Medicine for miracles〜<奇跡の薬>〜3
君のために僕は詠う。
Medicine for miracles
〜<奇跡の薬>〜 3
大学の正門の近くでは学生達の人だかりが出来ていた。ケイはその人だかりを避けるように門を潜った。
「ケイ君!」
その声にケイはげんなりした様子で振り向いた。比奈子は自分に寄って来た学生達を笑顔で交わしながらケイに歩み寄った。
「久し振り!ケイ君!」
比奈子は満面の笑みで言った。ケイは眉間にしわを寄せたまま、比奈子を睨んだ。
「―――なんなんだ、あんた」
ケイの怪訝そうな表情を見て、比奈子はクスクスと笑い出した。
「もう!またそんな顔して!」
学生達はそんな2人のやり取りを興味津々で見つめていた。
比奈子はいきなりケイの腕を掴み、「迎えに来たの!」と言って正門の前に停めておいたBMWの所まで力強く引っ張った。
ケイはムッとし、その手を振り離した。
「いい加減にしろよ!しつこいぞ!」
ケイの声に、比奈子は一瞬怯んだ。が、すぐ笑顔を浮かべた。
「取材に協力してくれたお礼を言いに来たの。今晩発刊記念パーティーやるのよ。スタッフやモデル仲間だけの小さなパーティーなんだけどケイ君も参加してくれない?編集長も君にお礼を言いたいんだって」
比奈子の言葉にケイは少し顔を緩めた。
「なんだ…それなら最初にそう言えばいいじゃん」
「ごめんね!じゃぁ、行こう!すぐそこに車停めてあるの」
「行くワケないだろう」
ケイの言葉に比奈子は面食った。
「なんで?」
「なんでって…なんで僕が行かないといけないんだ。面倒臭い」
ケイのはっきりしたモノ言いに、比奈子は言葉を詰まらせた。
「礼はいいから、もう僕には関わるなよ」
そう言うとケイは、集まっていた学生達の間をかき分けるように歩いて行った。
その場の空気がざわざわと騒いでいた。比奈子はハッと我に返り、自分が“違う意味で”学生達の注目の的になっている事に気付いた。
比奈子は急に恥ずかしさが込み上げ、慌ててBMWに乗り込んだ。
「―――これは、企業の紹介か?本条の紹介か?」
重たそうに雑誌を持ち上げ、顔に近付け、しげしげと見入っていた中島君は言った。私と麻衣子ちゃんは思わず吹き出した。
「サプリメントの紹介を本条君がしてるのよ!」
麻衣子ちゃんの言葉に中島君は納得いかない様子で首を傾げた。
「しかし…本条のアップ多くねぇか?この会社の奴なんかこんな小さいぞ!」
「…確かにそうだけど…仕方無いじゃない!モデルはあの本条君なんだから!」
2人のやり取りを微笑ましく思いながら、私はテーブルの上にアイスコーヒーとチーズケーキを並べた。
「わぁ!チーズケーキだ!アキさんのチーズケーキ絶品だよね!」
「そお?ありがとう」
麻衣子ちゃんの言葉に私は照れながら、頭を掻いた。
「いただきます!」
中島君はそう言うと、あっという間にチーズケーキをたいらげた。
「もう!中島君!もう少し味わって食べなさいよ!」
「まだおかわりありますよね?アキさん!」
中島君の言葉に、私は笑いながら頷いた。
「ただいま!!」
ケイ君が勢いよく帰って来た。
「あれ?ケイ君、どうしたの?」
「何が?」
私の言葉にケイ君はキョトンとし、居間でいつものように寛いでいた中島君と麻衣子ちゃんを見て、眉をひそめた。
「よっ!おかえり!本条!」
「お邪魔してるよ、本条君!」
中島君と麻衣子ちゃんはにこにこしながらアイスコーヒーを飲んでいた。そんな2人を見て、ケイ君は肩を落とした。
「ケイ君、比奈子ちゃん来なかった?」
「え?…あぁ、来たよ」
ケイ君の素気ない答えに、私は一瞬戸惑った。
「行かなかったの?パーティー」
「あぁ…」と言いながら、ケイ君は眉間にしわを寄せ「行かないよ」と、言った。
