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Medicine for miracles〜<奇跡の薬>〜2

君のために僕は詠う。

Medicine for miracles

 〜<奇跡の薬>〜 2




「ふぅん…」

 女医である空閑清子は口を小さく尖らせ、息を吐いた。白衣の裾を気にしながら診察室の椅子に腰を下ろし、ケイの検査結果を見つめた。

「特に問題はないだろう?」

「…そうね、血液中の細胞の活動もとても穏やかね。脳も異常ないし…何にも問題はないわ」

 ケイの言葉に清子は微笑みながら答えた。ケイはホッと安心したようにため息を吐いた。

「こんなに問題ないとなんだかつまらないわ」

「は?」清子の言葉にケイは眉間にしわを寄せた。「なんだよ、それ」

「だって…せっかくケイ君の身体の研究許してもらったのに、この2年間何にも変化ないんだもん。面白くないわ」

「…ひどい医者だ」

 そう言うとケイは苦笑した。

「最後に2、3質問するから正直に答えてよ」

「分ってるよ」

 清子はフフっと笑いながらペンを握った。頭痛や筋肉痛はあるか?ストレスは感じているか?そう言う質問にケイは淡々と答えた。

「…最後に…セックスは?今月何回ぐらいした?」

「…その質問は本当に意味があるのか?」

 ケイは怪訝そうに清子を見た。

「あるわよ!とっても大事な事なの!ケイ君も分かってるでしょ?」

 清子の言葉にケイは大きく息を吐いた。

「…1回」

 ケイの言葉に清子は目を丸くした。

「1回!?それだけ?」

「医者らしい反応しろよ」

 ケイはムッとしたように顔を歪ませた。清子は「あぁ…」と言いながら問診票にメモった。

「…しかし…1回はキツくない?大丈夫なの?」

「何が?」

「最近回数減ってない?アキちゃんとうまくいってないの?」清子はそう言いながらペンと問診票を机の上に置いた。「医者として聞いてるんじゃなくて、あなたの友人として訊いてるのよ」

「友人としてね…」

 ケイは無表情でそう言いながら、組んでいた脚を組み直した。清子はそんなケイを見つめた。

「…卒業したらすぐ籍入れるんでしょ?」

「うん…」

 うつむき加減で言うケイを見ながら、清子は微笑んだ。

「女は土壇場になって色々考え込む生き物だから、さっさと話し進めた方がいいわよ」

 清子の言葉にケイは顔を上げ、清子を見つめた。清子はくすくすと笑い出した。

「そんな不安そうな顔して!本当にアキちゃんに夢中なのね」

 ケイは憮然とした表情のまま、椅子から腰を上げた。

「また来月ね」

 清子の声を背に受けながら、ケイは診察室を後にした。
















 比奈子ちゃんの運転する赤いBMWが本条邸の門を通り、玄関ポーチの近くに停まった。私は小さくため息を吐いて、車を降りた。

 比奈子ちゃんと翔子ちゃん(比奈子ちゃんにもう帰っていいと言われ、ショックを受けていた翔子ちゃんを私が無理に引き止めた)も車から降り、本条邸を眺めていた。

「すっごい豪邸!」

「うん…映画とかに出てくる屋敷みたい…」

 2人は感動したように、しばらく屋敷を眺めていた。

「さっどうぞ。入って」

 私の言葉に2人はハッとしたように、動き出した。


 2人を居間へと通し、私は台所へと急いだ。比奈子ちゃんも翔子ちゃんも紅茶がいいと言ったので、ティーポットに茶葉とお湯を注ぎ、ミルクと角砂糖をセットし、昨日焼いたチョコクッキーと一緒に居間へと運んだ。

