Medicine for miracles〜<奇跡の薬>〜4
君のために僕は詠う。
Medicine for miracles
〜<奇跡の薬>〜 4
「…何よ…そんな怖い顔して…」
比奈子は、スタジオのロビーの隅にある自動販売機の前で腕組みをしたまま翔子を見て苦笑した。翔子は震える唇をしっかり結んだまま、比奈子を睨んだ。
「…今ならまだ間に合うから…アキちゃんに謝った方がいいよ…比奈ちゃん…」
翔子の言葉に、比奈子は眉間にしわを寄せた。
「またその話?もういい加減にしてよ!何で私が謝らないといけないワケ?私何も言ってないじゃん!」
「アキちゃんには言ってなくてもスタッフの人には言ってたんでしょ?私、誰にも言わないでねってあんなに頼んだじゃない!」
比奈子はウザそうに天井を仰ぎ、ため息を吐いた。
「…何よ、自分だってそう思ってたんじゃない」
「え…?」
比奈子の言葉に、翔子は言葉を詰まらせた。
「翔ちゃんだって疑ってたじゃない?相手は本条先生だって私が言った時なんか『信じられない』って言ってたじゃない」
「そっそれは…」
翔子は苦渋の表情を浮かべたまま、うつむいた。
「やっぱりどう考えてのおかしいわよ。相手が本条先生でもおかしいのに…あのケイ君がアキちゃんの婚約者なんて!信じらんない!絶対何かあるはずよ」
比奈子は納得いかない様子で頷きながら言った。
「…もうそんな事言うのやめようよ…」
呟くように言う翔子の顔を、比奈子は覗き込んだ。
「アキちゃんなら何も言わなくても許してくれるって。だからしばらくほっといても大丈夫よ」
比奈子はそう言うと微笑んだ。翔子は、胸中にある黒々とした空気の重たさを感じていた。
麻衣子ちゃんがケイ君に言ってしまうのは分かっていた。あの優しい、正義感の強い麻衣子ちゃんに少しの間でも嘘を吐かせてしまった事に、私はひどく後悔した。
そして、今、目の前に立ち尽くしているケイ君にも……私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「―――……何で…何で黙ってたんだ?」
ケイ君は眉をひそめたまま私を見つめ、そう言った。私はすぐ言葉が出なかった。ケイ君は黙り込んでいる私の頬に手を当てた。
「…今度病院行くだろ?その時は僕も一緒に行くから…」
ケイ君はそう言うと、私の頬を軽くつねった。
「…ごめんね…ケイ君…」
私はその一言だけ言うのが精一杯だった。
「何で謝るんだ?あと半年もすれば僕達は夫婦なんだよ?先に子供が出来ただけじゃないか。何も問題は無いよ。そうだろ?」
そう言うケイ君の大きな瞳が少し揺れた。
しばらく黙っていたケイ君は、大きく息を吐いた。
「これから何が必要なんだろう?…まずは兄さんに報告しないとな」
ケイ君は微笑みながら言ってくれた。その笑顔に……私は心臓をえぐられるような感覚に襲われていた。
それから1か月もしないうちに、テレビや芸能新聞や雑誌に比奈子ちゃんの名前が躍った。
有名デザイナーやプロデューサーとの不倫や多額の借金、モデル仲間との確執など…カリスマモデルとしての輝かしい経歴が音を立てて崩れていくように、比奈子ちゃんに対するバッシングは日に日に凄まじくなっていった。
私は何故こんな事になったのか…誰がこんな事をしたのか分かっていた。“その事”を分かっていた自分自身に、激しい嫌悪感を覚えていた。
「―――アキ、そんな興奮したら体調に良くないだろ?」
ケイ君は…落ち着いた口調で言った。でもその瞳は、ひどく悲しげに見えた。私は震える手を握りしめながら…ケイ君に言った。
「何で…何でこんな事したの?」
ケイ君はしばらく黙って私を見つめた。そして小さく息を吐いた。
「―――当然の報いだ」
そう言ったケイ君の顔を、私は思わず睨んだ。
「当然の報い?どうしてそんな事ケイ君が決めるの?」