私は比奈子ちゃんの心境を考え、少し胸が痛んだ。
「おい!本条、見たぞ!お前よくこんなの引き受けたな?」
「あ?…仕方無いだろ。そうせざるを得なかったんだ」と、言うとケイ君は私の方を見た。私は居た堪れなくなり、台所へと急いだ。
今日は本条先生の帰りが遅い事もあり、中島君と麻衣子ちゃんは私の勧めで夕飯を食べて帰って行った。
2人が帰って、後片付けを済ませ、私は居間のソファに腰を下ろし、また雑誌のケイ君のページを開いた。
お風呂から上がったばかりのケイ君は、真剣な面持ちで雑誌を見ている私の後ろに無理やり身体を沈め、私の肩に顔を乗せた。
「そんなに面白い?それ?」
ケイ君は不思議そうに聞いてきた。
「うん…」私はそう言いながらページをめくった。
何度見ても、そこにいるケイ君は…本当に綺麗だった。
チラッとケイ君の顔を見て、また雑誌に目を落とした。本人よりも少し大人びて写っているケイ君の表情は、本当にカッコ良かった。
「我が家の家宝になるよ」
私の言葉にケイ君は驚いたようだった。大きい目をさらに大きくさせて私の顔を覗き込んだ。
「そんなのが家宝になるの?」
「うん…ならない?」
私は恥ずかしくなり、顔を背けた。
「自分達の子供にでも見せるの?」
ケイ君の言葉に、私は「うん」と頷いた。
パパの若い時だよ。今と変わらず綺麗でしょ?―――なんて、私は子供に言うに違いなかった。
ケイ君がいきなり私を抱きしめてきた。
「どっどうしたの?…」
私の言葉にケイ君はすぐに答えなかった。
「…うん」
そう一言言っただけで、しばらくの間そのまま私を抱きしめていた。
比奈子ちゃんの言っていた通り、雑誌の特別号は飛ぶように売れた。どの書店でも“売り切れ”の札が立ててあった。
そして、研究所にはたくさんの出版社関係の人達が連日押し寄せた。
目的は<ケイ君>だった。
その雑誌の影響力は凄まじかった。編集部には読者から問い合わせが殺到しているらしく、大変な騒ぎになっていた。
比奈子ちゃんもあの赤いBMWに乗って屋敷に何度か来たけど、ケイ君は話所か比奈子ちゃんの顔さえ見ようとしなかった。
○○製薬のサプリメントもうなぎ上りに売れ、広報部の人達はもちろん、幹部職員も対応に追われ、社長は嬉しい悲鳴を上げた―――そうだ。
挙句、次の取材の話まで持ち上がり、ケイ君のイライラはピークに達していた。私は……どうする事も出来ず、落ち込むばかりだった。
そんな状況を見兼ね、外尾先生が動いた。外尾先生は社長や重役に
「このままでは、私達の仕事にまで影響する!本条君は病で苦しむ患者のために、新薬の開発に従事出来るように、この研究所へ入社するのだ。宣伝は担当の職員がいるだろう?なぜ君達は自分達の仕事も全うしない?そんな信念で誰が救える?私のこの意見に賛同出来ないのであれば、私はこの研究所を去らなければならない」
世界的に有名な外尾謙三郎先生の言葉の効果は絶大だった。所内の全研究員が一丸となり、会社のやり方に抗議する事態にまで発展した。
さすがの社長も外尾先生を敵に回す事は出来ず、この一連の騒動はその日の社内朝礼の
「…全従業員が一丸となって世界中の苦しむ民のために、今まで通り我社の理念の下、信念を持って……」
と、言う長いスピーチと共に沈静していったそうだ。
「本当に…すいませんでした…」
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ケイ君や本条先生や外尾先生に頭を下げた。ケイ君は慌てて私の頭を撫でた。
「アキは何も悪くないよ!」
ケイ君は今にも泣き出しそうな私を必死で慰めてくれた。
「そうだよ、アキちゃんは悪くないよ。悪いのは俺の方だよ」本条先生は神妙な面持ちで言った。「俺があんな簡単にケイに言わなければよかったんだ」
