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Medicine for miracles〜<奇跡の薬>〜5

君のために僕は詠う。 

Medicine for miracles

 〜<奇跡の薬>〜 5




  ―――ケイ!こいつらを殺すんだ!!―――


 おじいちゃんの“声”が頭に響いた。

 分かった。殺せばいいんだね?おじいちゃん。

『ケイ、やめるんだ。私達はお前の敵ではない』

 でも、おじいちゃんがそう言った。

『ケイ、私の“眼”を見ろ。私の“声”を聞け』

 嫌だ…その“眼”は気持ち悪いんだ。

『ケイ…』

 嫌だ…その“声”も気持ち悪い……

『ケイ!!!』

 僕に触るな!!!







「ケイ君!!」

 その声に、僕はハッとした。外尾先生が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫かい?具合でも悪いのかい?」

「いえ…大丈夫です」

 僕は座席からゆっくりと身体を起こした。

「疲れたんだろう?帰ったらゆっくり休むといい。何か飲むかい?」

「…はい」と言う僕の返事を聞いて、外尾先生は手を上げ、それに気付いた客室乗務員が近寄って来た。

「すまないが、何か冷たいモノを頼むよ。」

「畏まりました」そう言うと客室乗務員は足早に行った。

 僕は汗で少し湿ったシャツを気持ち悪く感じながら、額の汗をハンカチで拭った。しばらくしてさっきの客室乗務員がミネラルウォーターをボトルごと持って来た。

「ご気分でも悪いのですか?」

「いえ…大丈夫です」

 僕の言葉にその客室乗務員は安心したように微笑み、ミネラルウォーターと一緒に持って来たタオルを手渡してくれた。

「どうぞ、お使い下さい」

「ありがとう…」

 僕はミネラルウォーターのボトルのキャップを開け、コップには注がずそのまま一気に飲んだ。

 外尾先生がそんな僕の様子を眺めながら、微笑んだ。

「悪い夢でも見たのかい?」

「え?」

「とてもうなされていた」

 僕は黙ってボトルのキャップを手の中で遊ばせていた。

「…あとどれぐらいで着くかな?」

「30分くらいでしょう。」

 僕は笑顔で答えた。



 僕達の乗った飛行機は、アメリカの国際空港から無事に日本の○○空港に到着した。入国ロビーで宮崎さんが大きく背延びをした。

「あぁ!!今回は本条君がいてくれて大助かりでしたね、先生!僕なんかよりずっと英語喋れるんだもんな!」

「そうだね」と、言いながら外尾先生は笑った。

「今度から海外出張の時は本条君は絶対付いて来なくちゃ駄目だよ!」

 宮崎さんの屈託ない笑顔の言葉に、僕は内心げんなりしていた。


 僕達は空港からタクシーに乗り、真っ直ぐ研究所まで行った。研究所で事務処理を済ませ、外尾先生に許可をもらい、急いで屋敷へ帰った。



「アキ!ただいま!」

 僕は玄関で靴を脱ぎながら叫んだ。いつもなら「おかえり!」と言いながらパタパタと来て、笑顔で出迎えてくれるのに……

 アキの姿がない。

 僕は慌てて台所へ行った。そこにもアキはいない。風呂場も覗いた。そこにもいない。アキの部屋に行った。そこにもやっぱりいない。

「アキ!!」

 僕はさっきより大きい声で叫んだ。

「―――はぁぁい!!ケイ君!ここにいるわよ!!」

 2階からアキの声が聞こえた。僕は急いで2階に上がった。

「おかえり!」

 アキは兄さんの部屋で、ベッドのシーツをセットしていた。

「今日天気良かったから洗濯したの」そう言いながら、アキはボックスシーツのしわを伸ばした。「よし!次はケイ君の部屋ね」

 にこっと笑って部屋を出ようとしたアキを、僕は抱きしめた。

「…っどうしたの?」

 アキはあせあせしながら言った。

「…うん…ただいま…」

 僕は大きく息を吐きながら言った。アキはフッと笑って

「おかえりなさい」

 と、言った。




 あの日―――アキから婚約を解消しようと言われた日から、そろそろ半年は経とうとしていた。

 僕は大学を卒業し、予定通り○○製薬の研究所に研究員として入社した。入社して2か月も経たないうちに外尾先生の海外講演会のスタッフの1人に選ばれ、10日間もアキのそばにいれなかった。

