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君のために僕は詠う―23―

君のために僕は詠う―23―




「本条君!もういいの?」

「本条君!!大丈夫なの?」

「よお!本条!顔色良くなったな!」

 ケイは大学で何人もの女子学生や教授に声を掛けられた。春休みに大学の図書室でケイが倒れた事が大学中の話題になっていた。

 ケイは小さくため息を吐きながら、次の講義のある教室に入った。教室の隅に座っていた中島がケイに気付き、大きく手を振った。

「やっと見れる顔になったな!本条!」

「………あぁ…」

 中島の言葉にケイはウザそうに答えた。

「なんだよ!まだ具合悪いの?それとも機嫌悪いの?」

「―――もう、なんともないよ」

 中島はケイのいつもの口調にホッとしていた。

「アキさん、帰って来て良かったな!」

「………あぁ……」

 ニヤニヤと笑う中島を見て、ケイは怪訝そうな表情をした。

「アキさんパワーはすごいよな…本条?」

 ケイは無言で、鞄からテキストとノートを出した。


「―――あっ!本条君!」

 ケイを探していた教授は慌てた様子でケイに近寄った。

「ここにいたね。体調は?もういいのか?」

「…はい、大丈夫です」

「そうか、良かった」その教授は安堵の表情を見せた。「本条君、○○製薬研究所の外尾謙三郎先生、知ってるよね?」

「え?あの△△治療薬の第一人者の!?」

 中島は声を上げた。

「中島君も知ってるのか?……驚いた」

「……それ、どういう意味っすか?」

 中島は口を尖らせた。

「今度、うちの大学の講演会に外尾先生が見えられるんだ。本条君も出席しないか?」

「僕がですか?」

「そう。それで、レポートを提出してほしいんだけど…」

「おっ俺、出ます!出たいです!」

 中島は元気に言った。

「……ごめん、中島君。もう定員いっぱいなんだ」

「え?…えぇ!?今本条に頼んでるじゃないですか!」

「本条君は特別だよ。本条君、いいよね?」

 教授はすがるような目でケイを見つめた。





「―――あっ…おっおかえり!ケイ君!」

 アキは笑顔でケイを出迎えた。

「…ただいま」

「早かったね。お腹空いてない?」

「…うん。空いてる…」

「そう!今日ね、パンケーキ焼いたの。食べていいよ!」

 アキは早口で喋った。ケイは困った顔でアキを見た。

「…アキ…あの…」

「さてと!洗濯物取り入れないと!」

 そう言うと、アキはもの凄い勢いで2階へ駆け上がって行った。

 そんなアキの様子を見て、ケイはがっくりとうな垂れた。





「―――今度は何をしたんだ?ケイ?」

 本条は居間で、新聞を見ながら言った。

「……なんだよ…」

 ケイは不貞腐れたように言った。

「大木さん家から帰って来て、アキちゃんもお前も様子が変だから…また何か言ったんじゃないかと思ってさ…」

 本条の言葉にケイはうつむいた。本条はチラッとケイを見て、小さくため息を吐いた。

「―――なんだよ…ケイ」

「………言ったんだ」

「…何を言ったんだ?」

 ケイは頬を赤くした。本条は新聞から目を離し、ケイを見つめた。

「……結婚しようって言ったんだ」

 ケイの言葉に本条は言葉を詰まらせた。

「結婚って…お前まだ学生だろ?」

「もう!何でアキと同じ事言うんだよ!」

 本条は呆れ顔でケイを見つめた。

「―――それで断られて、そんなに拗ねてるのか?」

「拗ねてなんかいないよ!ただ、納得がいかないんだ」

「何が納得がいかないんだ?」

「おかしいだろ?学生で、まだ若いからっていう理由で断るの!」

「おかしくないよ。筋の通った理由だ。アキちゃんらしい…」

「何で兄さんまでそんな事言うんだよ!」

 ケイは興奮気味に言い返した。

「落ち着けよ。アキちゃんもうすぐ風呂から上るだろ?」

 本条は苦笑いしながら言った。

「…何がおかしいんだよ」

 ケイはムッとした表情で言った。

「―――おかしくないよ。馬鹿馬鹿しくて笑えない」本条はそう言いながら苦笑した。「…またそうやって自分の気持ちばかり相手に押し付けて…いい加減、アキちゃんに嫌われるぞ。大体、何でお前はいつも先を急ぐ?」