「いやいや、それを言うなら私にも責任がある。広報部から言われた時、何も考えずに許可したのだから」
外尾先生まで苦渋の表情を浮かべた。
「だって私が比奈子ちゃんを連れて来なければ先生だって頼まれなくて済んだんですから…」
私はそう言いながら、自分の考えの浅さにうんざりしていた。
「もう、片付いたんだからいいじゃん!」
ケイ君の明るい言葉に、その場がようやく和んだ。
「そうだな。…しかし、たかが女性雑誌と甘く見ていたが…こんなに影響力があるとは思わなかったよ。今の若い人達は随分簡単な基準でサプリメントを選ぶんだな」
外尾先生は感慨深げに言った。
「だから宣伝に起用するタレント選びは重要なんでしょうね」
「なるほど、なるほど」本条先生の言葉に外尾先生は唸るように言った。
私は屋敷まで来てくれた外尾先生のために、レモンケーキを焼いていた。アイスティーと一緒にそのレモンケーキをテーブルに並べた。
「ほう〜…これは旨そうだ。私は甘いのに目がなくてね」
そう言いながら、外尾先生はレモンケーキを小さく切り、口へ運んだ。
「美味しいでしょ?アキの作るケーキは甘さ控え目で食べやすいんだ」
「おぉ!なるほど、なるほど。これは旨い!とても上品な甘さだ。レモンの酸味も爽やかだね。しかもこのアイスティーと良く合う」
ケイ君の言葉に、外尾先生は目を細めながら答えた。そして、またケーキを口へ運んだ。
「先生、良かったら夕飯も召し上がって行って下さい。いいよね?アキちゃん」
「はい!…あの、そんな期待に添えられるか分かりませんけど…外尾先生がよろしければ…」
本条先生の言葉に、私は慌てて言った。外尾先生は優しく微笑んだ。
「それじゃぁ、お言葉に甘える事にしよう」
そんなこんなでバタバタしてしまい、気が付けばもう9月の中頃で、夜も大分肌寒くなってきた。
あんまり忙しなく時が流れていたので、私は自分の体調の変化に気付くのが遅くなった。
2年前の交通事故以来、腰痛が後遺症として残っていた。腰痛といってもそんなにはひどくないのだけれど……天気が悪い時に少し軋むような鈍痛がある事と、生理中に少し痺れるような痛みがある事ぐらいだった。生理も少し不順気味で婦人科に通院していた。
この事はケイ君にはもちろん、本条先生や清子さんにも話してなかった。(心配されるのが嫌だった)
その婦人科の通院もおろそかになっていた。気付いた時には2か月生理がきてなかった。いつもより腰の痛みも強かった。
―――いつもの腰痛だろう…。
私はそう思い、“Jun−Cafe”での仕事終えて、その足で産婦人科へと行った。
待合室の椅子に座っていると、いつものように看護師さんから名前を呼ばれ、診察室へと入った。
「久し振りですね。どうですか?腰痛は?」
「はい、少し痛くて…それとまた生理止まっちゃって…」
「あら、そう。そしたらとりあえずおしっこ取って来てね」
看護師さんに言われた通り尿を取り、トイレの壁際にある専用の扉を開けて、尿の入った紙コップをそこに置いて扉を閉めた。
しばらくの間、診察室の前にある長椅子で待っていると、看護師さんから名前を呼ばれた。私は診察室に入り、先生の前にある椅子に腰を下ろした。
先生は少しカルテを眺め、私を見て微笑んだ。
「ご懐妊ですよ」
先生はそう言うとまた微笑んでいた。
私は―――黙っていた。
本当にすぐ言葉が出てこなかった。なんで出てこないのか分らなかったけど…とにかく、頭が空っぽになっていた。
「松田さん?」
先生の言葉に、私はハッとした。
「どうしました?大丈夫ですか?」
「…あっ…はい…」
私はようやく胸の奥から熱いモノが込み上げてきた。
「松田さんは…まだ結婚はされてなかったですよね?」
