君とケイ君のお陰でね」
そう言うと、永田は机の引き出しから封筒を取り出し、本条に手渡した。
「ケイ君、R高校に特待生として通うんだろ?すごいね、やっぱりあの子は天才だな。…私からの“お祝い”だ。受け取ってくれ」
本条は、封筒の中身を確認して、ため息を吐いた。
「“お祝い”ではなく、“報酬”ではないですか?」本条は永田を見た。
「…おじさん…」本条がそう言いかけると、
「君の言いたい事は分かってる。分かってるんだがね…」
永田は本条から目を逸らし、頭を掻いた。
「“彼ら”も反省しているんだよ。もう二度としないと…。金は要らないと断ったんだが、“彼ら”も頑固でね。君も大変だろう?研究所の方でも資金繰りとか色々問題あるんじゃないかね?」本条は、またため息を吐いた。
「確かに、研究所の方は大変ですけど、父の遺産もありますし、スポンサーもついてますし、僕の方も収入ありますし、心配いりません」
本条があまりにあっさり言うので、永田は焦った。
「……ケイ君は、君の父親と私の長年の夢の結晶なんだ。私達の“やっている事”は正しいんだ。ケイ君はそれだけの<仕事>をして、君はケイ君のサポートをしている。見返りを求めても、罰は当たらない」半分開き直ったように永田は言った。
本条はもう何を言っても無駄だと思い、その封筒を鞄に入れた。永田は安心したのか、煙草に火を点けた。
「今度、3人で食事でもどうかね?」永田は明るく言った。
―――どんな人間でも、欲はある。そして、その欲のために醜く変わる。
天才科学者として、志高く生きてきた父もそうだ。そして、父の親友である正義感の塊のようだった永田もそうだ。そして…俺も…
ケイにはそうなってほしくない。ケイだけは…
松田アキが、身勝手な俺の願いを叶えてくれるかもしれない……
本条は永田の事務所を出て、タクシーに乗り込んだ。
「――――何かあったの?アキちゃん…」
食堂で一緒に働いているおばさんが、心配そうにアキに尋ねた。
「あの人、ずぅ〜とアキちゃんの事睨んでるみたい…昨日もそうだったし、また何か意地悪されてるんじゃない?」おばさんは、チラッと、食堂の窓際に座っている女子社員を見た。5人ぐらいで固まって座っている女子社員の一人が、アキを睨みつけていた。
「あの子、梅原って子じゃない?確か、お父さんが大学の教授だったわよね。この間、テレビに出てたよね?何だったかなぁ…夜やってる番組…」
もう一人のおばさんが、何とか思い出そうと考え込んでいたが、「あぁ!!駄目!!思い出せない!ここまで出かかってるんだけど…」と、歯痒そうに言った。
「梅原さんって言うんですか?あの人」アキはそのおばさんに訊いた。
「あら、アキちゃん知らないの?課長とかヘコヘコしちゃってんのよぉ〜。可愛い顔してるけど、性格キツイわよ!」そのおばさんがあまりに詳しく知っているので、アキは唖然とした。
――――そんなに怒る事かしら?…アキは不思議に思っていた。確かに、<あの日>のケイの接し方は少し冷たい感じはしていたが…梅原美香も図々しかったのだ。あんなに怒る事はないのではないか?…しかも私に…と、アキは思っていた。慣れてはいたが、改めて≪変な人…≫と、痛感していた。
――土曜日――。アキは、何度も鏡の前に立っては重いため息を吐いた。
「なんか…まだ学生って感じよね…どうしようもないけど…」
アキはブツブツ言いながら、時計を見た。―午前10時45分―。アキは、靴を履いて玄関を出た。
アパートの前には、ピカピカに磨かれた白の車が停まっていた。
アキは、慌てて階段を下りた。
「―――アキちゃん」1階に住んでいるアキの母親の友人、大木美枝子がアキを呼び止めた。
「5分ぐらい前に来たのよ。あの車」美枝子はアキの腕を引っ張って、
「おばさんの事、紹介してよ。」と、小声で言った。
「アキさん!!」ケイが助手席から降りてきた。そして、運転席から長身の男性も降りてきた。
アキと美枝子は(特に美枝子は)、一瞬言葉を失った。
「やぁ、アキちゃんだね?ケイから話は聞いているよ」と長身の男性は笑顔で言った。
「…あ…はい、この間は本当にごちそう様でした…あのっっ…私の母の友人の大木美枝子さんです。おばさん、こちらが本条ケイ君で…こちらが…」
「本条有治と言います」そう言うと、またにっこり笑った。
「?おばさん?…おばさん!!」アキは、ボーと突っ立っている美枝子を腕で突いた。美枝子はハッと我に返ったように、
「おっ大木美枝子です!…アキちゃんから聞いてはいましたけど…お2人とも、モデルさんみたいねぇ〜…」と、うっとりした表情で言った。
「おっおばさん!もう!!」アキは真っ赤になった。本条とケイは思わず吹き出した。