「わぁ!ありがとう、ケイ君!」

 アメリカ土産を見ながらアキは目を細めて微笑んだ。


 この半年間、アキはかなり僕に気を遣っていた。いつも以上にニコニコして…店から毎日真っ直ぐ帰って来て、炊事洗濯をこなし、休日には丁寧に屋敷の掃除をして…相変わらず、家政婦業に徹していた。

 夜も…一切僕を拒んだりしなかった。落ち着くと、その日あった出来事なんかを楽しそうに僕に話した。今日も店の“理子ちゃん”という女から教わった小ネタのような話と、最近よく来るようになった若い男性客の話などを笑いながら話していた。そしていつものように僕より先に眠り込んだ。

 僕はアキの髪を静かに撫でながら、アキの寝顔を見入っていた。

―――アキは…本当は僕の事なんか愛していないのかもしれない…

 僕は毎晩そんな事を考えながら、混沌とした闇の中に沈むように眠りに落ちていった。















「―――有治君!!」

 空閑清子は、混雑する病院の待合室の椅子に腰を下ろし文庫本を読んでいた本条有治に声を掛けた。本条は軽く右手を上げ、文庫本を鞄に入れた。

「ごめんね、結構待ったでしょ?」

「いや、そんなに待ってないよ。―――しかし、検査の結果ってこんなに早く出るとは思わなかったよ」

 本条は苦笑しながら椅子から腰を上げた。

「今の検査機器は性能が良いからね。さっ、診察室で話しましょう」

 清子はそう言うと、白衣のポケットに右手を突っ込んだまま本条の前を歩いて行った。本条は軽くため息を吐きながら清子の後ろを歩いた。


 本条は診察室で清子から手渡されたドック健診の結果表を見ながら唸った。

「大きな問題は無いけどね、血液のトコにいくつか印が付いてるでしょ?これから気を付けとかないと通院しないといけなくなるわよ」

 清子の言葉に、本条はまた唸り声を上げた。

「気を付けると言ってもなぁ…食生活は問題ないだろう?」

「食生活だけが完璧じゃ意味ないのよ。色々見直さないと」

「色々か…」

 本条は眉間にしわを寄せたまま、結果票を見つめた。

「…どうせ、仕事仕事でろくに休んでないんでしょ?そろそろ息抜きしないと倒れちゃうわよ」

 清子の言葉に本条は苦笑した。

「そうだな…」

「ケイ君達の事も心配だろうけど…2人とも大人なんだからもうほっとくしかないんじゃない?」

「…うぅむ…」本条は苦渋の表情を浮かべた。

「有治君が言っても私が言っても…アキちゃん、言う事聞かないんだし…」

 清子はそう言いながら診察室の窓から空を仰いだ。初夏の青空を見つめながら、清子は小さく息を吐いた。

「…アキちゃん、何を考えてるのかしら…」

 本条は驚いた表情で清子を見つめた。

「君もそう感じたのか?」

「えぇ…この間話した時から思ってたんだけど…あの子、自分にはケイ君の隣にいる資格が無いって言ってたけど、それでもケイ君と暮らしてるじゃない?何だか少しだけ矛盾してるのよね」

 清子は目線を窓から本条に移した。

「アキちゃん、私達に何か隠してないかしら?」


















「―――その女、好きな時にやらせてくれるんだよ!」

 会社の食堂でその男は自分の“セックスフレンド”の話を周りの連中に聞かせていた。そいつは得意げに、何故か僕を意識しながら喋っていた。僕は大して聞きたくもなかったが、そいつは“その話”を僕に聞かせたいらしく、わざわざ僕の近くに座って大き目の声で話していた。周りの連中は少しうんざり気味に聞いていた。