先生は少し言いにくそうに、頭を掻きながら言った。
「はい…」
私は恥ずかしくなり、うつむいた。
「相手の方とよく話をして下さいね」
先生はそう言うと、あとは簡単にこれからの事を話してくれた。私はせっかく先生が話してくれたその話のほとんどが頭に入ってなかった。
半分放心状態のまま、待合室の椅子に腰を下ろした。
―――子供…子供…私と……ケイ君の赤ちゃん……
私は少しずつ震えが治まってきた手で、徐にお腹を触った。もう27歳だ。子供がいったっておかしくはない。おかしくはない。
何なんだろう?この感情は…?嬉しいとか…驚きとか…そんなのとはまた違う感情が私の心の中で動いていた。
―――ケイ君の子供…。そう、あのケイ君の子供なんだ。
「―――アキちゃん!?」
その声に、私の身体がビクっと大きく動いた。
「アキちゃん!どうしたの?こんなとこで」
そこには花束を抱えた翔子ちゃんが立っていた。
「翔子ちゃん…」
私は言葉を詰まらせた。翔子ちゃんは不思議そうに私を見ていた。
「…ここに会社の先輩が入院してるのよ。一昨日赤ちゃん生まれたんだって。そのお祝いに来たのよ」
あんまり私が黙り込んでいたので、翔子ちゃんは気を遣って先に話してくれた。
「…松田さん!」
さっきの看護師さんが近寄って来た。
「今度来る時は、母子手帳忘れずにね」
看護師さんはそう言うと、その場から足早に去って行った。
また放心状態に戻った私を、翔子ちゃんは目を丸くして見つめた。
「…アキちゃん…赤ちゃん出来たの?」
翔子ちゃんは、そんなに躊躇わずに訊いてきた。
翔子ちゃんは、私を病院の近くにある喫茶店へと誘ってくれた。その喫茶店はとても落ち着いた雰囲気のお店で、店内のBGMにはジャズが流れていた。
客も1人しかおらず、しかもカウンターテーブルで真剣に文庫本を読み耽っている感じだった。
「ホットカフェオレ、2つ」
翔子ちゃんは店員さんに私の分まで注文してくれた。
しばらくしてさっきと同じ店員さんがホットカフェオレを運んできた。2つの白いコロンとしたデザインのカップに並々と注がれた湯気の立つカフェオレを、私はフーフーと冷ましながら一口飲んだ。
少し、気持ちが落ち着いてきた。
「大丈夫?アキちゃん」
翔子ちゃんは微笑みながら私を見ていた。
「…ごっごめんね…」
私の言葉に、翔子ちゃんは首を振った。
「何で謝るのよ!他人行儀ね」
そう言うと翔子ちゃんはふふふっと笑った。私も笑った。
「―――アキちゃん、結婚するの?」
カップのカフェオレを飲み干すと、堪らず翔子ちゃんが聞いてきた。
「…うん…そうなんだ」
私は恥ずかしかったが、翔子ちゃんなら教えてもいいと思い、そう言った。
「へぇ…そうなんだ。おめでとう…」
思ってたより…翔子ちゃんの反応は何故か暗かった。
「…ごめんね、今まで黙ってて…」
「そうよ!友達だと思ってたのに!ひどいよ!」
やっといつもの翔子ちゃんらしい口調に、私はホッとした。
「誰?相手は誰よ?教えてよ!」
「え…へへへ…」
私は自分の頬が熱くなっている事に気付き、うつむいた。
「―――当ててやろうか?」
翔子ちゃんのその言葉に、私は驚いた。
「…え?気付いてたの?」
「うん…私じゃなくて比奈ちゃんがだけどね」
―――比奈子ちゃんか…私は少し気持ちが重くなった。
「本条先生でしょ?」
「え?」
「当たり?」
翔子ちゃんは笑いながら言った。私は言葉が出てこなかった。ポカンとしたままの私を見て、翔子ちゃんは眉間にしわを寄せた。
「…違うの?」翔子ちゃんは顔をしかめたまま、私を見た。「…え?じゃぁ…誰?」
私はすごい勢いで考えていた。何で本条先生?何で比奈子ちゃんがそう思ったの?2人で一体何を話してたの?