「ごめんね、こんなモノしかないけど…」

「いいよ、さすがアキちゃん!なんかお店みたい!」

 翔子ちゃんは紅茶にミルクをたっぷり入れながら嬉しそうに言った。

「ねぇ、ケイ君はいつも何時頃帰って来るの?」

 部屋を見渡しながら比奈子ちゃんは言った。私はチラッと壁時計に目をやり、

「いつもはもう帰ってる時間よ。でも今日は用事済ませて来るって言ってたから…そろそろ帰って来るかな…」

 私の言葉に比奈子ちゃんは目を丸くした。

「え!?まだ6時前よ!」

「うん。サークルとかもやってないし…」

「友達と飲みに行ったりとかしないの?」

「…うん。たまに行ってるけど…本当にたまにで…どちらか言うとケイ君のお友達はよく家に遊びに来るの」

「家ってここ?」

「うん…」

 比奈子ちゃんは何だか納得いかない様子で、細く長い脚を組み、膝の上で頬杖をついた。

「アキちゃん、この紅茶美味しい!」

 感動したように翔子ちゃんが声を上げた。

「そうでしょ?このお茶“Jun−Cafe”でも出してるの。ミルクと相性良いんだよね。」私も嬉しくなり、得意げに説明した。「それでね―――」

「ねぇ!アキちゃん!」

 私の言葉を遮るように、比奈子ちゃんが言った。

「ケイ君、彼女は?どんな子?」

 比奈子ちゃんの言葉に、私は言葉を失った。さっきまで嬉しそうにミルクティーをすすっていた翔子ちゃんは“その話題”に興味を示し、私を見つめた。比奈子ちゃんの大きな瞳が微かに動いた。