「その女さっ一人暮らしだからホテル代もかからないワケよ!しかも必ず夕飯も作ってくれるんだ!」

「…いいなぁ〜…でもそれ彼女にバレたらヤバくないか?」

「大丈夫!大丈夫!相手も彼氏持ちだから。お互い大人的な付き合いだからね」

 僕はコップの緑茶を飲み干し、盆を持って腰を上げた。

「ねっ!本条君!本条君!今週の金曜、夜空いてる?」

「空いてません」

 ワザとらしく聞いてきたそいつに、僕は即答した。そいつは少し怯み、眉間にしわを寄せた。でもすぐ作り笑いをして言った。

「金曜の夜に△△ビルのOLと合コンするんだ。本条君も来なよ!」

「用事あるんで」

「この間もそんな事言ってたじゃん!その用事、違う日に回せない?」

 何で僕がお前のためにそんな事しないといけないんだ――という言葉をなんとか飲み込み、「無理です」と言った。

「もう!本当に付き合い悪いな!…何で?彼女に怒られる?そんな事黙ってればいいんだよ!」

 そろそろ限界に達しようとしていた時、宮崎さんが僕を呼びに来た。僕は小さく息を吐いて、その場を立ち去った。


「またパソコンの調子が悪くなってね!リースに連絡したんだけど夕方じゃないと来れないって言うんだよ。今日中に仕上げないといけない書類があるから……また見てもらっていいかい?本条君!」

 宮崎さんは丸い顔を丸くさせて笑い、申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。

「いいですよ」

 僕の言葉に宮崎さんはふっくらと微笑んだ。





 その日の夕方、アキから携帯にメールが届いた。

[ 今、麻衣子ちゃんと夕貴さんが来てるよ(^−^) ]