「…えぇ…?誰?…伊藤君?…は、違うか…日本にいないもんね。…わっ分んないよ…誰なの?アキちゃん!」
翔子ちゃんの言葉がだんだん強くなっていた。私は言いようのない不安に襲われていた。
「……まさか…まさかね…そんな…」
翔子ちゃんは口を手で押さえながらしきりに考えていた。
「…相手はケイ君よ」
やっと口から出た私の言葉に、翔子ちゃんは眉をひそめた。
「…うっそ…」翔子ちゃんはそう言うと慌てて口を閉じた。「…ごめん」
私は心の奥がス――…と冷めていくのを感じた。
私は翔子ちゃんと比奈子ちゃんが私の事をどんな風に思っているのか…少し分かったような気がした。
「…そっそうなんだ…すごい驚いた!相手があの本条ケイ君なんて…5か6つ離れてるよね?」
「うん…6つね」
「そうか…いや…すごいじゃん!あんなカッコ良い子と結婚出来るなんて!」
翔子ちゃんは驚きを隠しきれない様子で、目が泳いでいた。
「まだ、誰にも言わないでね」
「え?」
「だって…まだ本人にも言ってないのに…だから比奈子ちゃんにも言わないでね、翔子ちゃん」
私の言葉に翔子ちゃんはしばらく黙っていた。そして、フッと笑った。
「分ったよ。誰にも言わないから」
私はその言葉を聞いて、ホッとした。ホッとしようとした。
でも、どこかで分かっていた。裏切られる時のショックの大きさを―――
でも…信じたかった。翔子ちゃんだけは信じたかった。
だって―――私達は大の親友なのだから……
「―――アキ…大変な事になった…」
研究所に寄って帰って来たケイ君は、台所で夕飯の準備をしていた私にいきなり言った。
「わっ…おかえり!どうしたの?…」
ケイ君はお茶碗を持ったままの私に抱きついてきた。
「なっ何!?」
離れようとする私の身体をさらに強く抱きしめながら、ケイ君は大きくため息を吐いた。
「明日から3日間…家に帰れない」
「は?」
「明日から水・木・金って外尾先生の講演会の手伝いに泊まりで行かないといけなくなった…」
「…ケイ君が?」
「うん…行く予定だった宮崎さんが風邪でダウンしちゃったんだって…で…他に都合付く人いないらしくて……勉強にもなるからって…」
ケイ君は悲しそうにそう言うと、またため息を吐いた。
私は仏頂面のケイ君を横目に、大きめのボストンバックにケイ君のシャツやタオルなどを詰めた。
「アキは寂しくないの?」
ケイ君は不満げに聞いてきた。
「寂しくないよ。たった3日間でしょ?正式に入社したらこんな事たくさんあるかもだし…仕事なんだから仕方無いよ!」
私の言葉に、ケイ君はがっくりとうな垂れていた。
私は内心、ホッとしていた。この3日間で気持ちを整理しようと考えていた。もし、今ケイ君に赤ちゃんの事言ったら絶対行かないって言うだろうし…
でも結局、私の気持ちは落ち着く所か…さらにどろどろとした闇の中に突き落とされる事になる――――――
ケイ君がいない間、本条先生に言おうかどうか悩んで、結局言えなかった。金曜日の夜にケイ君は帰って来たけど…何故か言えなかった。
自分がどれだけひどい事をケイ君にしているか……分かってはいたけど……ケイ君を前にすると、言葉が出てこなかった。
だんだん自分でも何をしているのか、何をしたいのか、分からなくなっていた。
腰の痛みは、海の波のようにひどく痛んだり、またス―っと引いたり…その繰り返しだった。