 私は―――困り果てていた。なんて言ったらいいか分からず、黙り込んでいた。

「…アキちゃん?」

 比奈子ちゃんが怪訝そうに言った時、玄関のドアが開いた。

「ただいま!」

 ケイ君の元気な声が響いた。私は慌てて玄関へと急いだ。

「おかえりなさい!」

「誰か来てるの?」

 外に停まっているBMWを見たケイ君は、そう言いながら靴を脱いだ。

「…あっあのね…」

 ケイ君は私の様子を不思議そうに見ながら、居間へ行き、一気に表情を変ええた。

「こんばんは」

 比奈子ちゃんはソファから腰を上げ、優しく微笑んだ。




「―――あんたもしつこいな」

 ケイ君はかなりムッとした表情をしていた。

「私、君が引き受けてくれるまで帰らないから」

 比奈子ちゃんの言葉に、ケイ君より私の方が驚いた。

「え!?比奈ちゃん、本当に帰らないの!?」

 翔子ちゃんもかなり驚いてるようだった。

「だから、来なくていいって言ったのよ。近くにバス停あったじゃない。それで帰ってよ」

 比奈子ちゃんの素気ない言葉に、翔子ちゃんはもちろん私も言葉を詰まらせた。

「……分かった」そう言うと、翔子ちゃんは玄関へと向かった。私は慌てて後を追った。

「翔子ちゃん!よかったら夕飯食べて行かない?」

 私の言葉に翔子ちゃんは少し迷ったように黙った。しばらくして小さく首を横に振った。

「ありがとう、アキちゃん。でも今日は帰るね。ごめんね…」

「もう!何で翔子ちゃんが謝るのよ!」

 私の言葉に翔子ちゃんはフフっと笑った。

「…また今度ここに来てもいい?」

「もちろん!いつでも遊びに来てよ!」

「……うん。…今度は1人で来るから…」

 翔子ちゃんはそう言うと、申し訳なさそうにうつむいた。

「翔子ちゃん、気にしなくていいよ。こっちは大丈夫だから」

 私の言葉に翔子ちゃんは小さく頷き「…ごめんね」と言って帰って行った。



 居間ではケイ君と比奈子ちゃんが沈黙の睨み合いの最中だった。私はおずおずと台所へ行こうとした。

「…ア〜キ〜…」ケイ君の声が耳に響いた。ソファに深く座ったままのケイ君は目を細くして私を見ていた。「ご飯、まだ?」

「え?…っあっもう出来てるよ!食べる?」

「うん、食べる」

 ケイ君はそう言いながらゆっくり腰を上げ、そのまま比奈子ちゃんを見下ろした。

「私の事は気にしないで。ゆっくりご飯食べていいよ」

 比奈子ちゃんはケイ君を見上げ、にっこりと微笑んだ。

「普通、食事時には帰るのが礼儀なんじゃない?」

「さっきも言ったでしょ。君から良い返事もらうまで帰らないって」

 ケイ君はますます眉間にしわを寄せて比奈子ちゃんを見ていた。私はハラハラしながらその光景を見つめ、早く本条先生が帰って来る事を祈った。

 私の願いは簡単に叶った。

「ただいま」

 本条先生の声に私はホッと胸を撫で下ろした。

「おかえりなさい、先生」

「あれ?お客さんかい?」

 私に鞄とジャケットを渡しながら、先生は比奈子ちゃんに目をやった。比奈子ちゃんはスッと立ち上がり、丁寧にお辞儀した。

「先生、私の友人の原比奈子さんです」

 私は簡単に先生に比奈子ちゃんを紹介した。

「原比奈子です。遅くにお邪魔しまして申し訳ありません」

 さっきとは打って変わって実に礼儀正しい比奈子ちゃんに、私もケイ君も驚いた。

「いやいや、気にしなくていいよ。アキちゃんと同級かい?よかったら夕飯食べて行きなさい」

 先生は優しく微笑んだ。ケイ君は―――無表情で椅子に腰を下ろした。


 比奈子ちゃんは食事中ずっと仕事の話を先生にした。先生は穏やかにその“新入社員の企業紹介”の話を聞いていた。

 私は比奈子ちゃんという人が何だか分からなくなっていた。比奈子ちゃんが自分の仕事に一生懸命なのは分るけど…疲れているはずの、しかも初対面の先生に話を聞かせるなんて……比奈子ちゃんはケイ君を落とせないと分かったから今度は先生に頼み込もうと考えて、先生を待っていたんだ。ケイ君もその事に気付いて比奈子ちゃんを早く追い返そうとしたんだ。

 私はまた…自分のお節介で先生とケイ君に迷惑を掛けてしまった。


「…そうか…ケイ、広報部の人も困ってるんだろ?引き受けてやりなさい」

 本条先生の言葉に2階へ上がろうとしたケイ君は振り向いた。

「嫌だって。代わりはいるんだ。そいつに頼めばいいだろう」

「私は君がいいの!」比奈子ちゃんは必死に言った。「お願い、ケイ君!」

 私はなんだか居た堪れなくなり、空いた皿を持って台所へ行こうとした。

「アキちゃんはどう思う?」

 先生がいきなり私に話を振ってきた。

「兄さん、アキは関係ないだろ!」

 ケイ君は口を尖らせて言った。

「アキちゃんのお友達の頼みだぞ、ケイ。なぁ、アキちゃん」

 先生はそう言うと私を見て微笑んだ。ケイ君も私を見た。比奈子ちゃんも…なんだかまた怪訝そうに私を見つめた。

「アキは僕に引き受けてほしいワケ?」

 ケイ君の言葉に、比奈子ちゃんは不安げな表情を浮かべた。私はそんな比奈子ちゃんの視線に耐えられなくなり…

「…うん。1回だけならいいんじゃない?」

 と、言ってしまった。






 撮影は5月の初めに○○製薬研究所で行われた。まずは研究所の建物の撮影が手早く行われ、それからケイ君が所内を案内するみたいな格好での撮影が始まった。その案内を受けるのが――モデルのHINAKO。


「わぁ!すっごい人ですね!」

 ケイ君の友人でもあり、私の妹みたいな(お人形さんのように可愛い麻衣子ちゃんにとってはかなり失礼かも…)有尾麻衣子ちゃんは感嘆の声を上げた。

 今回の撮影の件で、私はかなりケイ君の“わがまま”を聞いてやらなくてはいけなかった。…いや、元はと言えば私が比奈子ちゃんを本条邸に連れて来てしまい、ケイ君が断れない環境を作ってしまったのだから仕方の無い事ではあるんだけど…