 僕は仕方無く図書館に寄り道する事にした。

 有尾はまぁ別として…問題なのは加茂さんの妻の夕貴だった。

 とにかくよく喋る。一体いつ息をしているのかと心配になるくらい喋り続ける。アキが慕っているからと、とりあえずは何も言わずにいたのだけれど……


 僕は2時間ほど図書館で本を読み、新刊を予約していた本屋へ行った。本屋の店員は僕の姿を見ると、すぐに店の奥から本を持って来た。

「それ、面白いんですか?」

 レジを打ちながら、女の店員は聞いてきた。僕はしばらく黙っていた。

「…まだ読んでないから」

 僕の言葉にその女はハッとし、顔を真っ赤にした。


 もうそろそろ帰っても大丈夫かな…そう考えていた時、後ろから声がした。

「もしかして…本条…ケイ君?」

 僕は振り向き、そこに立っている男を見て、一瞬言葉を失った。

 その男は…伊藤という男は笑いながら僕に近寄って来た。

「久し振りだな!元気か?」

 伊藤は白い歯を見せながら笑った。














「アキちゃん!ケイ君はまだ帰らないの?」

 出来立ての蒸しパンを頬張りながら加茂夕貴が言った。

「今日は遅くなるかも…寄り道して来るってメールきたから…」

「そうなの!?なんだ!せっかく目の保養しようと思ったのに!!ねぇ〜明音!残念ですね〜!」

 まだ1歳になったばかりの長女明音をあやしながら夕貴は言った。その言葉にアキと麻衣子は笑った。

「夕飯、どうします?」

「あぁ〜食べて帰りたいけど…今日は遠慮しとくわ。旦那の夕飯の準備してないの」

 夕貴は残念そうに言いながら、明音の頭に帽子を被せた。

「麻衣子ちゃんは?」

「私はお言葉に甘えます」

 麻衣子の言葉にアキは微笑んだ。


 夕貴が帰った後、アキはテーブルの上を片付けながら麻衣子に言った。

「仕事は?どう?子供相手だと大変でしょ?」

「はい…でもみんなすごく可愛いんですよ!私が教えるの下手だから…なんだかあの子達に悪くて…」

 うつむき加減で言う麻衣子を見つめながら、アキは微笑んだ。

「まだ新米先生なんだから、今からそんなに気を張っちゃ駄目よ!これから!これから!麻衣子ちゃんなら絶対大丈夫よ!」

 アキの言葉に麻衣子は嬉しそうに微笑んだ。

「ところで…中島君は元気?」

「はい!とっても!毎日メールきますよ」

「おぉ!良かったね!遠距離でも大丈夫ね!」

 アキの言葉に麻衣子はハニカんだ。アキはそんな麻衣子を微笑ましく思っていた。

「さて!夕飯の支度に取りかかりますか!」

「あっアキさん!私も手伝います!」

「そお?いいの?」

「はい!ちゃんと家事とか出来るようになりたいんで!」

 麻衣子の言葉にアキは目を丸くした。

「まさか…結婚するの?」

 ニヤニヤしながら訊いてきたアキに、

「ちっ違いますよ!」

 と、麻衣子は頬を赤くして答えた。







「―――お前、いくつになった?」

 伊藤は鶏皮串を食べながら、僕に聞いてきた。

「3月で22になった…」

 僕はそう言うと、生ビールを飲み干した。

「まだそんなに若いの!?あれ?初めて会った時はいくつだったっけ?」

「…18」

「あぁ…そうか…そしたら結構経ってるな」

 妙に納得したような表情で、伊藤も生ビールを飲み干した。そしてすぐ店員を呼び、「生、2つ」と追加注文した。

「松田は元気?」

「うん…」

 僕はそう言うと、きたばかりの生ビールを半分飲んだ。

「…お前、ピッチ速くないか?何?俺と飲むのがそんなに嫌か?」

「別に…ただダラダラ飲むのが嫌いなんだ」

 本当に僕は酒をダラダラ飲むのが嫌いだった。

「なんだよ…そしたら少しは楽しそうに飲めよ」

 伊藤は口を尖らせながら山盛りの枝豆に手を伸ばした。

 僕はこの伊藤の誘いで飲み屋に来ていた。

 伊藤は今日フランスから帰国したばかりで、本社に寄った帰りに本屋から出て来た僕に気付き、声を掛けたらしい。

「松田とは上手くいってるか?」

 枝豆を剥き、口に運びながら伊藤は言った。

「まぁ…」

「……なんだ。やっぱり何にも進んでないか…」

 そう言うと伊藤は小さく息を吐いた。

「やっぱりって?」

 僕は少しムッとした。伊藤はそれに気付いたらしく、苦笑した。

「松田はすぐ自分の事は後回しにするからな。昔からそうなんだ。すぐ相手の事考えて自分は我慢するんだ。―――小学校の学芸会の時もそうだった。<親指姫>の姫役にくじで当たったんだ。くじの結果だし、ほら松田小さいから結構ハマり役だったんだけど…クラスの女子の1人が納得いかないって騒ぎだしてさ。『アキちゃんみたいな地味な子にはお姫様なんか無理よ!』ってハッキリ言われたんだ。そしたら松田の奴、『そうね、私よりゆりちゃんの方がいいよ!』って言ってその子に役譲ったんだ。その子は目立ちたがりで有名だったから周りの女子は松田の肩持ったんだけど…松田は村人3に徹したんだ」

 伊藤はそこまで喋ると、またビールを飲んだ。

「……どうせ『私とケイ君とは釣り合わないから』〜とか何とか言ってお前の事受け入れてないんだろ?」

 僕は何でこの男がここまで僕達の事を理解しているのか考えた。この3年間でこの男が日本に帰って来たのは3〜4回程度。その時はアキには会う事は無かったはずだ。―――電話?アキは電話でこの男に僕の事、相談でもしていたのか?

