表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/33

Medicine for miracles〜<奇跡の薬>〜7

君のために僕は詠う。

Medicine for miracles

 〜<奇跡の薬>〜 7




 海斗が指示した場所は、市街地から少し離れた閑静な住宅街にある高級マンションだった。僕は海斗に言われた通り、入口フロアにあるオートロックシステムにルームナンバーを入力した。

[ いらっしゃい、ケイ君]

 応答マイクから海斗の声が聞こえ、すぐに自動ドアが開き、僕はエントランスホールに足を踏み入れた。僕はそのままエレベーターまで真っ直ぐ歩き、エレベーターに乗った。エレベーターは海斗が指示した階で止まり、僕はエレベーターを出て海斗の部屋へと急いだ。

 玄関ドアの前に、大神と同じような格好をした体格の良い男が1人立っていた。その男は<暗殺集団>の1人らしく、ピリピリとした雰囲気を漂わせていた。

「入れ」

 その男はそう言うと玄関ドアを開けた。僕は土足のまま、やたらと長い廊下を通り、リビングのドアを開けた。

 テレビもカーペットも…家具一つ置かれていない広々としたリビング・ダイニングルームの中央に、海斗は立っていた。

「はじめまして、ケイ君。ボクは浅井海斗と言うんだ」

 海斗はそう言うと穏やかに微笑んだ。

「……っアキ…は…」

 僕は重く痺れた唇を、必死で動かしながら言った。

「松田さんなら大丈夫。少し離れた場所にいてもらってる。心配しなくていいよ、ケイ君」

 僕はイライラしながら海斗を睨んだ。海斗はそんな僕を見つめ、フッと吹き出した。

「大丈夫だって!ボクも松田さんの事とても好きなんだ。だから彼女を傷つけたりはしないよ」

 海斗はそう言いながら、キッチンカウンターの所まで行き、

「立ったまま話すのは少し辛いんだ。悪いけど座らせてもらうよ」

 と言って、カウンターチェアに腰を下ろした。

「田口…」

 海斗の言葉にさっきの男が僕に近寄って来た。田口は僕の両手を後ろに回し、そのまま手錠を掛けた。

「悪いね、ケイ君。ボクの<プネウマ>は完璧なんだけど、用心に越した事はないからね」

 僕は両手を後ろ手にされ手錠を掛けられ、その場に立たされたままの姿勢で海斗を睨み続けた。僕の身体は重く気だるく、僕の意志通りには動こうとしなかった。

「さて、まずは何から話そうか?」

 海斗は僕を見て微笑んだ。

「大丈夫。今なら口だけは利けるから。ボクに聞きたい事があるんだろ?」

 そう言いながら、海斗は腕を組んだ。

「……一体何が…目的何だ…」

 僕の言葉に海斗は笑った。

「目的…目的ね…そうだな、やっぱり君には死んでもらう事かな」

「父親の復讐か…」

「…そうだな…それもあるね」

 そう言いながら、海斗は一回咳をした。

「君は今、22歳だよね?」

 海斗の言葉に僕は小さく頷いた。

「ボクは28歳だ。松田さんと同い年だよ。すごい偶然だよね」

 海斗はそう言うと、バルコニーの方を見つめた。

「―――ボクは生まれた時から脳に腫瘍があったんだ。だからずっとベッドの上で生活していたよ。母さんは脳外科の権威で何度かボクを手術しようと試みたんだけど…何度か渡米までしたんだけど無理だった。しかも視力まで失った。そんなボクを父さんは哀れんでいたよ。分かるんだ、父さんがボクの顔を覗く度に…その“意思”が伝わってくる―――ボクは2人のために何が出来るか考えた。考えて、考えて…ようやく分かったんだ。ボクには<プネウマ>を自在に操る能力が備わっている事を。目が見えない分、ボクは父さんさえも持つ事の出来なかった“眼”を手に入れていたんだ。ボクはこれで2人が望む子供になれると思った。2人が望む組織のトップになれると―――ところが、母さんはそんな僕を恐れ始めた。ボクに目隠しをし、ベッドに縛って…監禁したんだ。父さんはボクを助けようとしてくれた。でも母さんがそれを許さなかった。そこで2人の間に亀裂が入った。そして…しばらくして君が誕生した。君はすべてが完璧だった。父さんも母さんも君に夢中になった。…君の存在に夢中になっていた。2人の対立は内部紛争にまで発展し、組織内は荒れに荒れたよ。……そしてボクの存在は忘れ去られた」