私の言葉にケイ君は悔しそうに唇を噛んでいた。あの日の麻衣子ちゃんのように――――…
「そうやって責められるような事をしていたのはあの女だろ?ただその事が周りにバレただけだ。あの女が自分で自分の首を絞めたんだよ」
ケイ君はそう言うと、ゆっくりとソファから腰を上げ、その場に立ち尽くしていた私に近寄って来た。私は思わず身を退かせた。そんな私の反応にケイ君がイライラしていたのは分かっていた。分かっていたけど、私はケイ君の手を払い、屋敷から飛び出した。
そのままバスに乗り、比奈子ちゃんの住む高級マンションのある住宅街にやって来た。そのマンションの周辺にはたくさんの報道陣がいた。私は顔を下に向けたまま、エントランスホールに入ろうとした時、
「アキちゃん!」
と言う声が響いた。
翔子ちゃんは、うつむいたままエントランスホールに入ろうとした私の目の前に立っていた。
「翔子ちゃん…」
「アキちゃん、どうしたの?こんなトコで…」
小声でそう言うと、翔子ちゃんは困惑した様子で私を見つめた。
「…あの…比奈子ちゃん…大丈夫かと思って…」
私の言葉に、翔子ちゃんは慌てて私の手を取り、マンションを出た。報道陣の横をそそくさと通り抜けて、そのまましばらく歩き、少し離れた公園のベンチに腰を下ろした。
「駄目じゃない!あんなトコで比奈ちゃんの事言っちゃ!」
「ごっごめん…」
私はハッとした。そうだ、私が比奈子ちゃんの知り合いなんて分かったら、あそこにいた報道陣に質問攻めにされるところだった。
翔子ちゃんは大きくため息を吐き、私の横に腰を下ろした。
「どうしたの?比奈ちゃんに用だった?」
「…いや…ただ…大丈夫かと思って…」
翔子ちゃんはしばらく黙っていた。
「…本当にそれだけで来たの?」
「…え?」
翔子ちゃんの言葉に、私は顔を上げた。
「…あんなひどい事されたのに…本当に心配してたの?アキちゃん」
翔子ちゃんはそう言うと、私を見つめた。私はその翔子ちゃんの瞳からとても冷たい何かを感じた。
「わっ私は…」
「――もう、やめてよ。アキちゃん…」
翔子ちゃんの瞳が大きく揺れていた。
「そうやって良い子ちゃんぶるのやめてよ」
「…翔子ちゃん…」
「比奈ちゃん、もうすぐあのマンション出ないといけないんだって。事務所が借りてたマンションだったから…こんな騒ぎ起こしちゃったから事務所にもいられないみたい…」
私は目の前がクラクラしていた。そんな私を横目で見ながら、翔子ちゃんは喋り続けた。
「記事に書いてある事は全部事実よ。…私がその証拠を出版社に売ったの」
翔子ちゃんはそう言うと、静かに秋空を仰いだ。冷たい風が吹き、西陽が頬に触れていた。私は翔子ちゃんから目が離せないでいた。
翔子ちゃんの横顔がふっと揺らいだ。
「私の両親ね、アキちゃんが転校しちゃってしばらくして離婚したの。私は母親に付いて行ったんだけど…母親もあんまり家にいなくて…学校では結構ひどいいじめに合うし…もう散々だった。そんな時、比奈ちゃんが声を掛けてくれたの。その時は嬉しかったわ。比奈ちゃんが天使に思えたもの」
私は黙って翔子ちゃんの話を聞いていた。
「でも、しばらく一緒にいてやっと気付いたの。比奈ちゃんは自分を際立たせるために私をそばに置いてるんだって。だから私は比奈ちゃんの犬みたいなもんだったのよ。…いや、犬以下かもね。だって私、比奈ちゃんのわがままたくさん聞いて来たんだから。……それでも友達やってきたの」
翔子ちゃんはゆっくりと私の方を見た。
「アキちゃんには分からないわ。私の気持ちなんて…一生…」
私は大きく首を振った。
分かるよ!分るよ!―――私は大声でそう叫びたかった。
「アキちゃんは昔からそうだったよね?昔からみんなに良い顔して…みんなに優しくしてさ、にこにこしてさ…本当に大したもんだよ」
「翔子ちゃん…私…」
