君のために僕は詠う―2―
君のために僕は詠う―2―
「噂には聞いていたがなぁ、大したもんだ!」
男は表情一つ変えずに、部屋の中央に立っていた。
「その細い身体でよく私の部屋まで来れたものだ!」
Mグループの会長、脇田大二郎はその男を褒めちぎっていた。
脇田は自分の命が惜しくて、そう言っているのではなかった。
かなりの大金を叩いて雇っていた、ベテランボディーガード数十人をその男は、あっと言う間に“片付けて”いたのだ。
「今の<所>でいくらもらっている?その2倍…いや、3倍は出そう!どうだ?私のそばで働く気はないか?」
男は、しばらく脇田を見つめていた。
「――<例の物>を預かって来るよう指示を受けて来た。時間稼ぎをしているのなら、無駄だが…」
男は黒革の手袋をした右手をギュッと鳴らした。
「分かった、分かった。そう気を悪くするな。本当にお前をそばに置きたくなったのだ。おい、あれを……」脇田は、入口近くにいた秘書に指示した。
秘書はすぐにB5ぐらいの封筒に入った<例の物>を持って来て、その男に渡した。
男は、<それ>を受け取ると、何も言わずに部屋を出て行った。
「――――後を追わせますか?」秘書は脇田に尋ねた。
「ハッハッ…誰に追わせるんだ?屋敷には私とお前以外、誰もいないぞ。廊下に出てみろ。図体ばかりデカイ奴らが転がってるぞ」
脇田は苦笑していた。≪まさか、あれほどの男がいたとは…≫
「ずいぶん若い声をしていましたね…あの男、いくつぐらいでしょうかね…」
「15か16ぐらいか…」
脇田の言葉に秘書は「まさか!!」と、声を上げた。
「お前、<タシギ事件>覚えてるか?」
「…<タシギ>の職員と天才科学者が惨殺された事件ですよね。<タシギ>は実は殺し屋集団だったとか…しかし、あれからもう5年は経ちますが…」そう言った後、秘書はまた考え込んだ。
「…殺し屋集団を壊滅させた人間がいる…」脇田は、一瞬、背筋が凍る感覚に襲われた。「知り合いの刑事が言っていたんだ。この事件は迷宮入りだとな」
「…会長は、さっきの<男>とその<タシギ>と、何か関係があるとお思いですか?」秘書は顔色を青くして訊いた。
「…分からん」脇田は眉をひそめた。
「……まぁいい、その話は後だ。これからが厄介だぞ。マスコミも押し寄せるだろう。今日中に準備にかかれ!ミスは許されんぞ!」
脇田は強い口調で言った。
「分りました。―――会長、森村先生には連絡した方がよろしいでしょうか?」
「今晩、会って話そう。場所はいつもの所でいい。お前から彼に連絡しておけ」
脇田はそう言うと、秘書に背を向け、壁一面の窓から外を眺めた。秘書は軽く一礼し、部屋を出て行った。
≪なんとかして、あの男の素性を調べる方法はないものか≫
脇田は真剣にそう考えていた。
*****
――――すぐに、誰なのか分からなかった。
その女性は、ゆっくりと私に近付いて来た。
私は、ハッとした。
あの女だ!――母の妹だ!!――
目を覚ました私が一番最初に目にしたのは、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら私の手を握りしめていた母の友人、美枝子おばさんだった。
私は退院して、美枝子おばさんと共に、父と母と一緒に暮らしていた町に戻ってきた。おばさんは、狭いアパートで旦那さんと二人暮らしだった。さすがに私がおばさんの家にお世話になる事は出来ず、私が入れる施設とか色々調べ、手続きとかしてくれた。中学校の先生も親身になってくれた。
おばさん達に支えられ、私は無事に中学を卒業した。でも、高校は金銭的な理由もあり、中学の担任の勧めで、昼間はバイトをして、夜間高校に通う事になった。私は高校に通えるだけで嬉しくて、おばさん達に感謝した。
その日もいつものようにバイト先に向かうため、バス停へと急いでいた。
そのいつもの通り道に、やっと記憶の片隅に置けるようになった、<記憶の中の人間>が立っていた。
『アキちゃん…久しぶりね…おばさんの事、覚えとる?』
私はショックのあまり動けなかった。今、目の前に立っているのは、間違いなく、あの妹なのだ。ひどい虐待をした女なのだ。
『…ごめんね…驚かせて…気分悪くなったやろ?…』
母の妹は、うつむいていた。頬が削げ、やつれていた。具合が悪いのか、なんだか青い顔をしていた。
『…何なんですか…何でここに…』私は堪らず、その場所から走って逃げた。
一体なんなの?なんであの女があそこにいるの?