 海斗はそこまで話すと、1回小さく息を吐いた。さっきより顔色が青白くなっていた。

「…僕がいなかったら…お前の存在は忘れられなかったとでも言いたいのか?…」

 僕の言葉に海斗はしばらく黙っていた。

「どうだろう…それは分からないな。君はどう思う?」

「……お前の父親はどうか知らないけど…あの女は…母親は…お前を忘れてたんじゃなかった…と思う…」

「…ふぅん…」

 海斗はそう言うと、考えるようにうつむいた。

「…どちらにしても、ボクの存在の意味は無くなっていたんだ」

 僕は黙っていた。海斗が何を言いたいのか、何をしたいのか、僕には分からなかった。

「君には分からないだろうな〜…ボクの気持ちなんて」

 僕の考えを見透かしながら、海斗は言った。

「君はずっと夢を見ていただろ?ボクの父さんを殺した時の夢を。松田さんに出会った時からずっと……」

「…っ…」

 僕は口から言葉が出てこなかった。僕の唇がさっきより重く痺れていた。

「何故そんな夢を見出したのか?…それは父さんを殺した事への罪悪感からじゃない。そうだろ?」

 海斗は薄らと笑いながら僕を見つめた。

「君は彼女に…松田さんにその事を知られたくなかったんだ。そんな事、知られてしまったら彼女に嫌われると思ったんだろ?…そうだよね、いくら優しい松田さんでも人殺しとは一緒にいられない」

 僕はひどい不快感を感じていた。とにかくこいつの口を塞ぎたかった。これ以上僕の“暗”の部分を喋らせたくなかった。―――でも、身体は言う事をきかない――――――

「君は松田さんと交わる事で、精神や身体の“安定”が出来ると分かっていた。だからどうしても彼女をそばに置いておきたかった。……しかし、どうだろう?そういうのって、本当の愛なのかな?」

 海斗はゆっくりとカウンターチェアから腰を上げ、僕に近付いた。

「君は、本当に自分勝手な人間だ。自分のために彼女を利用しているんだ」

 僕の身体がカッと熱くなった。

「…っ違う!…僕はアキと普通に生きたいだけだ!!…」

 海斗は目を丸くして僕を見た。


―――何なんだ?―――さっきもそうだ…何でボクが引き出した“暗”の部分に無い“言葉”を喋ったんだ?……


 海斗は怪訝な表情のまま、僕を睨んだ。

「…君は…何だか恐ろしいね…父さんがあっさり殺されたのも分るよ」

 海斗はそう言うと、キッチンの横にある洋室のドアの前に立った。

「さて、これからが本番だ」

 海斗は洋室のドアを開き、中に入った。そして車椅子を押しながら部屋から出てきた。

 車椅子には――――アキが座っていた。

「ね?松田さん!ボクが言ってた通りでしょ?彼はこういう人間なんだよ」

 アキは口に粘着テープを貼られ、両手両足を紐で縛られた状態で車椅子に座っていた。アキの顔は不安と恐怖で青く、強張っていた。

「松田さん、君は本当に可哀そうな人だよ。君はケイ君の事知らなさ過ぎだったんだ。だから君はたくさんのモノを失ってきた」

――――やめろ!! 