「いっ急いでなんかないよ…」

「―――どうせ、アキちゃんを完全に自分のそばに置いておきたいんだろ?……そう言う理由でアキちゃんに一生の事の決断を迫るな」

 本条の言葉に、ケイは言葉を失った。






……一体…どんな顔でケイ君と接すればいいんだろう……

 アキは掃除をしながら、洗濯物を干しながら、夕飯の買い物をしながら…考え込んでいた。そして、ケイが帰って来て慌てふためいていた。

 そういう日々に、アキはドッと疲れを感じていた。


≪……大体…何でケイ君ってあんなに大胆なの?あんな事しといて…こっちはやっと気持の整理がついたとこなのに……変よね。絶対、変よね…≫

 アキはブツブツと考えていた。

 突然電話が鳴り、アキは飛び上った。


[ ……もしもし?アキちゃん?]

 受話器から美枝子の元気な声が響いた。

「おばさん!どうしたの?」

[ うん。こっちに用があってね…今、そっちに向かってるの。お邪魔していい?]




「アキ姉ちゃん!」

「あら!諒君も付いて来てたの!?」

 アキは美枝子の後ろから飛び出してきた諒に驚いた。

 アキは美枝子と諒を屋敷に上げ、緑茶とシナモンクッキーを出した。

「―――友達に会う用事があってね、1人で来るつもりが…諒君に見つかっちゃって…付いて来るって聞かないの」

 美枝子の言葉にアキは笑った。

「諒君、良かったね!おばあちゃんとお出掛け出来て!」

「うん!本当はパパが遊園地に連れて行ってくれるって約束だったんだけどね…お仕事で駄目になっちゃったんだ…」諒は寂しそうに言った。「ねぇ、アキ姉ちゃん!ケイ兄ちゃんは?」