「本条様、お待ち致しておりました。どうぞ、こちらへ―――」
3人は案内され、席に着いた。アキは、キョロキョロと店の中を見渡した。
落ち着いた雰囲気のレストランで、ケイと行った店とはまた違った高級感が漂っていた。
「ランチコースを3つ…でいいかなぁ?」と、本条が言った。
「注文してから聞くなよ」と、ケイは口を尖らせ、「はっはい!なんでもいいです!」と、アキは慌てて言った。
「ここのランチが美味しいって研究室の子が教えてくれたんだよ。嫌なら違うの頼めば?ケイ」と、本条が言うと、
「別に。それでいいけど」不貞腐れたようにケイは答えた。
アキがくすくすと笑い出した。
「?どうしたの?アキさん」と、ケイは不思議そうに訊いた。
「仲良いんだなぁて思って」アキの言葉に、本条とケイは顔を見合わせた。
「―――本条君じゃないか!」ちょうど店に入ったばかりの、小太り体形の男性と若い女性が3人の所へやって来た。アキは、その若い女性を見て驚いた。
「梅原先生、お久し振りです!」本条は、小太り体形の大学教授、梅原と挨拶を交わした。梅原の後ろにいた美香も驚いた表情をしていた。
「娘とランチを食べに来たんだよ」
「やぁ、美香ちゃん。また一段とキレイになってるから分からなかったよ」
「まぁ、先生。本当にお上手ですのね」美香はにっこり微笑んだ。
「それに比べてケイ君は、私の事なんかキレイさっぱり忘れているのね。誰かさんの事は覚えているのに…」美香は、並んで座っているケイとアキを見て言った。ケイは何の事か分からない様子で、アキはハラハラしていた。
「仕方無いだろう、美香。ケイ君とは1、2回ぐらいしか会った事ないだろう?…ケイ君も大きくなったね。R高校に通ってるんだろう?美香の後輩になるな。何か分からない事あったら何でも美香に聞くといい」
梅原は得意気な表情で言った。
「…別に、聞く事ないけど」みたいな事を言おうとするケイを、本条は言葉で遮った。
「ありがとうございます。その時は遠慮なく」
梅原親子は、本条達から少し離れた席へ案内されて行った。
「梅原教授と僕の父が同じ大学で働いていてね、小さい頃から可愛がってもらっていたんだよ。あっ…確か、美香ちゃんはアキちゃんと同じ職場じゃないかな?」その本条の言葉を聞く前から、アキはドッと疲れを感じていた。
梅原美香は、イライラしていた。
―――なんで、あの女がケイ君の横に座ってんの!?
―――なんで、あの女が本条家と仲良くランチなんかしてんのよ!!
美香は、2年ぐらい前に初めてケイと会った。“大学の卒論の相談”を口実に、予てから思いを寄せていた本条有治の研究室に行った。そこにケイがいた。
一瞬にして心を奪われた。
8歳も年下だったけど、そんな事どうでもよかった。
それから私は、何度も本条先生の研究室に足を運んだ。ケイ君に会えるのは稀な事で、それでも2年間で5回は会っていた。1回は言葉を交わした。
会社の食堂でケイ君を見かけた時は、≪私に会いに来てくれた!?≫と、嬉しくて、泣きそうになった。
でも、ケイ君は私ではなく、あの女の所へ真っすぐ歩いて行った。
私の前を通り過ぎて―――。
なんなの!?あの女!!ブスのくせに!!
きっと何かあるんだわ!あの女、何か企んでるんだわ!!
美香は、大きく深呼吸した。バックから携帯電話を取り出しボタンを押した。
「…もしもし?美香だけど。ちょっと調べてほしい事あるんだけど」
アキは気が重かった。会社の3階にある会議室の前で、突っ立っていた。会社の食堂で働いているアキには、いくら同じ会社の会議室でも、関係のない場所だった。
美香から呼び出されたのだ。
理由は分かっていた。なんで自分が呼び出されなくてはいけないのかは分からなかったが…。
会議室のドアを開けた。壁際の方に美香が腕組みして立っていた。ピリピリとした雰囲気の中、アキは美香の方へと歩いて行った。
「あの…何か…」アキは、冷たいオーラを放つ美香に恐る恐る訊いた。
「何って…分かってるでしょ!ケイ君の事よ!」美香はイライラしながら言った。「何企んでるのよ!あんた!!」
「は?」アキは、やっぱり訳が分からなかった。
「あんた、本条先生からお金騙し取る気?だからケイ君に近付いたんでしょ!」
アキは、ますます訳が分からなくなった。
「知ってんのよ!あんたが借金まみれだって!本条先生が優しいからって、調子に乗って!立場を弁えなさいよ!」
この言葉にさすがのアキもキレた。
「いい加減にして下さい!本条さんを騙すとか、ケイ君に近付いたとか、訳分かんない!大体、私みたいなのに本条さん、騙せる訳ないでしょ?もっと冷静になって考えて下さい!バカバカしい!」アキは顔を真っ赤にして反論した。