「松田さん、君は優しすぎるんだ。いつもケイ君のために何が出来るか悩んでいただろ?そんな事悩む事自体、無意味だったんだ。だってケイ君は普通の人間じゃないんだ。そんな彼にごく普通の君がしてやれる事なんて何もないんだよ」

――――やめてくれ!!

「…君は彼のそばにいるべきではなかった。そしたら君は今頃ごく普通の幸せな生活を送れたはずなんだ。例えば…フランスにいる彼と結婚して子供も出来ていた」

 僕の腹の底から、気がおかしくなるくらいの怒りが込み上げていた。 

 アキは小さい身体を震わせていた。頬を涙で濡らしながら…苦渋の表情で海斗の言葉を聞いていた。聞かされていた。

 僕の骨がキシキシと軋み、身体中の血がすごい勢いで流れだした。

「…子供……そうだよ、君は彼のせいで子供が出来にくい身体になってしまった。本当に君には同情するよ」

 海斗は部屋の隅にいた田口を呼び、田口から手渡された拳銃に弾を込め始めた。

「―――ボクは松田さんには本当に感謝してるよ。ボクが店に来ると君は何の先入観も持たず、いつも笑顔で接してくれた。ボクは本当に嬉しかったよ」

 海斗はアキの頭をゆっくり撫でた。アキは震える瞳で海斗を見つめた。

「だからボクは君のために…父さんのために、ケイ君に<罰>を与えるんだ」

 海斗はそう言うと、拳銃の銃口を僕に向けた。

 バ―ン!! 激しい音と共に、拳銃の弾が僕の左太ももを貫通した。

「…ッン―!!ウゥ―!!…」

 アキが必死に叫んでいた。

 僕は左太ももから伝わる激しい痛みを感じながら、海斗を睨んだ。

「君はまず父さんの足を撃った。そして次は肩」

 バ―ン!!! 弾は僕の右肩をかすめた。

「はぁ…やっぱり拳銃って難しいね。―――最後に君はボクの父さんを…その他の13名の男達を殴り殺した」

 田口が僕の前に立った。

「ッン―!ウゥゥ―!!!」

 アキは車椅子をガタガタ揺らしながら叫んでいた。海斗はそんなアキを横目で見ながら言った。

「ケイ君には父さんのように死んでもらうからね」



















「……本当にすまない…」

 永田は今にも泣き出しそうな顔で眉間にしわを寄せたまま、ベッドに横たわる本条に頭を下げた。

「いえ…おじさんが悪いワケではありません」

「しかし…っ私がしっかりしていればアキちゃんは連れて行かれずに済んだはずだ!!私は…っ…なんて無能な人間なんだ!!」

 肩を震わせながら話す永田に、本条は言った。

「…僕もこんな様です。僕だって無能ですよ…」

 本条の言葉に、永田は顔を上げた。