「う…うん。そろそろ帰って来るかな…」

「ホント!?…そしたらケイ兄ちゃん帰って来るまで探検してていい?」

 諒は瞳をキラキラさせながら言った。

「駄目よ!諒君!大人しくしてるって約束したでしょ!」

 美枝子の言葉に諒は寂しそうにうつむいた。

「諒君、探検してもいいけど静かにね。色々触っちゃ駄目よ」

「うん!!」

 諒は元気に返事をして2階に駆けて行った。

「諒君!走らないの!!……もう!ごめんね、アキちゃん。博一が迎えに来てくれる事になってるから、そしたらすぐ帰るから」

「いいよ、おばさん。ゆっくりしてって…でも博一さん、大変じゃない?」

「大丈夫よ。仕事でこっちに出て来てるの。せっかくの連休も台無しだわね」

 美枝子は緑茶をすすり、シナモンクッキーを口に運んだ。

「あら、このクッキー美味しい!アキちゃん手作り?」

「うん」アキは笑顔で言った。

「お店の方はもう行ってるの?」

「うん。今日は早めに上がったの。お店の人にも迷惑掛けちゃったからね。頑張らないと!」

「無理しないようにね、アキちゃん!あなたはすぐ頑張り過ぎるから!」

 美枝子は笑いながら言った。


「―――ケイ君とは仲直り出来たの?」

 美枝子の言葉にアキは面食った。

「え?…」

「この間来た時、様子おかしかったからね…」

 美枝子はニヤっと笑った。

「…別に、なんでもないよ」

「本当に?」

 アキは頬を赤めながらうつむいた。美枝子はそんなアキを見て、微笑んだ。

「ケイ君、本当にあなたの事が好きなのね」

「…そうかな…」

 アキは照れながら言った。

「そうよ!あなたの事ばかり気にしてたわ。何かあったの?」

 アキはしばらく黙っていた。美枝子は静かにアキを見つめた。

「―――おばさん、おじさんと何で結婚したの?」

「え?何よ、藪から棒に!」

「何で?何年か付き合ったの?」

「……違うわ。お見合いだったのよ、私達」

「そうなの?」

「そうよ。親同士が気に入っちゃってね。トントン拍子に話が進んで…それから30年。長かったけど、あっと言う間だったわ」

 美枝子は昔を懐かしむように言った。

「幸せだった?」

 アキは思わず尋ねた。

「もちろん!……でもそう感じるまで何年かかかったのよ。ほら、あの人頑固だったでしょ?だから色々大変だったのよ」

「そうだったね」

 美枝子の言葉にアキは笑った。

「―――本当に幸せだった。そして今も幸せよ。だってあの人、死ぬ直前に言ってくれたの。『お前と一緒になって良かった』て。……この言葉があるから私はあの人の分まで生きていける」