 僕はだんだん苛立たしくなり、伊藤の“考え”に神経を集中させた。


 伊藤が完全な“勘”で言っている事は明らかで、僕は肩を落とした。

「また同窓会でもすっかな?松田誘ってもいいか?」

 伊藤の言葉を聞いて、僕は慌てた。

「いや…それはやめて…きっとアキは来たがらないよ…」

「…何で?」

「…去年…同級生と色々あったから…」

 僕の言葉に、伊藤はしばらく黙っていた。きっとこの男ならこれ以上言わなくても大体の見当は付くだろうと思った。

「…そうか…」伊藤はそう言うと残りのビールを飲み干し、腰を上げた。「なぁ!もう1軒付き合えよ!」

 ニッと笑いながら伊藤は言った。




 深夜12時を回っていた。僕は見かけより重たい伊藤を背中におぶって屋敷へ帰った。出迎えたアキは、泥酔し眠り込んだ伊藤をおぶっていた僕を見て、かなり驚いた。

「伊藤君!?…え?何で伊藤君!?」

「本屋の前で会ったんだ。今日フランスから帰って来たんだって」

 僕はそう言いながら玄関ホールに伊藤を下ろした。

「それで2人で飲んで…で、伊藤君が潰れちゃったんだ」

 アキはそう言いながらくすくすと笑い出した。

 居間から兄さんが顔を出した。

「今日はもう遅いから家に泊らせなさい」

「はい。ケイ君もそのつもりで連れて帰って来たんでしょ?」

 確かに…伊藤の家も分からないし、本人は全く起きないし…仕方無かったのだ。まぁ、こんな事には慣れていた。まったく同じ状況で中島が何度も家に泊まっていた。

 僕は伊藤をまた担いで2階に上がった。アキが客室用の寝室に置かれたベッドのシーツをセットしようとしていた。

「アキ、いいよ。僕がやるから…」

「え?そお?そしたら伊藤君の着替え持って来るね」

「いいって!客じゃないんだから!」

 思っていたより大きい声が出たので、僕は驚いた。アキも驚いた表情をしていた。

「……僕が着替えさせるから…アキは何にもしなくていいよ…」

「…でも…」

 アキは不安げに言った。

「…アキがこの男の世話をするのは嫌なんだ」

 僕はそれだけ言って、ベッドにシーツを広げた。

 僕は横目でアキを見た。アキは笑っていた。

「…何がおかしいんだ?」

「いや…何でもない」

 アキは笑いを堪えるように1階へと下りて行った。





「本当に申し訳ないです…」

 次の日の朝、伊藤は青白い顔を下に向けたまま、呟くように言った。

「気にしなくていいよ。また遊びにおいで」

 兄さんはコーヒーをすすりながら笑顔で言った。僕は新聞を広げ、アキの様子を見ていた。アキはいつもと何も変わらず朝食の準備をしていた。伊藤の分も―――――。

「じゃぁ、私はもう行くから」

「本当にお世話になりました」

 伊藤は兄さんに軽く頭を下げた。兄さんも笑いながら軽く手を上げ、屋敷を出て行った。


「伊藤君、コーヒーがいい?紅茶?」

「おっ!コーヒーお願いします!」

 そう言った後、伊藤は焼き立てのパンをかじった。そしてすぐに目を輝かせた。

「うっめぇな!!このパン!もしかして松田の手作り?」

「…うん。パン焼き機で焼いた簡単なパンよ」

 アキはハニカミながら伊藤の前にコーヒーの入ったカップを置いた。

「いや、この香ばしさ!あっちで行き付けのカフェのパンもこんな感じなんだよな。カリッと焼いたパンにレタスとハムと卵とラディッシュ?がサンドしてあってこれが美味いんだ!」