時間ばかりが過ぎてしまい、気付けば病院に行ってから10日は経っていた。
「アキちゃん、お客さんよ」
“Jun−Cafe”の店長、谷口純子さんから言われ、私は厨房から店内を覗いた。店のレジの横に会社の制服姿の翔子ちゃんが立っていた。翔子ちゃんは私に気付くと、軽く手を振った。
「ごめんね、仕事中に」
「いいよ。どうかした?」私は店内の1番奥の席に翔子ちゃんを案内した。「何か飲む?」私の言葉に、翔子ちゃんは首を横に振った。
「ううん、いいよ。ねぇ、アキちゃん明日の土曜日用事ある?」
「明日?明日も3時ぐらいまでは店にいるけど…どうして?」
「うん。比奈子ちゃんがね、明日のスタジオ撮影見に来てって言われたの。来月△△に新しいショップ出来るそうなんだけどそのショップの店長さんがたくさん洋服持って来るんだって!気に入ったの安くで買えるらしいんだ!一緒に行かない?」
「いや…私はいいかな…」
「どうして?行こうよ!こんな機会滅多にないよ!比奈子ちゃんもアキちゃん来るの楽しみにしてるって言ってたし…ね?」
翔子ちゃんは屈託のない笑顔で言った。私は翔子ちゃんのそんな笑顔を久し振りに見たような気がしてなんだか嬉しくなった。
「…そしたら、もう1人誘ってもいい?」
「もちろん!じゃぁ、明日3時頃ここに迎えに来るから!」
そう言うと、翔子ちゃんは笑顔で店を出て行った。
―――もしかしたら…私の考え過ぎだったかもしれない…
私は少し気持ちが穏やかになった。仕事が終わったら、麻衣子ちゃんに連絡してみようと考えていた。
次の日の土曜日。翔子ちゃんは約束通り、3時には店に来ていた。麻衣子ちゃんも時間通りに来て、3人で比奈子ちゃんのいるスタジオのあるビルまで歩いた。
スタジオの中は思っていた以上に暗かった。私達はスタジオの隅で、比奈子ちゃんや他のモデルの人達の撮影を見学出来た。麻衣子ちゃんはもちろん、翔子ちゃんも瞳をキラキラさせながら見入っていた。
それにしても…比奈子ちゃんもその他のモデルさんもとにかく細く高かった。(身長が…)そばで見るとかなりの迫力があった。
麻衣子ちゃんがトイレに行くと言ったので、私も翔子ちゃんも一緒に行く事にした。ちょうど3つ空いていたので3人同時に入った。私達がトイレに入って直ぐに、スタジオのスタッフの人達が入って来た。
「なんだ!いっぱいじゃん!」
「下の階に行く?」
「いいよ。待ってる」
そんなやり取りの声が響いた。
「ねぇ、今日さ“例の女”来てるんだってよ!」
「うっそ!マジで!?」
スタッフの人って随分若いんだなぁ〜と思いながら、私は便座から腰を上げた。
「あのイケメン君の相手なんでしょ?」
「そうらしいわよ。顔見た?」
「見た見た!信じらんないくらい地味だったよ!すごいちっちゃいし!」
「今お腹の中に子供いるんだってよ!」
「マジで!?あのケイって子の子供!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
「そうよ!比奈子言ってたもん。…しかしさぁ〜なんで相手があんな地味な女なワケ?」
「知らないわよ。…もしかしてさ、ちょっと魔が差しちゃったんじゃない?その1回の“魔”がヒットしちゃったんじゃない?」
「それ、可哀そう!ケイって子に同情しちゃう!」