 美枝子の瞳に涙が溢れていた。アキも目頭を熱くしていた。

「それに、私には博一も百合子さんも諒君もアキちゃんもいるしね!」

 美枝子はハンカチで目頭を押さえながら笑顔で言った。アキは微笑みながら頷いた。

「あの人、いつも言ってたのよ。アキちゃんはどんな男と結婚するだろうって。アキちゃんは良い子だから、そこら辺の男とは結婚させられん!ってね」

 美枝子の言葉に、アキは言葉を詰まらせた。美枝子は微笑みながらアキを見つめた。

「―――アキちゃん、本当に好きな人と結婚するのよ。本当に好きな人と一緒にいれる事が1番幸せなんだから…ね?アキちゃん」

「…おばさん…」

 アキの瞳から涙が一粒零れた。

 美枝子はアキの頭を優しく撫でた。




 ケイはいつものように一呼吸置いてから玄関のドアノブに手を掛けた。

「ただいま!ア…」そう言いかけたと同時に

「ケイ兄ちゃん!おかえり!!」

 もの凄い勢いで2階から下りて来た諒は、ケイに飛び付いた。ケイは驚きのあまり、後ろに倒れた。

「スキあり!!ケイ兄ちゃん!」

「―――痛ってぇ…え?お前…何で?」

 すごい音に、アキと美枝子は慌てて玄関に出て来た。

「やだ!諒君!何やってるの!!」

 美枝子は諒の腕を掴み、ケイから離した。唖然としているケイを見て、アキは思わず吹き出した。

「…何がおかしいんだよ…」

 ケイは口を尖らせた。

「…だってケイ君、諒君にやられちゃってるんだもん!」

 お腹を抱えて笑うアキを見て、美枝子も笑い出した。

「ケイ兄ちゃん!遊ぼう!遊ぼう!」

 諒はケイの腕を必死に引っ張っていた。



 午後6時前に博一が美枝子と諒を迎えに来た。博一は、帰るのを嫌がる諒を抱え、車に押し込んだ。

「本当にごめんね、アキちゃん、ケイ君!」

「やだぁ!パパ!まだケイ兄ちゃんと遊ぶ!」

 諒は車の窓ガラスから身を乗り出して叫んだ。

「いい加減にしろ!諒!」

 博一の怒声に、諒はうな垂れた。

「諒君!また遊びに来てよ!ケイ兄ちゃんまた遊んでくれるよ!」

 アキの言葉にケイの表情は引きつった。

「……また遊んでね、ケイ兄ちゃん…」

 寂しそうに言う諒に、ケイは思わず苦笑した。

「……また今度な」

 ケイの言葉に、諒は嬉しそうに笑った。


 美枝子達が帰った後、ケイはぐったりとソファに座り込んだ。アキはそんなケイを見ながら微笑んだ。

「お疲れ様、ケイ君」

「……あぁ…もう子供って何であんなに元気なワケ?」

「仕方無いよ。諒君はケイ君が大好きなんだから」

 アキはそう言うと、夕飯の支度をしに台所へと向かった。




 午後7時過ぎに本条が帰って来た。本条の父親の古い友人、永田昌男も一緒だった。

「いやぁ〜アキちゃん!久し振りだね!もう怪我の方はいいのかい?」

「はい。心配掛けてしまってすいません…」

「いやいや、いいんだよ!アキちゃんの元気な姿、見れるだけで嬉しいよ!ところで、私も夕飯ごちそうになってもいいかな?」

 そう言いながら、永田は椅子に腰を下ろした。

「来るなら連絡ぐらいしろよ、おじさん!おじさんのご飯無いよ」

「え!?そうなの?…」

 永田は悲しそうにアキを見つめた。

「大丈夫ですよ。たくさん作りましたから!お口に合うかどうか分かりませんけど、食べて行って下さい!」

 笑顔で言うアキを見て、永田はホッと安堵の表情を見せた。



 4人の食卓は、いつものように永田の長いお喋りが続いていた。ケイはうんざりした顔をし、本条は苦笑していた。アキは、その光景を懐かしく感じていた。

「―――いやぁ〜相変わらず、アキちゃんの料理は絶品だね!ごちそう様!」

 永田は食後のコーヒーを飲みながら満足げに言った。

「そんな…褒め過ぎですよ…」

 アキは頬を赤くして言った。

「…何で人の家でそんなに食べれるの?」

「何でって…美味いからに決まってるだろ!ケイ君は毎日食べてるから有難さが分からないんだよ」

 ケイの言葉に、永田はキッパリと反論した。ケイは呆れ顔になった。


 アキが後片付けをしに台所へ行った後、永田は鞄からA4サイズの封筒を取り出し、ケイに渡した。

「―――ケイ君、悪いけどその男の事調べてくれ」

 ケイは小さくため息を吐きながら封筒を覗いた。

「おじさん、家で仕事の依頼しないでよ。アキに気付かれるだろ」

「大丈夫だよ!アキちゃんは気付かない。……ケイ君がなかなか私の事務所に来てくれないからな…」

「……分ったよ。今度からちゃんと行くから」

 ケイの言葉に永田は安心したように笑った。本条は≪やれやれ……≫と思いながら永田に言った。

「おじさん、ケイも大学2年です。論文とかありますし、来年からは就職活動とかで色々忙しくなるんで、おじさんの仕事の方は少し控えて下さいね」

「―――あぁ、そうか…大学2年か…早いな。…ケイ君、まだ何も決めてないのか?」

 永田の言葉に、ケイは頷いた。

「……もし、気が変わったらすぐ言えよ。ケイ君ならすぐ採用だ!」

 永田のギラッとした目つきに、ケイはため息を吐いた。

「警察官にも検事にもなる気はないよ」

 ケイにハッキリ言われ、永田はうな垂れた。












「―――本条君!!」

 麻衣子の声に、ケイは振り向いた。

「やっぱり本条君も来たね!外尾先生の講演会!」

「…うん。レポート書けって言われたよ」

 面倒臭そうに言うケイを見ながら、麻衣子は微笑んだ。


 講演会場はほぼ満席だった。学生達は外尾謙三郎の登場を今か今かと待ち侘びていた。

 午後1時。会場いっぱいの拍手と共に、外尾謙三郎が壇上に現れた。外尾は会場を見渡し、深々と頭を下げた。


 講演会は外尾の自己紹介から始まり、研究所の紹介、薬のあり方から人間の心理分析にまで大きく広がっていった。会場にいた誰もが、外尾の話に神経を集中させていた。

 外尾の話し方は、実に穏やかで―――時には熱く、明確だった。その完璧な“話術”は聞く者を魅了した。

 ―――ケイも例外ではなかった。本条の父親や、本条にどこか似ている外尾の話し方に、聞き入っていた。

「―――昔、私が大学病院に勤めていた時、こういう事があった。ある若い男性が癌に侵された。若いので癌の進行も早い。投癌剤にも限界があった。医者は誰もがさじを投げた。……でも彼は医者が宣告した年数より3倍も生きた。それはなぜか――― 彼には愛する女性がいた。……そこの前から2番目の君!そう!君だ。何故彼が長く生きる事が出来たか分るかい?」