「おじさん。ケイを捜して下さい。そこにアキちゃんもいるはずです。2人を助けて下さい。…お願いします」

 永田は唇を震わせながら、本条を見つめた。

「分った!私が必ず2人を助け出すから…有治君は安静にしてるんだ!!」

 永田はそう言うと病室を出ようとした。


「有治君!!」

 病室に勢いよく入って来た清子に、永田は驚いた。

「有治君!!ケイ君達の居場所が分かったわ!!」

 清子の言葉に本条と永田は驚いた。

「っどこだ!?どこにいるんだ!?」

 永田は清子の肩を掴んだ。

「待って!今場所を教えますからっ…」

 本条は清子を戸惑いの表情で見つめた。

「…清子…どうして君がそんな事を知ってるんだ?」

「……さっき連絡が入ったの…」

 清子はそう言うと、ゆっくりと本条を見つめた。

「有治君。あとでちゃんと説明するから……」

 清子の言葉に、有治は静かに頷いた。









「―――ハァッ…ッハァッ…」

 田口は僕の前に突っ立ったまま、息を切らしていた。

 海斗がその様子を険しい表情で見つめていた。

 アキは…涙で顔をぐしゃぐしゃにし真青な表情のまま、僕を見ていた。

「…っ海斗様…ハァッ…申し訳っ…ハァッ…ありませんっ……」

 田口の言葉に、海斗は眉をひそめていた。

 田口は僕の胸倉を掴み、僕の身体を壁にぶつけた。


 僕は、殴られながら考えていた。どうやってアキを助け出すか―――こうやって考えている僕の“心”も海斗は読んでいるだろう。だから隠す事は出来ない。

 方法は1つだけだ。


「―――お前は、本当に僕を殺すつもりで殴っているのか?」

 僕の言葉に、田口の表情はみるみる青ざめた。

 僕は右からきた拳をかわし、田口の腹を蹴った。田口のデカい身体が宙を舞い、そのまま床に落ちた。悶え苦しむ田口に近付き、僕は田口の腹をもう一度勢いよく蹴り上げた。仰向けに引っくり返った田口の顔面を横から蹴り、田口が着ていたジャケットのポケットから手錠の鍵を抜き、手錠を外した。そしてすぐ田口の脇にはめられたベルトから拳銃を抜いた。

 その拳銃の銃口を海斗に向けた。

 海斗も僕に銃口を向けていた。

 2人の間に沈黙の空気が流れた。

「―――さすがだね。もうボクの<プネウマ>に慣れちゃったんだね。…大神も手が出せないワケだ」

 海斗は笑いながらそう言うと、拳銃を僕の前に投げた。

「…さぁ、どうぞ。あとはボクを殺すだけだ」

 海斗は大きく両手を広げた。僕は銃の引き金を引こうとした―――


―――ケイ君!駄目!!