 伊藤は興奮気味に言いながら、あっという間に皿の上のパンをたいらげた。そして湯気の立つコーヒーをゆっくり飲み、大きく息を吐いた。

「…お前は何でそんなに無愛想なんだ?松田、こいつはいつもこうなのか?」

 伊藤の言葉にアキは笑い出した。

「…朝からテンション高過ぎなんだよ。あんたは…」

「はぁ?お前が暗過ぎなんだよ!なぁ!松田!」

 アキは笑いながらテーブルの椅子に腰を下ろし、パンをかじった。

「アキ…今日は早く行かなくていいの?」

「うん。今日は新しい子が準備してくれるからね」

 アキはそう言うとコーヒーをゆっくりすすった。

「……お前達、いつか結婚すんの?」

 いきなり伊藤が言った。僕とアキは思わず固まった。

 こいつは勘は良いけど気が利かないと思った。

「…何よ、いきなり…」

 アキは動揺しながら伊藤を睨んでいた。

「だってさ、松田もう28だろ?そろそろかな〜って思って」伊藤はニヤニヤしながら言い、コーヒーを飲み干した。「その様子じゃ…俺の方が早いかもな」

 伊藤の言葉に、僕とアキは顔を見合わせた。

「いっ伊藤君結婚するの!?」

「うん…仕事の事もあるから式上げるのは来年になるだろうけど」

 伊藤の言葉にアキの表情がパッと輝いた。

 僕はそんなアキの笑顔を久し振りに見た。

「おめでとう!相手の人はフランス人?」

「出会ったのはあっちだけど、日本人だよ」

 伊藤は照れたように笑った。

「まぁ、式には2人とも招待してやるから2人でフランス観光ってのもいいんじゃないか?」

 伊藤の言葉にアキは嬉しそうに笑っていた。

「さてと!俺ももう行くわ!色々迷惑掛けたな、ケイ君!」

 伊藤はそう言うと、僕の肩を強く叩いた。

「ケイ君は?まだ行かなくて大丈夫?」

「え…あぁ…そろそろ…」

「なんだ。そしたら途中まで一緒に行こうぜ!」


 僕達はアキに見送られ、屋敷を出た。

 伊藤もバスに乗ると言ったので、結局市内まで一緒に行く事になった。

 バスの車内は会社員や学生でいっぱいで、僕はいつものように吊り革を握った。

「本当に招待すっから2人で来いよ。松田もお前との事少しは積極的になるかもしれないしな」

 こんな時何て言ったらいいか、僕は悩んだ。普通は<ありがとう>だろうけど…この男に<ありがとう>と言う事に抵抗があった。

「―――あんまり、焦るなよ」

 伊藤は真顔で言った。

 バスの吊り革を持ったままの僕達の身体は、バスが右折・左折するたびに大きく揺れた。

「松田は俺よりお前を迷わず選んだんだから…」

 そう言うと伊藤はフッと笑った。

 僕はしばらく黙った。そして小さく息を吐いた。

「…Merciありがとう

 僕の言葉に伊藤は

「Je vous en prieどういたしまして

 と、笑顔で答えた。

















「本当にごめんなさいね、空閑先生」

「そんな…気になさらないで下さい、浅井先生。また何かあったらいつでも呼んで下さい」

 清子は笑顔で言った。薫も微笑んだ。

「“こんな事”またあったら身が持たないけどね」

「そうですね」

 薫の言葉に清子は笑い出した。


 清子は、女医で恩師の浅井薫の屋敷に来ていた。“天才脳神経外科医“として有名な薫に研修医の頃から世話になっていた清子は、薫を心から尊敬していた。

 そんな薫から1か月ほど前の深夜に、清子の携帯に連絡が入った。清子は慌てて薫の屋敷に行った。

 薫は腹部を2か所銃で撃たれていた。急所は外れていたので、一命は取り止めた。その手当に、清子は呼ばれたのだ。

「この事は他言しないで」

 と言う薫の頼みに、清子は応じた。清子は薄々気が付いていた。薫には誰も知らない<裏の顔>がある事を――――。そして自分が気付いている事を薫は知っていると、清子は考えていた。