「もうやめてよ!そうやって同情した目で見ないで…」翔子ちゃんの瞳から涙が零れた。「…良かったね、幸せで。元気な子産むんだよ」
翔子ちゃんはそう言うと、涙を手で拭い、ベンチから腰を上げた。
「…もう行くから…バイバイ…」
私は「バイバイ」なんて言い返せなかった。私に背を向けて去って行く翔子ちゃんを見る事さえ出来なかった。
私はそこに座ったまま、しばらく動けなかった。
「―――アキさん!聞いてます?」
麻衣子ちゃんが口を尖らせながら私を見ていた。
「…うん…ごめん…何だっけ?」
私の言葉に「もう!」と大きくため息を吐きながら、麻衣子ちゃんはミルクティーをすすった。
翔子ちゃんとあんな風な別れをしてからそろそろ2週間は経とうとしていた。
あの日、屋敷に帰って私はすぐにケイ君に謝った。ケイ君は何も言わず微笑んで、私を抱きしめた。
『随分身体冷たいぞ…』そう言いながら、私の背中を察すってくれた。
きっとケイ君は私に対して言いたい事はたくさんあるだろう……
「…やっぱり本条君が卒業するまで籍入れないんですか?」
麻衣子ちゃんは心配げに聞いてきた。麻衣子ちゃんが私達の事を心から心配している事は分かっていた。今日だって、学校研修とか論文とかで忙しいはずなのに私をお茶へと誘ってくれた。
「うん。産まれるまでに籍入れれば大丈夫だよ」
私はそう言って、カフェオレを一口飲んだ。
私達は大型デパートに来ていた。デパートの中にあるカフェレストランでお茶を飲み、店を出た。1階に下りるため、エスカレーターまで歩いた。
その途中で、麻衣子ちゃんがテナントショップに並べられた洋服を見ながら微笑んだ。
「これ可愛い!」
「うん!麻衣子ちゃん絶対似会うよ!」
そんな会話をしながらエスカレーターの前に着いた。エスカレーターに乗ろうとした時――――
私は背中を強く押された。
「アキさん!危ない!!」
麻衣子ちゃんの声が聞こえた。私の身体がまるでスローモーションのようにゆっくりと揺れた。麻衣子ちゃんが逆さまに見えた。いや、建物全体が大きく回転した。
その瞬間、私は“その人”と目が合った。“その人”は怯え切った顔で私を見ていた。
「きゃぁぁ―――!!」
誰かの叫び声が響き―――ガタガタガタ!!というすごい音と共に、私の視界はテレビを消したみたいに一瞬真っ暗になった。
そしてすぐに視界は戻った―――といってもかなりかすんでいた。それよりも身体中に激痛が走った。少しずつお腹も痛くなっていた。
頭の上から麻衣子ちゃんの叫び声のような…声が聞こえてきた。
私はなんとか起き上がろうとした。
「きゃぁ!!」下腹に激痛が走り、思わず叫んだ。
「アキさん!アキさん!!」
麻衣子ちゃんが私に近寄って来た。麻衣子ちゃんの頬が涙で濡れているようだった。
「大丈夫…大…」
そこまで言った事は覚えている。
それから先は……またテレビを消したみたいに真っ暗になった。
病院の診察室の前の長椅子に腰を下ろしたケイは、足元の一点を見つめていた。麻衣子は壁に寄りかかるようにしゃがみ込み、その横に中島が寄り添うように座っていた。
「ケイ!!」
本条がケイ達に駆け寄って来た。
「アキちゃんは?」
「…まだ…」
ケイが呟くように言った時、診察室の扉が開いた。中から担当の医師が苦渋の表情で出て来た。
「先生!アキは!?」
すがるように聞いてきたケイに、担当の医師は首を振った。
「残念ですが、赤ちゃんは諦めた方がいいでしょう。このままでは母体の方も危険になりますのですぐに手術をしたいのですが…」
医師の言葉にケイは言葉を失った。
医師と話をしている本条の声を聞きながら、ケイは長椅子から立ち上がる事が出来なくなっていた。
麻衣子の泣きじゃくる声が、ケイの耳にはやけに大きく聞こえていた。
「―――アキちゃんを突き飛ばしたのは、浜田綾乃(24)保育士だ」
検事長で本条の父親の友人である永田は、眉間にしわを寄せたまま言った。