 ケイ君に今日の撮影も絶対来るように言われ、1人では行きにくかったので麻衣子ちゃんを誘ったのだ。

「ごめんね、麻衣子ちゃん。忙しかったでしょ?」

「大丈夫ですよ!本当言うとかなり息抜きしたかったんです!しかも生HINAKOが見れるなんて夢みたい!」

 温厚な麻衣子ちゃんが珍しく興奮していた。私はホッと安心した。


 公開撮影ではなかったはずなのに、どこから聞き付けたのか研究所の正面入り口にはたくさんの“野次馬”の人達がいた。

 その“野次馬”の人達から歓声が上がった。

 正面入り口に横付けされたワゴン車のドアが開き、中から比奈子ちゃんが降りてきた。麻衣子ちゃんが慌てて走り出したので、私も走った。


 比奈子ちゃんはロングウェーブの髪をハーフアップにして、初夏らしいイエローとブルーの花柄のシフォンワンピースを着ていた。丈の短いワンピースの裾からは相変わらず細く長い脚が伸びていて、イエローゴールドのサンダルがとても可憐だった。メイクも女性らしく可憐で、それでいてアイメイクは完璧なまでにキラキラ光り、大きい瞳をさらに大きく見せていた。

「キレイ!」「可愛い!」「細い!」…とにかくたくさんの褒め言葉が空中を舞った。どの言葉も比奈子ちゃんにはぴったりだった。

 私も麻衣子ちゃんも思わず見惚れた。

「キレイ…」

 麻衣子ちゃんはため息のような声をもらした。

「本当…」

 私は改めてプロとしての比奈子ちゃんに感心していた。


 どこからか…また歓声が上がった。みんな一斉に研究所の入り口に注目した。

 広報部の人達と一緒に、ケイ君が出て来た。ケイ君は研究員らしくロング丈の白衣を着ていた。白衣の中は普通のグレーのスーツ…朝見たグレーのスーツ姿―――

「誰!?誰!?超かっこいいよ!あの人!」

 “野次馬”の女性達がざわざわと騒ぎ出した。ケイ君とその広報部の人達は比奈子ちゃんとスタッフの人達に近寄って行った。お互い軽く頭を下げたりして簡単な挨拶を済ませると、ぞろぞろと所内へ入って行った。