本当に気分が悪くなって、施設の部屋にある自分の布団に潜り込んだ。心臓がバクバク鳴っていた。
母の妹は昔の面影など無く、げっそりとやつれ、生気が全く無かった。もちろん、香水の臭いなどまったくしなかった。
……何があったんだろう…?
私は少し落ち着いてきて、そんな事を考えていた。
一週間ぐらいして、またあの女が同じ所に立っていた。
『私に何か用ですか?』込み上げてくる感情をなんとか抑え、私は言った。
母の妹は、少し微笑んでうつむいた。
『……一言…』母の妹は言葉を詰まらせた。口元が震えていた。
『…あなたに…謝りたくて……』母の妹はフラッとよろけ、その場にしゃがみ込んだ。私は驚いて、母の妹に駆け寄った。
『…っごめんね…アキちゃん!…本当にごめんなさいっ…』
母の妹はそう言うと、私にしがみ付いて泣いた。
私は、細く、小さくなった母の妹の身体を起こし、近くにあったベンチに一緒に座った。『…ありがとう…』か細い声で、母の妹は言った。
しばらく沈黙があって、私は堪らず、
『何か飲みますか?』と、言ってしまった。母の妹は、
『…ありがとう…アキちゃんは変わってなかね…本当に優しい子…』そう言うと、また目から涙を零した。『ごめんね、今、病気だから色々口に出来んとよ…』母の妹は、微笑んでいた。
――末期のがんで、死ぬ前に私になんとか謝りたかったそうだ。
『…そう…アキちゃんも、もう18なんね…早かね…』母の妹は遠い目をしながら言った。
あれからもう5年も経つのだ。きっとこのおばさんも病気とか色々あって大変だったんだろう…私は、もう怒りなんか消えていた。確かに、ひどい人達だったけど…こうやって、病気の身体を押して、私に謝りに来てくれたのだ。
『おじさんは…』と訊きかけて、やめた。
『そろそろ行くね…元気でね、アキちゃん…』母の妹は、そう言うと私に背を向け、歩いて行こうとした。その背中は本当に寂しそうで…
『おばさんも、頑張ってね!』私はそう言っていた。母の妹は、足を止め、肩を震わせていた。振り向いた母の妹は泣きながら
『…アキちゃん…よかったら、病院からアキちゃんに手紙書いてもよかね?…おばさん、こんなやけん…誰も見舞いとか来てくれんでね…寂しかとよ…返事はいらんけん…』母の妹は、そう言って頭を下げた。
『…いいよ。待って、住所教えるね』私は、バックからメモ紙を探した。
『メモ紙ならおばさん持っとるけん!待って!』母の妹は、嬉しそうに自分のバックから四つ折りにされた紙を取り出した。『ごめんね、この紙しかなかった…ここ…その下の方に書いてくれる?名前と住所と…』
私は、美枝子おばさんから世話してもらった、施設を出たら住む予定のアパートの住所を書いた―――……
間違いない!絶対あの時だ!あの時に、書いたのを使ったんだ!!…でも、なんで私気付かなかったの?『名前も書いて』なんてどう考えたって変じゃない!!私の馬鹿!馬鹿!馬鹿!……
「……大丈夫ですか?松田さん」
「は?」アキは顔を上げた。Tファイナンスの社員、高井が不思議そうにアキを見つめていた。
「なんか、ブツブツ言ってましたよ」
アキは口を手で押さえ、「何でもないです…」と、言った。アキは恥ずかしくなり、うつむいた。
二人は“いつもの喫茶店”でいつものように向かい合って座っていた。
アキの母親の妹夫妻の借金の連帯保証人に、知らないうちにならされていたアキは、毎月5万の支払を余儀なくされた。
きちんと給与引き落としにしていたのだが、2か月に1回程度、高井から連絡が入り、この店でコーヒーをごちそうになっていた。アキには分かっていた。
自分があの夫妻と同じように夜逃げしないか、見張っている事を――――。
アキは、優しく、お人好しだが、責任感は強かった。<逃げる>と言う事は考えもしていないのだが、この高井の行動にはさすがに腹が立っていた。
アキは先週、風邪をひいてしまい、仕事を休んでいた。たまたまその日、高井はアキの会社に電話をした。そして慌ててアキのアパートに来て、寝巻姿のアキを見て、『良かった、いたんですね』と一言。それだけではない。電話を取った女性社員に『本当に風邪ですか?』と訊いていたのだ。ただでさえも蔭で色々言われていたアキはさらに立場が悪くなってしまったのだ。出勤したその日に、総務主任から診断書を提出するように言われたのだ。
ただの風邪なのに―――……。