 それでも、清子は薫の味方に付いた。


「もう大丈夫ですね。傷口もキレイに閉じています」

 薫の腹部の銃創を消毒綿で拭きながら、清子は言った。

「あなたのオペの腕が良いからね」

 薫は静かに微笑んだ。

 清子は薫の体温を測り、カルテに書き込んだ。薫はシルクのシャツのボタンを留めた。

「あなた、まだ結婚はしないの?」

 薫の言葉に、清子は面食った。

「どうしたんですか?いきなり…」

「いえね…前々から思っていたのよ。本条先生だったわよね?あなたの相手」

「そんな…付き合いではありませんよ、浅井先生」

 清子はハニカんだ。

「あなたは美人だからね…結婚にそんなに執着する事はないだろうけど、子供は産んだ方がいいわね」

 薫の言葉に、清子はしばらく黙っていた。

「…どうしてそう思われますか?」

 清子の言葉に、薫はフッと微笑んだ。

「自分の存在の証よ」




 清子が薫の部屋を出て行った後、すぐに黒装束の男大神が部屋に入った。

「―――海斗は?」

「申し訳ありません、奥様。まだ見付かっておりません」

 大神の言葉に薫は大きくため息を吐いた。

「まったく…やってくれたわね、あの子…こんな事になるんなら“眼”と“口”を使えなくしとくんだったわ」

「…奥様、海斗様は必ず見つけ出します」

「急ぐのよ。海斗はケイの居場所をつきとめているはずよ。あの子の狙いはケイなんだから。海斗がケイと接触する前に海斗を捕まえるのよ」

「分りました」

 大神はそう言いながらサングラスを指で直した。






















「ああんもう!!暑い!今からこんなに暑いんじゃぁ真夏が恐ろしいわ!」

 白地に黒のドット柄のシフォンブラウスに黒のプリーツスカートを穿いていた浜田綾乃の妹、圭乃は肌にくっ付いたブラウスを引っ張りながら言った。

「あと何日かしたら7月だもの。そりゃ暑いわよ」

 黒の麻のカーディガンに黒のタイトスカート姿の浜田綾乃の母、真由美は苦笑しながら言った。

 2人は綾乃の墓参りのため、朝から墓地公園へと向かっていた。

 墓地公園へ行く途中、花屋へ立ち寄り、綾乃が生前好きだった百合の花を買った。6月とはいえ、日差しは強くアスファルトからはムッとした蒸気が立っていた。2人はなるべく日陰の多い歩道を歩いて行った。

「圭乃、今日もまたどこか出掛けるの?」

「…うん。別にいいでしょ!ちゃんとお墓掃除手伝ってるじゃない!」

「掃除って…あなた、今日は綾乃の月命日なのよ。そんな言い方しちゃ駄目よ」

 真由美の言葉に、圭乃は眉をひそめた。

「なによ!本当はお参りに行くのも嫌なのよ!私は!…お姉ちゃんのせいで私がどんだけ迷惑したか、お母さんも分かってるでしょ!?」

「あなたの気持ちも分るけど…でも…」

「私が今、会社でどんな目で見られてるか知らないくせに!!そうやってお姉ちゃんの肩ばっかり持たないでよ!」

 圭乃はそう言うと、瞳を潤ませた。真由美はそんな圭乃を見つめ、小さく頷いた。

「そうね…あなたも大変よね…ごめんね…」

 真由美の言葉に、圭乃は黙ったままうつむいた。

「……あの人…どうしてるかな?…」

「?あの人?」

「うん…松田さんだっけ?お姉ちゃんが突き飛ばした人」

「…そうね…元気にしてらっしゃるならいいんだけど…」

 そう言うと、真由美は空を仰いだ。太陽の光が目に入り、真由美は思わず目を閉じた。

「本当に良い人だったよね。無条件で和解してくれたし。確か結婚間近だったよね?あんなカッコいい人と結婚出来るなんて羨ましい…」

 圭乃の言葉に、真由美はしばらく黙っていた。

「…あなたも松田さんのような女性にならないと駄目よ」

「え?何それ?どういう意味?」

 圭乃は眉間にしわを寄せた。


 2人は管理室で水桶と柄杓を借り、公園内へと入った。真由美は浜田家の墓石の前に飾られた白百合の花と、燃え尽きた線香に気付いた。

「…お母さん、また誰か来たのかなぁ…」

 圭乃が不思議そうな表情をしたまま、首を傾げた。

「本当ね…やっぱり綾乃の友達かしら?」

「友達じゃないよ。…お姉ちゃん友達少なかったし…」

「そしたら誰かお付き合いしていた人とか…」

「そんな人いたらあんな事しないでしょ!?」

 圭乃の強い口調に、真由美は黙った。黙ったまま、キレイに飾られた白百合の花を見つめていた。









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