「は〜い!すいませんが所内には入れませんので!」

 製薬会社の警備員が入口の自動ドアの前で叫んでいた。“野次馬”の人達はブーブーと文句を言い出した。

「あぁ…残念!私も中に入りたかった…」

 麻衣子ちゃんは寂しそうに言った。

「…アキちゃん!」

 小声で名前を呼ばれ、私は振り向いた。そこにはケイ君がお世話になっている先輩研究員の宮崎さんが笑顔で立っていた。

「宮崎さん!」

 私の声に宮崎さんは慌てて口の前に人差し指を立てた。「シッ!静かに!」

 私は慌てて口を手で覆った。

「本条君から頼まれたんだ。こっちにおいで。裏から中に入ろう!」

 ふっくら体型の宮崎さんはそう言うと、まるで忍者のように忍び足で駆け出した。私と麻衣子ちゃんは顔を見合わせ、慌てて宮崎さんを追い掛けた。




 私は研究所内に入るのは初めてだった。さすが製薬会社の研究所!と言いたくなるくらいお薬の香りが空気中に漂っていた。

 長い廊下を歩くと、すぐに撮影中のケイ君達に追い付いた。

「ごめんね、僕仕事あるから後は2人で適当に回ってね」

「あっはい!ありがとうございました」

 宮崎さんはふっくらとした微笑みを浮かべながら私達に軽く手を振り、自分の研究室へと行った。


「じゃぁ、ここで撮ります!HINAKOちゃん!」

「は〜い!」

 比奈子ちゃんはシフォンワンピースの裾を揺らしながらケイ君の横にぴったりとくっ付いて立った。

「HINAKOちゃ〜ん、そんなにくっ付いたら本条君困っちゃうよ!」

 カメラマンがそう言ったので、周りのスタッフがドッと笑い出した。

「少し離れろよ」

 ケイ君は無表情で比奈子ちゃんに言ったので、その場の空気が一瞬静まり返った。広報部の人が顔を青くしていた。

「なによ!照れちゃって!」

 比奈子ちゃんはそう言うとケイ君の腕に手を回した。またみんな笑い出した。

 ケイ君はうんざりした様子で、比奈子ちゃんから離れた。


 撮影は順調に進んでいた。麻衣子ちゃんは大きな瞳をパチパチさせながら撮影風景を一生懸命見つめていた。私は―――正直、来るんじゃなかったと後悔していた。

 カメラのシャッターが切られるたびに歓声が上がった。

 カリスマモデルの比奈子ちゃんとケイ君の立ち姿は…あまりにも完璧なツーショットだった。

「なんか、夢に出てきそうなくらい綺麗ね…あの子…」

 スタッフの1人の人の言葉が私の頭に響いた。

―――なんて良い表現だろう…と私は意味無く感心した。


 廊下の窓から注ぐ太陽の光が、ケイ君と比奈子ちゃんの肌にスーっと吸い込まれ、馴染んだ。その2人の空間はまるで別世界のように可憐で…妖艶で…1枚の絵画のようだった。

 私はこの絵画のような光景を今晩夢に見るだろうと思った。



「それでは、インタビューの撮影に入ります!」

 所内の会議室の机の上には○○製薬会社のお薬が並べられていた。今回の企業紹介でケイ君は、今年の春から発売されている女性専用のサプリメントの紹介をするようになっていた。

 広報部の人は机の中央に置かれたサプリメントの位置を細かく直し、ケイ君はサプリメントの書類に目を通していた。

 インタビューの撮影も順調に進み、最後はケイ君と比奈子ちゃんを中心に広報部の人達とみんなで記念撮影で終わるはずだった。

「はい、それでは最後に質問します!」

 比奈子ちゃんの明るい声が会議室に響いた。カメラのシャッター音がカシャカシャと鳴った。

「本条ケイ君は恋人はいますか?」

 比奈子ちゃんの質問にまたみんなドッと笑い出した―――が、すぐ静かになり、みんな耳をそばだてた。

 ケイ君は呆れたように顔をしかめて…会議室のドアの近くにいた私に目をやった。

 そこで、私は決してしてはいけない事をしてしまった。

 思いっきり―――……ケイ君から目線を逸らしてしまった。

 一度逸らしてしまうと、もう顔を上げる事が出来なかった。比奈子ちゃんの「恋人はいますか?」と、繰り返す質問の声を頭のてっぺんで聞きながら、私は完全に固まってしまった。