「その女はかなりラッキーよね!」
「そうよね!意外にそれが狙いだったりして〜」
「それって最悪…」
トイレのドアが勢いよく開いた。私はハッとして慌てて水を流し、ドアを開けた。
麻衣子ちゃんが…あの可愛い麻衣子ちゃんの顔がひどく強張っていた。
「あなた達…最低よ…」麻衣子ちゃんは身体を震わせながら言った。「最低の人間よ!!」
「麻衣子ちゃん!」
私はそのスタッフの女性に今にも飛び掛かりそうな勢いの麻衣子ちゃんを慌てて止めた。
「アっアキさん!!駄目よ!こんな人達、最低よ!!」
「いいのよ!麻衣子ちゃん!」
私はそう言うと麻衣子ちゃんの手を引いてトイレを出た。トイレの入り口で勢いよく人とぶつかり、後ろに倒れそうになった。
「ごっごめんなさ…」
そこに立っていたのは比奈子ちゃんだった。比奈子ちゃんはスタッフの女性達と目を合わせ、私を見下ろした。
「どうしたの?アキちゃん?」
比奈子ちゃんの口元が少し笑っているように見えた。私は何も言わず、麻衣子ちゃんの手を引いて駆け出した。
私達はそのままビルを出て、隣接しているデパートのトイレに駆け込んだ。
「ごっごめんね!麻衣子ちゃん!私、手洗ってない!」
そう言いながら、私は出来る限り笑顔で手を洗った。蛇口から勢いよく出る水は思っていたより冷たかった。麻衣子ちゃんはしばらく黙って私を見つめていたけど、私と同じように手を洗い出した。
「ごめんね〜麻衣子ちゃん。嫌な思いさせて…」
私はハンカチで手を拭きながら言った。出来る限りの笑顔で…
麻衣子ちゃんの大きな瞳が揺れていた。悔しそうに…唇をしっかり結んでいた。
「…アキさん…」
「お願い…」私は震える声を振り絞って言った。「ケイ君には…言わないで…」
私はそのまま顔を上げる事が出来なくなった。麻衣子ちゃんがどんな表情で私を見つめているか……分からなかった。分かりたくなかった。
今は込み上げる涙を堪えるのでいっぱいだった。
あんな風に言われるのは慣れていた。本当に慣れていた。今まで散々言われてきたんだ。多少はショックだったけど…それよりも…なによりも…
翔子ちゃんに裏切られたのは耐え難かった。
大学の図書館のパソコンの前で、学生達が就職サイトを真剣な面持ちで見つめていた。
図書館の隅の方に置かれた5脚のアームチェアの1脚に、長い脚を伸ばした姿勢で座り、ケイは分厚い書籍のページをゆっくりめくっていた。
ケイは自分の足元にある黒のエナメルのパンプスを履いた細い脚に気付いた。
徐に顔を上げ、麻衣子の顔を見つめた。
「…どうした?」
いつもと様子の違う麻衣子の表情に、ケイは何かを感じた。
麻衣子はしばらく黙ったまま、その場に突っ立っていた。ケイは書籍を閉じ、身体をチェアから起こした。
ちょうど麻衣子を探して中島も図書館に入って来た。中島は麻衣子やケイに気付き、笑顔で近寄った。
「…?どうした?そんな怖い顔して…麻衣子ちゃん?本条?」
ケイは苦渋の表情の麻衣子を見つめた。
「何があった?有尾…」
ケイの言葉に、麻衣子の大きな瞳から涙がこぼれた。中島は驚いて2人を交互に見た。
「何!?どうしたんだ?」
「アキさんが……」
麻衣子の言葉に、ケイは顔色を変えた。
「アキがどうした!?」
激しく揺れる麻衣子の“心”にケイは神経を集中させた。
「…アキさん、お腹の中に赤ちゃんいるの」