その場で取り押さえられた浜田綾乃はそのまま警察に連れて行かれた。その動機等を警察官から聞いた永田は、その事を伝えに病院まで足を運んだ。
2人は病室から離れ、ナースステーションのあるフロアの中央に置かれた長椅子に腰を下ろしていた。永田は紙コップのコーヒーを静かにすすった。
「ケイのストーカー?」
本条の問いに永田は静かに頷いた。
「この間、ケイ君雑誌に載っただろ?それを見てケイ君の事調べて…ケイ君と仲良くしているアキちゃんの事を知って犯行に及んだそうだ。羨ましかったそうだ」
「その事はケイには?」
「まだ言ってない。言わない方がいいかな?」
本条も永田も小さく頷いた。
「―――その女はまだ警察にいるの?」
アキの病室にいるはずのケイが2人の後ろに立っていた。
「ケイ君…」
永田は眉をひそめ、呟くように言った。
「教えてよ、おじさん。その浜田って女はまだ警察にいるんだよね?今からその女に会わせてよ」
「落ち着け、ケイ」
本条はそう言うと、ケイの肩に手を置いた。ケイはその手を払った。
「落ち着け?…これが落ち着いていられるのか?…こんな…」
「ケイ君!とにかく今はまだ会えない。取り調べ中なんだ。それに君がその子に会ってどうする?一発殴るのか?そんな事してみろ、傷害罪で逮捕されるぞ」
ケイは永田を睨んだ。永田はケイのその険しい目つきに息を呑んだ。
「一発殴るだけで済むかよ」
「ケイ!そんな事したらアキちゃんが悲しむだけだぞ。分かるだろ!?」
「じゃぁ、どうしろって言うんだよ!何でこんな事ばっかりあるんだよ!!アキは何も悪くないのに…何でアキばっかりこんな目に合うんだ!!」
ケイは長椅子を蹴り飛ばした。「くそっっ!!…」
「ケイ…とにかく今はアキちゃんのそばにいてやれ」
本条の言葉にケイは唇を噛んだまま、黙り込んだ。
気が付くと、私は病院のベッドの上だった。
ゆっくりと…何が起こったのか考えていた。考えながら…両手でお腹をさすっていた。
「…アキ…」
ケイ君がベッドの足元にあった椅子に座っていた。ケイ君は椅子ごと移動し、私の横に来て腰を下ろした。
「ケイ君…私…」
「うん…」
ケイ君は呟くように言うと、私の手を握った。
私は―――私の中に、もう…赤ちゃんがいない事を感じた。
涙は流れてこなかった。悲しかったけど……心のどこかで、こうなる事は分かっていた…ような気がした。
私は…“その資格”が無かったのだ。
神様は、私に“その資格”を与えてはくれなかったのだ。
私に与えられたのは、ケイ君のそばにいて、ケイ君を見守る事なのだ。
あの“手帳”に書いてあった通り、私が唯一ケイ君のために出来る事はそれなんだ。
私は目を閉じ、大きく息を吐いた。
「事故の後遺症の事も…黙ってたんだ…」
ケイ君がうつむきながら言った。
「…うん、そんな大した事なかったから…」
私はそう言いながら笑った。笑っていた。
「…大した事ないなら言わないのか?アキ…」
ケイ君の瞳が悲しそうに…辛そうに…小さく揺れていた。
私達はしばらくの間、黙り込んでいた。ケイ君は私の心を読むかのように…長い間私の事を見つめていた。
アキの心が読めればどんなにいいか……僕はいつもそんな事ばかり考えていた。他の人間の考え何て分からなくていいから……アキの本心だけがどうしても知りたかった。知りたくて仕方無かった。
アキが僕に何か隠し事をしている事は分かっていた。それがどんな事でも…そんな事どうでもよかった。たぶん、僕がアキに隠している―――これからも永遠に隠し続けるつもりの事よりかはマシだと思っていた。万が一、僕の隠し事と同じくらいショッキングな事でも…僕には関係なかった。
アキがずっと僕のそばにいて、僕と共に生きてくれるのなら、そんな事どうでもよかった。
ただ、僕が怖いのは……アキの沈黙だった。
今何を考えているのか?何を犠牲にしようとしているのか?