「―――はい、います」

 ケイ君の答えに女性陣が「あぁ…」と落胆の声をもらした。

「その人は同級生?年下?それとも年上?」

 執拗に比奈子ちゃんは食い下がる。周りから笑い声がもれる。

 麻衣子ちゃんが様子のおかしい私に気付き、不安げにしていた。

「それ以上はノーコメント」

 ケイ君の言葉にみんな残念そうに笑っていた。




「アキさん、大丈夫ですか?どっか具合悪いんじゃ…」

「ううん!大丈夫よ!少し薬のにおいに酔っただけ…」

 私は本当にあの独特のにおいに酔ってしまい、撮影が終わった後、所内の1階フロアーにある長椅子で休んでいた。

「確かに結構キツかったですね」

 麻衣子ちゃんは笑いながらそう言って、腕時計を見た。

「アキさん、これからどっかお茶でも行きませんか?」

「うん!いいね!行こうか!」

 私達は長椅子から腰を上げた。

「―――悪いけど、次の機会にしてくれる?」

 横からの声に、私の身体はまた固まった。

「本条君!今日はご苦労様!相変わらずカッコ良かったよ」

「どうも。有尾、悪いけどこれからアキと用事あるから」

 麻衣子ちゃんは残念そうに「本条君との用事じゃ仕方無いか」と言った。

「…ケイ君、その用事今じゃないと駄目?」

「今じゃないと駄目」

 いつになく厳しい口調のケイ君に私は動揺していた。麻衣子ちゃんも何か気付いたらしく…でも私達に気を遣ってしまい

「じゃぁ、本条君明日ね!アキさん、今日はありがとう!」と、言って行ってしまった。

 私は必死に今のこの状況に適した言葉を探した。…けど、私の脳のどこにもその言葉はなかった。私は恐る恐るケイ君を見た。

 ケイ君は無表情のまま私の手を掴み、ズンズンと歩いた。

「ケイ君!待って!どこ行くの?」

「来れば分る」

 ケイ君はそれだけ言うと、エレベーターの前で立ち止り、“↑”ボタンを押した。



「君がアキちゃんか〜」白髪交じりの髪を七三分けにしたその丸顔の男性は白い歯をチラッと見せながら微笑んだ。「なるほど、なるほど」

「アキ、外尾先生だよ」

 ケイ君の言葉に、私は慌てて頭を下げた。

「松田アキです!ケイ君がいつもお世話になってます!」

 そう言った後、自分が妙な事を言った事に気付き、顔から火が出た。

「ふぉふぉふぉ!いやいや〜可愛らしい彼女だね、ケイ君。なるほど、なるほど。想像していた通りの子だ」

 ≪彼女!?想像していた通り!?へ!?何の事?≫

 ワケが分からずポカンとしていた私に、外尾先生は微笑んだ。

「いやぁね〜前々から君の話は聞いていたんだよ。来年結婚するそうだね。その前に1回は会っておきたくてね。ちょうど今日1日所内にいれたからケイ君に君を連れて来るように頼んだんだよ」

―――あぁ、だからケイ君は今日ここに絶対来るように言ったのか。

 外尾先生に会うのは今日が初めてだった。とても人の良さそうな穏やかな雰囲気の先生だった。本条先生が安心したのも納得だった。

「結婚の準備は進んでいるのかい?」

「いえ…まだ何も…」

 外尾先生の言葉に私はあせあせしながら答えた。

「まぁ、今はいろんな式があるみたいだからゆっくり選んだらいいね。あぁ、でもあんまり考え過ぎちゃうと結婚自体嫌になっちゃうよ。君から捨てられちゃったらケイ君、可哀そうだからね」

 私は外尾先生の言っている事があまり理解出来ないでいた。ケイ君は眉をひそめ、恥ずかしそうに口元に手をやっていた。

「近いうちに屋敷にお邪魔していいかい?久し振りに有治君とも話しをしたいしね」

「あっはい!ぜひいらして下さい!」

 私の言葉に外尾先生は穏やかに微笑んだ。




「外尾先生って海外でもかなり有名なんだよ。今日みたいに1日所内にいる事なんて珍しいんだ」

 帰りのバスの中でケイ君が言った。私はそんなすごい人とお話が出来た事にかなり感動していた。

「本条先生と外尾先生ってそんなに親しいの?」

「うん。学会とかのセミナーで世話になったんだって、兄さん言ってたな」

「へぇ〜」

 なんだか私の周りにはすごい人達が多い。天才の所に天才は集まるんだ、と私は改めて実感した。(私は例外だけど)