思いがけないアキの反論に、美香は一瞬言葉を詰まらせた。
「…バカバカしいって…何よ!偉そうに!!」美香はアキに飛びかかった。
「はっ放して!」美香はアキの髪の毛を引っ張った。アキは堪らず、美香を思いっきり突き飛ばした。美香は勢いよく後ろにひっくり返った。
「もう!やめなさい!2人とも!!」会議室の前を通りかかった、経理課の加茂夕貴が止めに入った。
「この人が!松田さんが私を突き飛ばしたのよ!」美香は今にも泣き出しそうな声で言った。
≪はぁ!?何言ってんの!!≫美香の態度がコロッと変わったので、アキは頭の中が混乱してきた。
「加茂さん!私いきなり突き飛ばされたんです!」泣き出した美香に、
「梅原さんが先に飛びかかったんじゃない!私、見てたわよ!」
加茂夕貴のその言葉に、美香の表情は険しくなった。急に立ち上がり、小走りで会議室を出て行った。
ポカンと口を開けて固まっているアキに、
「大丈夫?……あら、やだ!おでこから血が出てるわよ!」加茂夕貴は言いながら、ハンカチで額のかすり傷の血を拭ってやった。
「あっ…すいません…」
「しかし、すごい女ね!!性格悪いと思ってたけど…あなたに飛びかっかった時のあの顔!!鬼の形相だったわよ!」
加茂夕貴は、興奮気味に言った。
「でも、あなたもやるじゃない!よく言ったわ!私、感動しちゃった!」
加茂夕貴があまりに明るく言うので、アキは思わず…
「加茂さん…出来れば、もう少し早く止めに入って下さい…」と、言った。
「はぁ〜美味しい…五臓六腑に沁み渡るわ…」
加茂夕貴は、きたばかりの“特製味噌ラーメン”のスープをすすって言った。
「本当に美味しい…」アキも、空腹のお腹に沁み渡るのを感じていた。
「ね!美味しいでしょ?ここのラーメン!さっ早く食べましょ!のびちゃう!」
2人は一時の間、無心でラーメンを頬張った。
「――――ありがとうございました」ラーメンの丼をようやく空にして、頬を赤くさせながらアキは言った。「加茂さんがいてくれて良かった…」
「ごめんなさいね、もう少し早めに止めに入れば、あなたがおでこを負傷する事無かったかもね。女の取っ組み合いの喧嘩なんて見る機会ないじゃない?つい、見入っちゃってね」加茂夕貴は笑いながら言った。アキは、その屈託ない笑顔に心が和んでいた。
「明日、梅原さんに注意しとくわ。部長にも報告しとこうか?私が言うと結構効くのよ」
加茂夕貴はまだ30手前だったが、若手社員の教育係を任されていた。
頭が良く、仕事もテキパキとさばき、尚且つ美人で明るい加茂夕貴は、社内でも人気者だった。
そんな会社のアイドルも昨年結婚し、男性社員達は涙を流した。
「いっいえ!そんな事しないで下さい!」アキは慌てて言った。
「気にしなくていいのよ?これも私の仕事だし…」
「いえ、本当にいいんです。加茂さん、この事は誰にも言わないで下さい。お願いします」頭を下げて言ったアキを見て、夕貴はため息を吐いた。
「梅原さんに同情してるの?」
「いえ…そんな事は…」
「あなたって、本当にお人好しね」夕貴は呆れ顔で言った。「あんだけひどい事言われたのよ。プライバシーの侵害で訴えてもいいくらいよ」
「もう…慣れてますから…」アキは笑いながら言った。
「……本当に立派だわ」夕貴は一口水を飲んだ。
「あなたの事、全部知ってる訳じゃないけど…いつも感心してるのよ。あんなキツイ仕事、文句言わずにやってるしね。今年の新入社員なんて、コピー頼んだだけで嫌な顔するのよ」
「私、お料理好きなんです」笑顔で言うアキを見て、夕貴も微笑んだ。
「そこがあなたの良い所。みんなあなたの事、褒めてるのよ。特に“おじちゃん達”は自分の娘と比べてね、『あんな素直な子ならなぁ〜』て、嘆いてるわ」
アキは、目頭が熱くなるのを感じてうつむいた。
「梅原さんみたいに、あなたの事、悪く言う人いるけど…そんなのごく一部よ。みんなちゃんと分かってるのよ。だから、心配しないで。大丈夫よ」
夕貴の言葉に、アキのモヤモヤしていた重い気持ちが、パッと軽くなった。
アキは、心のどこかで不安があったのだ。
――他人の眼。気にしたら切りがない――けれど、大きな不安となってアキを苦しめる時もあった。
アキの瞳から、大粒の涙がポロポロと落ちた。
自分の事をちゃんと見てくれている人がいた。ちゃんと分かってくれる人がいた。アキは、嬉しさのあまり泣き崩れた。
「やだ!松田さん!そんなに泣かないで!ねっ?」夕貴も、目を潤ませていた。
「ごっごめん…っなさい…嬉しくて…」
子供のように泣きじゃくるアキの手を、夕貴は優しく握った――――