 一瞬―――頭の中で、アキの声が聞こえた。

 僕はアキを見つめた。アキは…赤く充血した瞳で僕を見ていた。

 その泣き腫らした瞳は、とても厳しく僕を見ていた。


 僕は全身の力が抜けた。

 持っていた拳銃が手から床にゴトッと落ちた。


「…なんのつもりだよ…」海斗は眉をひそめたまま、僕を睨んだ。「早く撃てよ!早くボクを撃てよ!!」

 海斗の言葉に僕は首を振った。

「はぁ!?何をやっているんだ?…ケイ!お前はそのために生まれて来たんだぞ!人を殺すために生まれて来たんだ!!だから早くボクを撃つんだ!」

 海斗の“声”が、鋭く頭に響いた。でも、響くだけで何も感じなかった。

 僕は―――アキの瞳から目が離せないでいた。アキの瞳から大粒の涙が流れていた。


「…僕は…人を殺すために生まれて来たんじゃない」

 僕の言葉に、海斗は黙っていた。黙ったまま僕を睨んでいた。海斗の見えていないはずの金色の眼球が微かに動いた。


「―――ゴホッ…」

 海斗が小さく咳込んだ―――すぐにすごい勢いで咳込み始め、口から大量の血を吐いた。

「…っおい!」

 僕は慌てて海斗に近寄ろうとした。

 その時だった。後ろで倒れていた田口が起き上がり、僕に銃口を向けた。僕は海斗が投げ捨てた拳銃に手を伸ばした――


 バ―ン!! という爆発音が部屋中に響き、田口がその場に突っ伏した。

「海斗!」

 あの女が海斗に駆け寄った。部屋の入口には大神が拳銃を構えたまま立っていた。その拳銃の銃口からは白い煙が立っていた。

「大神!急いで海斗を!」

 大神は海斗を抱え、部屋から飛び出して行った。

「…アキ!アキ!!」

 僕は気を失ったアキの口から粘着テープを剥がし、紐を切って車椅子から下ろした。

「ケイ、ここの管理人が警察に通報したの。もうすぐ警察が来るわ。その子を連れて早く行きなさい」

 女はそう言うと僕を見つめた。

「空閑先生のマンション…知っているでしょ?彼女が待ってるわ」

 僕は頷き、アキを抱き抱え部屋から飛び出した。

 マンションの入り口に、昌男おじさんが立っていた。

「!!ケイ君!!ケイ君大丈夫か!?…とにかくこっちだ!もうすぐ警察が来る!」

 僕はアキを抱えたまま、昌男おじさんの車に乗り込んだ。

「おじさん!清子さんのマンションに行って!」

「あぁ!分かってるよ!!」

 昌男おじさんはそう言うと、アクセルを踏み込んだ。








「―――よくまぁ…こんな傷で気を失わなかったわね、ケイ君」

 清子さんが僕の右肩の傷に消毒綿を当て、包帯を巻きながら感心したように言った。

「…しかし…随分ひどく殴られたな…」

 僕の顔の傷を眺めながら、昌男おじさんが心配げに言った。

「…うん…腫れてる?」

「いいえ。相変わらずシャープな顔ラインよ。ただ傷だらけ〜…せっかくの男前も台無しね」

 清子さんは笑いながら言った。


 昌男おじさんがうつむき加減で僕を見ていた。

「…ケイ君…本当にすまなかった。私が付いていながら…こんな事になってしまって…」

 昌男おじさんの目から涙が流れていた。僕はそんなおじさんを見つめた。

「…おじさんがいてくれて良かったよ」

 僕の言葉に、おじさんは顔を上げた。

「ありがとう…おじさん」

「…ケイ君…」

 昌男おじさんはその場に座り込んで泣き始めた。アキの様子を見に、隣の部屋へ行っていた清子さんが驚いた顔で覗き込んだ。

「何?何?どうしたの?やだ!ケイ君、永田さん泣かしちゃったの?」

 清子さんは笑いながらそう言った。

「永田さん、今から有治君に報告に行ってくれませんか?有治君、ケイ君とアキちゃんが無事かどうか分からないじゃ眠れないだろうから」

「おぉ!!そうだな!よし!今からすぐ行って来るよ!ケイ君も安静にな!アキちゃんによろしく!!」

 昌男おじさんはそう言うと、すごい勢いで部屋を出て行った。


「清子さん…アキは?…」

「うん、大丈夫よ。ぐっすり眠ってるわ」

 清子さんの言葉に、僕はホッと胸を撫で下ろした。 

 