 バスは屋敷の近くのバス停で停まり、私達はバスを降りた。屋敷までは徒歩で10分くらい。5月の心地よい西陽を浴びながら、路地裏を2人で歩いた。

 ケイ君は私と歩く時、かなりゆっくり歩いてくれていた。私は足が短いので歩幅が狭く、いつもちょこちょこと歩いていた。そんな私にケイ君は黙って合わせてくれていた。

「―――結構、傷ついてるんですけど…」

 沈黙の空気を破るように、ケイ君が言った。私はドキッとして恐る恐るケイ君を見上げた。ケイ君は寂しそうな表情で私を見つめた。

「…ごめん…なさい…」

 私はそう言いながらうつむいた。ケイ君はしばらく黙って、小さく息を吐いた。そして、右手を私の顔の前に差し出した。

「へ?」

 私はそのケイ君の細く長い綺麗な手を見て言った。

「手、つないで帰ろう」

 ケイ君の言葉に私は慌てた。

「え!?ここで!?…いや…それはちょっと…」―――恥ずかしいと思っていた私を見て、ケイ君は眉をひそめた。

「せっかく許してあげようと思ったのに…」

「え?本当に?」

「うん」

 それなら仕方無い、と私はケイ君の差し出した手を握った。

「なんだ。少しは悪いと思ってるんだ」

 ケイ君は不貞腐れたように言うと、手を引っ張り私を引き寄せた。

 こんなにくっ付いて歩くトコ近所のおばさんに見られたら、冷やかされるの私なんですけど!!と、心の中で叫びながら―――……

 私はケイ君の手の温かさを感じていた。

≪いつのまにこんなに大きな手になってたんだろう?≫

 私はそんな事を考えていた。

 初めて会った時はあんなに小さい男の子だったのに…次に再会した時もまだあどけなさが残る少年だったのに……

 今は、こんなに大きく男性らしい手になって―――肩幅なんて随分広くなっちゃって…前よりずっと凛々しくなっちゃって……


 私はなんだか“おいてけぼり”にされたような、何とも言えない寂しさが込み上げていた。


















 それから2か月もしないうちに、比奈子ちゃんはその日の夕方、屋敷に出来上がった雑誌を持って来てくれた。

「すっごい評判良いのよ!売り切れ必至ね!」

 比奈子ちゃんはかなり満足そうに言い、私が出したアイスコーヒーを美味しそうに飲んだ。

「アキちゃんのお陰よ!本当にありがとう!」

「私は何にもしてないわ。お礼ならケイ君に言ってね」

「もちろん!今日、内輪だけで発刊記念パーティーやるの。ケイ君、大学まで迎えに行ってそのまま連れて行くから、ケイ君の夕飯はいらないわよ」

 比奈子ちゃんの“相変わらずの口調”に私は苦笑した。

 きっといきなりケイ君の所に行って、無理やり車に乗せるつもりなんだ。

 比奈子ちゃんは細い手首に付けられたごつい腕時計に目をやり、「じゃぁ、私もう行くね」と言ってソファから腰を上げた。


 比奈子ちゃんの運転するBMWは低いエンジン音が鳴らしながら本条邸から走り去り、辺りは一気に静まり返った。居間には比奈子ちゃんの香水の香りが微かに残っていた。

 私は気を取り直すように、比奈子ちゃんが置いて行った分厚い雑誌を手に取った。ずっしりと見応えのある重みの雑誌のページをめくった。

[ カリスマモデルHINAKOのシーン別コーディネート! ]

 のページでは、オフィス編・昼デート編・夜デート編・休日編〜…などなどいろんなシーン別のコーディネートの紹介が載っていた。モデルはすべて比奈子ちゃん。

 比奈子ちゃんはこのモデルという仕事が大好きなんだ、と感じるくらい写真の中の比奈子ちゃんはキラキラ輝いていた。

 ページをめくり続けると、

[ 大手企業発!今年の新商品まるごとチェック!! ]

 で、やっとケイ君登場!―――製薬会社の他にも製菓会社や飲料会社など、かなりの大手企業の新入社員が会社PRをしていた。しかもみんなかなり美形だった。

 でも、その中でもケイ君はやっぱり群を抜いていた。

 私はひとしきりケイ君のページを見つめ、ほうっとため息をもらした。

―――麻衣子ちゃんと中島君にも見せたいなぁ…

 と考えていた。

 


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