 外尾に当てられた女子生徒はおどおどしていた。外尾は微笑んだ。

「―――君は好きな人がいるかい?」

 外尾の言葉に、その女子生徒は頬を赤くした。

「…はい、います」

「そうか…それでは、もし君が癌に侵されたらどうする?」

 その生徒はしばらく考えた。そして答えた。

「……別れます」

「どうして?」

「だって…私は死んでしまうのに…残された彼が可哀そうです。だから…違う女性と幸せになってほしいです」

 外尾はにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。君は心が優しいね。―――じゃぁ…君、そこの君」

 外尾はケイを指差した。ケイは驚いた。

「君はどうする?好きな人が病に倒れてしまったら…」

 外尾は穏やかな表情でケイを見つめた。ケイの横に座っていた麻衣子は真剣な表情でケイを見つめた。会場にいた女子学生達は、ケイの言葉に耳をそばだてた。

 ケイは静かに口を開いた。

「―――諦めない」

 外尾はケイを見つめた。

「どういう意味だい?」

 外尾の言葉に、ケイは答えた。

「僕が彼女を助ける」

 会場の隅で、“黄色い声”が沸いた。

 外尾はしばらく黙ってケイを見つめ続けた。ケイは外尾の瞳から<熱い何か>を感じていた。

「良い答えだ。きっと彼女は君のために生きようとするだろう。―――この生きようとする心が強い生命力になり、人間の持つ力を最大限に発揮させる。私はその力を<奇跡の薬>と呼んでいる。私達が研究している薬は<奇跡の薬>の手助けをしているんだ。私はこの仕事に誇りを持っている」

 そう言うと、外尾はケイに目をやった。そして微笑んだ。ケイもフッと笑っていた。



 講演会は大歓声と大きな拍手の中、終了した。

 ケイは麻衣子と講演会場で別れ、大学の図書室へ行った。そこで外尾の著書を貪るように読んだ。ある程度読み終えると、今度は国立図書館へ足を運んだ。そこでもまた外尾の著書を探し、読みあさった。ケイはレポート用紙にペンを走らせた。