 清子さんは僕にあの女との関係を説明してくれた。

「ケイ君達の居場所を教えてくれたのは浅井先生なの。で、永田さんに迎えに行ってもらったの」

 僕は静かに清子さんの話を聞いていた。

「ねぇ、ケイ君」清子さんは僕の目を見つめた。「アキちゃんを1週間、預からせてほしいの」

 清子さんの言葉に、僕は驚いた。

「…ケイ君、アキちゃんにこれからの事決めてもらいましょう」

「…それって…どういう意味…」

「アキちゃんはすべて知ったんでしょ?あなたの出生の秘密とか…何もかも…」

 清子さんの言葉に、僕はうつむいた。

「私からアキちゃんに言うわ。これからどうしたいか、ケイ君と一緒にいたいか、一緒にいたくないか…」

 僕の心臓が激しく打っていた。

「1週間後にここに来なさい。もしアキちゃんがここにいなかったら……もうアキちゃんの事は諦めなさい」

 僕は清子さんの顔を睨んだ。睨んでいた。清子さんはそんな僕を穏やかな表情で見つめ返した。


―――そんな事、出来ない…僕はそう叫びたかった。でも、叫べなかった。

 僕は分かっていた。アキを繋ぎ止める資格なんて、僕には無い事を。


 僕は小さく頷いた。

 清子さんは微笑んで、僕の頭をポンポンと叩いた。

「明日、病院の方に傷の消毒に来てね。何時でもいいから」




 その日、屋敷に帰った時はもうすでに午前3時を少し過ぎていた。

 僕はとりあえずベッドに横になり、そのまま朝を迎えた。汗臭かったからシャワーだけ浴びて…昼前に清子さんの勤める病院へ行った。

「アキちゃん、大分動揺してるわ」

 と言う清子さんの話を聞いて……それから…

 どうやってその日1日を過ごしたか覚えていない。



 僕は次の日の月曜日から、研究所に出勤した。太ももと肩の傷は、まだうずいて痛かった。研究所の連中も、僕の顔の傷を見て驚きを隠しきれないでいた。

「どっどうしたんだい?本条君!」

 宮崎さんが心配げに聞いてきた。

「…ちょっと…」

「何?喧嘩にでも巻き込まれたの!?」

「はぁ…そんな感じです」

 僕の顔の事は一気に会社中に知れ渡った。社員達が違う棟の研究所まで、僕の顔を見にやって来ていた。


 仕事が終わってそのまま清子さんの勤める病院に行った。

「昨日より回復してるわ…すごい回復力ね」

 清子さんは苦笑しながら言った。

 僕はアキの様子が気になっていた。聞こうかどうか迷っていた。

「…アキちゃん、大分落ち着いてきたわ」

 清子さんが言った。

 僕は少しだけホッとした。


 それから兄さんの病室に行った。

「…とにかく何か食えよ」

 兄さんは厳しい表情で言った。


 それから屋敷に帰って……それから…

 気付いたら朝の5時だった。


 

 腹も減らないし、眠くもならない。研究所にはなんとか行ってたけど…正直何をしていたのかよく覚えていない。


「本当に!!君ってなんて子なの!!」

 水曜日の夕方に傷の消毒をしに行った僕を見て、清子さんが呆れ顔で言った。清子さんはその日の夜、僕を定食屋に連れて行った。


 木曜日の夜も清子さんは僕をラーメン屋に連れて行った。

 金曜日は……とても何かを食べる気にはなれず…仕事から帰って……居間のソファに座ってテレビを見ていた。


 気付いたら、朝だった。テレビは知らない間に朝の番組が始まっていた。


 こんなワケの分からない1週間を過ごしたのは……あの時以来だった。3年程前、アキが大木さん家で暮らしていた4か月間以来だった。


 僕はまたシャワーだけ浴びて、何も食べずに屋敷を後にした。

 まだ朝の6時ぐらいで、日差しはそんなに強くはなかった。それでも頬に触れる風はぬるかった。僕はそんなぬるい風を身体に感じながら、人気のない路地裏を歩き、バス停の前を横切った。そのまま早足で歩き続けた。


 心臓がドクドクと鳴っていて、気持ちが悪かった。

 怖くて怖くて仕方が無かった。


 僕は分かっていた。

 こんな事になるんだったら…無理矢理にでも結婚しとくんだった。

 それでアキを自分のモノに出来たのか?

 いや…違う。




 僕は清子さんから預かっていたマンションの鍵でオートロックを解除し、エレベーターに乗った。エレベーターの中で僕は考えていた。

 これから突き付けられる現実をどうやって受け止めればいいか……ただ、ひたすら考えていた。

 考えても、考えても―――答えなんかすぐ出るはずなかった。



 初めてアキを抱いた夜。アキは恥ずかしそうに頬を赤く染め、でも戸惑いを隠せないでいた。それでも僕は何度も何度もアキを求めていた。

 どんなに想いを伝えても、アキの“迷い”が消えていない事は気付いていた。それでも僕はアキを求め続けた。

『君は自分勝手な人間だ』

 海斗の言う通りだ。僕は自分勝手な人間だ。


 あの日、あの施設の台所でアキに出会わなければよかった。

 そうしたら、僕は何のために生まれてきたのか気付かずに済んだんだ。何のために生き続けるのかなんて、別にどうでもよかったはずなんだ。


 またこんな想いを味わうぐらいなら…死んだ方がマシだった。


 僕は―――そんな事を考えながら…誰もいない部屋で立ち尽くしていた。

















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