アキは高井が苦手だった。あまり人を毛嫌いする方ではないのだが、この男の性格には我慢出来なくなる時があった。両親がいない事を、施設出の事を、夜間高校卒業の事を、この男は明らかに馬鹿にしていた。話す言葉の端々にそう感じる節があった。アキは、早く返済を済ませて、高井とかと縁を切りたかった。しかし、まだ1年足らずしか返済していなかった。まだまだ、これから先が長かった。アキは、うんざりしながらコーヒーを飲んだ。
店のカウンターテーブルの奥にある小さなテレビでは、朝から繰り返し同じニュースが流れていた。
[ 森村議員、公職選挙法違反で逮捕―――]
高井はそのニュースに興味があるのか、身を乗り出してテレビを見ていた。
アキはこの手のニュースにはまったく興味が無かったので、そろそろ帰ろうかと、腰を上げた。
「本当に政治家って自分達の事ばっかですよね〜」
いきなり高井が振り向きながら喋り出したので、アキは慌てて腰を下した。
「去年もあったでしょ?どっかの企業の専務が自殺したって。あれもなんか政治家がらみらしいし…やな世の中ですよね」
高井は腕を組み、頷いていた。ポカンとしていたアキを見て、
「あっ…この手のニュース、分からないですよね?すいません…」
と、鼻で笑った。
アキは忙しく動き回っていた。中年のおばさん4人もバタバタしていた。社員食堂にはたった5人しかいないのだ。朝早くから仕込みに入り、昼にはドッドッと社員が押し寄せる。営業マンは時間がバラバラなので、完全に片付くのはいつも夕方の5時過ぎになっていた。
この会社は、アキが夜間高校の担任の先生に紹介してもらったのだ。
この会社の女性社員はアキの事が気に入らないらしく、給湯室での話の種にしていた。男性社員からもからかわれる事もあった。
でも、アキは気にしてはいなかった。切りがないと割り切っていた。もう勤めて3年になるのだ。そんな事を気にしてては、紹介してくれた先生に悪いと思っていたのだ。それに、声を掛けてくれる社員も何人かいたし、一緒に働いているおばさん達が自分を可愛がってくれる事も有難かった。
母親も母親の友人の美枝子も料理上手で、アキはよく料理を教わっていた。施設でも料理担当で、卒業したらそういった仕事に就きたいと考えていた。
だから、仕事内容に関しては何の不満も無かった。
――――借金の返済が終わったら、大好きなお菓子作りの勉強をして…と、夢見ながら、一生懸命に働くアキには、これから自分がどんな人生を歩んでいくか、知る由もなかった……。
――――そろそろ、昼の1時になろうとしていた。
12時から休憩に入っていた社員達は、自分達のオフィスに戻ろうとしていた。
ざわざわとしていた食堂が、静まり返った。
さっきまで、騒いでいた女性社員達が息を呑んだ。
厨房の奥で洗い物をしていたアキは、受付の女性社員に呼ばれた。
「はい?」と顔を出すと、その女性社員は真っ赤な顔をして、慌てた感じで、
「まっ松田さん!お客様よ」と、言った。
「私に?ですか?」顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている女性社員を、アキは不思議そうに見つめ、「誰で……」と、言いかけた。
その女性社員のすぐ後ろに、男の子が立っていた。その男の子は有名私立高校の制服を着ていた。それだけでも、十分目立つのに……
スラッとした長い脚。サラサラの栗色の髪。長い睫。
そして――― 吸い込まれそうなくらい澄んだ瞳…。
その場にいた女性社員全員が完全に見惚れていた。もちろん、アキも…。
「松田アキさんですよね?」
その男の子の言葉に、<みんな>我に返った。
「えっ…はっはい…」アキも真っ赤になっていた。
「僕の事、覚えてない?」
突然の言葉に、アキは困惑した。≪こんな綺麗な子、今まで見た事ないよ!!≫と、心の中で叫んでいた。
こんな綺麗な子………――!!――
アキはいきなり思い出した。
まさか、あの時の!?
男の子はにっこり微笑んで、
「やっと、思い出してくれましたね」と言った。
女性社員達はざわざわと騒ぎ出した。彼女達からすれば、ありえないツーショットなのだ。
「お前たちは!何をサボっとるんだ!!」
女性社員達が休憩から一向に戻ってこないので、部長が食堂まで様子を見にきた。女性社員達は、しぶしぶオフィスへ戻り始めた。
それでも目線はアキとその男の子に向けられていた。