「―――随分熱心だな」

 その声に、ケイはハッとした。

 顔を上げると、目の前に黒装束の男、大神が椅子に座っていた。ケイは慌てて腕時計に目をやった。午後6時50分になろうとしていた。

「私に気付かないほど集中していた。―――そんなに素晴らしかったか?外尾謙三郎の講演会は」

 ケイは小さくため息を吐きながら自分で自分の肩を揉んだ。

「―――あぁ…レポート提出しないといけないからね」

「そうか…」

 大神はフッと笑みを浮かべた。

「いつか来るだろうって思ってたけど…今日は駄目だよ。もう帰らないと…」

「奥様が外の車の中でお待ちだ」

「……違う日にしてよ。今日はもう帰る」

「駄目だ。奥様は明日からアメリカへ行かれる」

 ケイは眉間にしわを寄せた。

「すぐ済む。奥様がどうしても伝えたい事があるそうだ」

 大神はそう言うと、椅子から腰を上げた。

 ケイはため息を吐いて、椅子から立ち上がった。


 図書館の裏側の通りに黒光りするリムジンが停まっていた。大神は後部座席の扉を開け、ケイに乗るように指示した。

 ケイは車に乗り込み…思わず顔をしかめた。

「―――何でそんな顔するの、ケイ?」

 オフホワイトのパンツスーツに身を包み、後部座席で足を組んで座っていた女は怪訝な表情で言った。

「……すごい臭いだな。これもあんたのオリジナル?」

「あら!分かるの?そうよ、今日の香水も私のオリジナル!良い香りでしょ?」

 女の言葉に、ケイは肩をすくめた。

「……あのアップルティーを思い出すよ」

 ケイの言葉に、女は笑い出した。

「あなたって本当に最高の男ね。―――本当に私の所に戻る気ないの?」

「……ないよ。それを言いに来たの?」

「そうよ。それと、もう1つ。体調はどう?見る限りでは“乗り越えた”みたいだけど…」

「あぁ…なんとかね」

 ケイは苦笑しながら言った。

「そう。それは良かったわ」女は言った。「…少しつまらないけどね」

「……僕はこれから先もあんたの所に行く気はないよ。あんたが僕に関わらないと約束してくれるなら、僕もあんた等の<仕事>の邪魔は絶対にしない。それでどう?」

 女はしばらく黙ってケイを見つめた。

「―――もし、またあなたの愛しのアキちゃんを連れ出したら?」

 ケイの表情が変わった事に女は気付いた。

「必ず、潰しに来る」

 ケイと女の間に沈黙の空気が流れた。女は沈黙を破るように笑い出した。

「冗談よ!私まだ死にたくないもの。―――それじゃ、まず今あなたが調べようとしている代議士からは手を引いて」

 ケイは驚いた表情をした。女は微笑んだ。

「―――分かった。手を引くよ」

 ケイは苦笑しながら言った。

 女はグラスにワインを注ぎ、ケイに勧めた。ケイは首を横に振った。

「これからどうするつもり?またいつ“発作”が来るか分からないでしょ?…あなたが本条教授の資料を燃やしてなかったら少しは分かったのに」

 女の言葉に、ケイはしばらく黙っていた。

「―――これから自分で調べるよ。自分の身体の事だし…」

「そう…。確かに、あなたならやれそうね。でも次の“発作”が来る前に調べ上げないと駄目よ。もうアキちゃんじゃ、治まらないかも」

 笑いながら言う女を、ケイは睨んだ。

「1回セックスしたからってすべて自分のモノになるとは限らないわ。女はそんな簡単じゃないのよ。分かる?ケイ?」

 ケイは女を睨みつけた。

「……もう帰りたいんだけど」

「そうね、愛しのアキちゃんが待ってるものね。―――屋敷まで送るわ」

「…いいよ。これ以上ここにいたら吐きそうだ」

「失礼ね。せっかく忠告してあげたのに…。いいわ、行って。また逢いましょう」

 大神が車のドアを開けた。ケイは車を降り、大神に言った。

「もう、僕を監視するのやめてくれない?」

 大神はフッと笑った。

「―――それは出来ない」

 ケイは肩をすくめた。その場から立ち去ろうとするケイに大神は言った。

「今日は―――今日だけはやめておこう」

 大神はそう言うと車の助手席に乗り込み、車は走り出して行った。

 ケイはしばらくその車を見つめ……すっかり暗くなった空を仰いだ。




「――――ケイって本当に面白いわね」

 女は車の窓から外を眺めながら言った。黒い雲がゴロゴロと鳴り出していた。