きっとアキは今、深く深く悩み込んでいるに違いなかった。
その悩みの答えを出さずに、頑丈な箱に閉まって、鍵を掛けて火を付けて燃やしてほしかった。
そして何も考えずに僕との未来を見つめてほしかった。
そのためなら僕はどんな事でもするつもりだった。
でも―――僕の願いは、やはり叶いそうにない。
浜田綾乃が自殺した。
アキを突き飛ばしてから約1か月後の事だった。アキとの和解が成立し、事件もそんな大きくならず、なんとかこのまま平穏に事が運ぶと安堵していた矢先だった。浜田綾乃は自宅の風呂場で手首を切って、死んでしまった。
アキに知られないように、僕はありとあらゆる手を尽くした。でも、そんな事最初から無理だったのだ。浜田綾乃の死亡記事は、新聞のお悔やみ欄に小さく掲載されていた。
アキはひどく動揺していた。
僕はアキを落ち着かせようと必死だった。必死になればなるほどすべてが空回りする。
そして、アキはついに答えを出した。
「そんな事…出来ないよ。アキ…」
僕は苛立ちを必死に抑えながら言った。アキはうつむいたまま、口をギュッと閉じていた。
「その浜田って人の1周忌が終わるまで僕に待ってろって言うのか?」
アキは静かに首を横に振った。僕はたった今自分で言った言葉を取り消したくなった。
「待っててなんて…そんな事言わないよ。私にはそんな資格無いから」
「…資格がない?何言ってるんだ?…アキ…何でアキがそんなに責任を感じるんだ?悪いのはあっちじゃないか!」
僕の声が荒くなった。
アキは意を決したように顔を上げ、僕を見た。
「誰かの不幸の上にある幸せなんて…そんなのないわ…」
アキの言葉に僕は言葉を詰まらせた。
「私は…ケイ君のそばにいれるだけで幸せなの。それだけで十分なの」
「だったらそうしよう!アキ!ずっと一緒に…」
アキは首を振った。
「私はケイ君を見守るだけで十分なの。結婚とかじゃなくて…今までみたいに私は家政婦としてケイ君や本条先生のそばにいるわ…」
アキの言葉に僕は愕然とした。
「なっ何言ってるんだ!?意味が分からないよ?」
本当にワケが分からなかった。アキが何をどうしたいのか…
「自分がどんな非常識な事言ってるのか…分かってる。でも、私にはそうする事しか……」
アキの瞳が大きく揺れていた。
「…そんな…そんな事出来るワケないじゃないか…」
僕はだんだん頭が痛くなってきた。アキは苦渋の表情を浮かべていた。
「…そうよね…ごめんなさい…調子のいい事言ったわ…本当にごめんなさい…」
アキの顔色が青ざめていくのが分かった。
僕はハッとした。今のアキの思いを、僕が拒否したら―――アキは屋敷を出て行く。きっとそうするに違いない。僕はそのもっとも最悪な状況にはさせたくなかった。
今日はアキの28回目の誕生日を2人で祝おうと思ってレストランを予約し、その店に来ていた。
店内の中央にはでっかいツリーが飾られ、BGMは定番のクリスマスソングのクラシックバージョンが静かに流れていた。店内の雰囲気はクリスマス一色だった。
僕達の前には冷めきったメインディッシュが無意味にそこにあった。何度か店員が様子を見に来ては、顔をしかめ立ち去って行った。
「―――出よう」
そう言ったのは僕の方からだった。店員が「デザートは…どうなさいますか?」と聞いてきたが断って、全額支払って店を後にした。
近くでタクシーを拾い、乗り込んだ。
タクシーの中でアキは
「…ケイ君、ごめん…せっかく予約してくれたのに…」
と、申し訳なさそうに言った。
「…うん」
と、僕は答えた。それ以外言葉が出てこなかった。
タクシーを途中で降りて、屋敷まで歩いた。夜8時はすでに過ぎていた。真っ黒い夜空から、白い雪がちらちらと降っていた。
僕の後ろを歩くアキは、寒そうにコートのポケットに手を入れていた。
「……アキ…」僕は込み上げる想いを抑えながら言った。「…とりあえず…アキの気持ちが落ち着くまで……待つから…」
僕にはそう言うしか他に手が無かった。
「…ケイ君、私は…」
「何度も言うけど、僕はアキ以外の女とは結婚なんてしないんだよ。アキが僕と結婚してくれないなら僕はずっと結婚なんてしなくていいんだ」
僕は振り向いて、アキを見た。アキは戸惑ったように僕から目線を逸らした。
「…僕の事、嫌いか?」
僕の問いに、アキは慌てたように首を振った。
「じゃぁ、待ってても問題ないね」
僕はそう言って、笑ってみた。笑えているかどうかかなり疑問だったけど…
アキはほとんど笑わず、唇を結んだままだった。今にもこぼれそうなほど、瞳に涙をためて……
泣きたいのは僕の方だった。
やっと、やっとアキを自分のモノに出来ると思っていたのに―――。
僕の“出生の秘密”を知れば、いくらアキでも怯えるだろう。僕を軽蔑の眼で見るだろう。
アキに嫌われる事は、僕にとって<死>と同じ意味になる。
その日の夜、僕はアキを抱いた。
アキは僕を拒まなかった。何も言わずに、何も抵抗せずに、大人しく僕に従ったような感じだった。
そんな心の通っていないセックスほど苦痛なモノはないと、僕は痛感した。
それでも……
それでも僕は、アキの温もりに包まれていたかった―――――……