「世界を変えるはずの男が1人の普通の女に骨抜きにされてるのよ」

 そう言うと女はクスクスと笑った。大神は女の言葉を静かに聞いていた。

「……夕食は海斗と外で食べようかしら…ねぇ、大神。いつもの店に今から予約しといてくれない?」

「畏まりました」

 大神は顔を少し後ろに向け、小さく頷いた。










 雨がシトシトと降り出し、10分もしないうちにどしゃ降りになった。

 アキはいつもより帰りが遅いケイの事を心配していた。


―――もう8時になるのに…ケイ君、どうしたんだろう?連絡もして来ないなんて…何かあったのかなぁ…


 アキは不安げな表情で窓から外を眺めた。

 門の所で人影を見て、アキは慌てて玄関へと向かった。

「―――ケイ君!…どうしたの?ケイ君!」

 全身びしょ濡れで帰って来たケイを見て、アキは驚いた。

「うん…。いきなり降ってきたから…」

「早く着替えないと風邪ひいちゃう!」

 アキは慌ててタオルを取りに行った。ケイはグチョグチョになった靴を脱ぎすて、居間のソファに腰を下ろした。

「はい、ケイ君早く拭いて。これに着替えて。…今お風呂沸かしてるから、すぐ入るのよ!」

「うん…兄さんは?」

「今日、遅くなるって。先に寝てていいそうよ」

 アキはケイにタオルと着替えを渡し、ケイが脱いだ服に手を伸ばした。

 ケイは思わず、アキの腕を掴んだ。アキは驚いてケイを見た。


「……僕…諦めないよ」

 ケイは呟くように言った。アキは頬を赤めながらうつむいた。

「…ケイ君…私…」

「どうしたらいい?どうしたらアキとずっと一緒にいられる?」

 ケイは真剣な表情でアキを見つめた。

 アキはしばらく黙って、ケイを見つめた。

「―――本当に、私なんかでいいの?ケイ君」

「え?……」

「ケイ君はまだ19よ。才能もあって…これから成功していく人よ。それにこれからたくさんの女性と出会うわ。それでもいいの?」

 ケイはアキの言葉の意味が分からずにいた。

「……何が言いたいんだ?アキ…」

「……そんな急ぐ必要無いんじゃないかな?…私と結婚して素敵な人と巡り合ったらどうするのよ……」

 アキはそう言いながらうつむいた。

 ケイの胸の奥がチクンと痛み出した。

「…何で…何でそんな事言うんだ」

「だって…」

「アキは僕の事、何も分かってない!」

 ケイの声にアキの身体がビクッと動いた。ケイはハッとして、うつむいた。

「……ごめん大声出して…。風呂入ってくる…」

 ケイはそう言うとソファから立ち上がり、浴室へと行った。

 アキはそのまま動く事が出来なかった。


 アキは座り込んだまま―――必死に自分を責めた。




―――私…私…なんて弱い人間なんだろう……。

『何も分かっていない!』……ケイ君の言う通りだ。私は…ケイ君の気持ちより、自分の事ばかり考えていた。

―――私は…怖いんだ。とても怖いんだ……自分に、ケイ君のそばにいる資格があるかどうか…まだ分からないんだ……






 ケイは風呂からあがり、居間に行った。ソファの所にさっきと同じ格好で座り込んでいるアキを見て、ケイは驚いた。

「…アキ?…ア…」

 ケイは胸を締め付けられる感覚に襲われ、慌ててアキを抱きしめた。

「アキ!ごめん!アキが悪いんじゃないんだ!」ケイは必死に言った。「ぼっ僕が悪いんだ!だから…もう泣かないでっ…」

 ケイはさらに力強くアキを抱きしめた。

 アキはハッとし、自分が泣いている事に気付いた。

「ケイ君…っ…」

 アキはワッと泣き出した。ケイは慌てふためいた。

「アキ…」

「ケイ君っ…ケイ君っ私…私…」泣きじゃくりながら、アキは必死に喋り続けた。「私…私もケイ君のそばにいたいの…っでも……怖いのっ…怖いのよ!」

「アキ…」

 ケイは必死に喋るアキを見つめながら、胸の奥から沸々と熱い想いが込み上げていた。

「あなた、まだ学生なのよ!もっと冷静に考えて…考えてほしいのよ!私はどこにも行かないから…あなたのそばにずっといるから…私はそれだけで幸せなんだからっ…だからっ」

 ケイは強くアキを抱きしめた。

「分った!分かったよ、アキ!もう、焦らないから…」アキはケイの胸の中で泣き続けていた。「…でも、信じて。僕はアキだけなんだ。何十年たってもその想いは変わらないよ。―――僕が…僕が大学卒業したら、結婚しよう。アキ…」

 ケイは必死の思いで言った。アキは涙を拭いながら真剣にケイの言葉を聞いた。――――そして、アキは小さく頷いた。


「……ケイ君…」アキはそう言って、1回コホンと咳をした。「…うん。ケイ君が大学卒業して…私の事、今と変わらず想ってくれるなら……」

 アキはそう言うと、頬を赤くして微笑んだ。

「……あぁ…良かった…」

 ケイはホッと胸を撫で下ろし、顔を両手で覆った。そんなケイを、今度はアキが抱きしめた。

「……アキの気持ちが冷めたら……それでも結婚するから」

 アキの腕の中でケイは真剣に言った。アキは思わず吹き出した。


 安心したのか、ケイのお腹がグ〜…と鳴った。

「…そうだった。僕何も食べてない」

「え?そうなの?遅かったから食べて来たのかと思った」アキは笑いながら立ち上がった。「私もお腹空いた!!今日はカレーよ!たくさん食べよう!」

 ケイは微笑みながら頷いた。










 ケイはアキの髪を指でいじりながら考え込んでいた。


―――大学卒業してからって言ってしまったけど……まだ2年以上はある。

 自分で言った事とはいえ、僕はすでに後悔していた。

 アキは<この間>と同じように…僕の腕の中で、気持ち良さそうに眠っていた。何でこの状況でこんなに気持ち良さそうに眠れるのか分からないけど……。   

 僕はやっぱり眠れそうになかった。

 まだ―――抱き足らない。


 僕はアキをギュッと抱きしめた。

 もし、アキが僕の“出生の秘密”を知ったら…アキはどうするだろうか…

 今と変わらず僕の事を笑顔で見つめてくれるだろうか?


 僕の胸の中で、黒く重たい空気が広がった。

 

 僕はとりあえず、これからの事を考える事にした。

 大学を無事に卒業しなくては……いや、それは大丈夫だ。―――就職。そうだ、就職の事を考えないと…。

 僕はアキの寝息を聞きながら、自分がこれから何をしたいのか考えた。考えながら、外尾先生の言葉を思い出していた。

――<奇跡の薬>――僕にとっての薬は……アキだ。そう、アキなんだ。

 

 僕は、外尾先生の講演会のレポートに書く内容を考えながら……寝ているアキの唇に何度もキスをした。



 そんなケイも少しずつ瞼が重くなり、アキを抱いたまま眠りに落ちた。







「―――あの会長、しつこかったですね〜本条先生!」

 車を運転しながら加茂昇は言った。

「あぁ…あの人は酒が入ると手が付けられないな」

 本条は苦笑しながら言った。

 本条は急きょ、○○会会長の盛大な<お誕生日会>に招待された。研究所の職員、加茂昇とともに出席したのだが……その会長に捕まり、帰れなくなってしまった。

「送ってもらって悪いね、加茂君。夕貴さん、大丈夫かい?」

「気にしないで下さい!大丈夫ですよ!ちゃんと連絡してますし。先生が会長の酒の相手してくれたんで、みんな助かったって言ってました!」

 昇の言葉に本条は笑った。

「加茂君、明日はゆっくり出勤していいからね」

「え!?いいんですか?」

 昇は喜びの声を上げた。

「あぁ…。今日は助かったからね」

「先生もゆっくりして下さい!……あっ明日朝10時にお宅まで迎えに来ますんで!」

「え?いいよ、私は」

「そんな事言わないで下さい。先生は普通に出勤して部下の僕が遅刻したらみんなに白い目で見られます!」

「あぁ…そうだな。そしたら2人で遅刻するか?」

「はい!」

 昇は元気に返事をした。


 昇の運転する車は屋敷の玄関ポーチの前で停まった。

 本条は昇に声を掛け、車を降りた。


 玄関の鍵を開け、ドアを開いた。革靴を脱ぎ、スイッチを押して電気を点けた。居間へと入った本条は―――いつもと違う雰囲気を感じた。


『お帰りなさい、先生』と言うアキの声が聞こえない。


 本条は浴室へと行き、風呂を沸かした。

 風呂からあがり、コーヒーを飲んで2階へと上がった。

 “いつものように”ケイの部屋を覗いた。


『―――お帰り、兄さん。遅かったね』と言うケイの声が聞こえない―――ケイの寝息も聞こえない。

 ケイが部屋にいない事に気付き、本条は一瞬ドキンとした。

 そして、しばらく考えて―――本条は静かに微笑んだ。


―――もう、こうやってケイの事を気にしなくてもよくなったか……


 本条はケイの部屋のドアを閉め、自分の部屋へと入った。









――君のために僕は詠う。<前編>――  END

<後編>は6月2日更新予定★


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