君のために僕は詠う―17―
君のために僕は詠う―17―
「―――海斗はもう眠った?」
ワインレッドのスーツに身を包んだ女は腕を組み、部屋の中央に突っ伏し息絶えた男を見つめながら言った。
「はい。やっと薬が効いたようです」
黒装束の男は答えた。
「…そう…眠らせておかないと何をするか分からないものね」
そう言うと女は、突っ伏し息絶えた男の腹を足で蹴り上げた。男は仰向けに転がり、白目を向いたまま天井を見つめていた。
「…あとは…1人だけね。見付かりそう?」
「はい。明日には“処分”する予定です」
黒装束の男の言葉に、女は微笑んだ。
「―――ところで…ケイの様子どう?」
女は言った。
「はい、少しずつですが“変化”が表れています」
「そう…もうそろそろね。しっかり見張っているのよ」
「畏まりました、奥様」
黒装束の男は深々と頭を下げ、女はそれを確認するように見つめ、部屋を後にした。
―――もうすぐ…もうすぐね、ケイ。もうすぐあなたに会えるわ……
あなたは私だけのモノになるのよ―――
「―――ケイ君?なんか顔色良くないよ…具合悪い?」
アキは心配そうにケイの青白い顔を覗き込んだ。
「…何でもない…」
そう言うとケイはコーヒーを飲み干し、新聞を広げた。アキは気まずい空気を感じながら身支度をし始めた。
「…兄さん…今度いつ帰ってくるんだっけ?」
「金曜よ。今週の金曜。ねぇ!夕飯何がいいかなぁ?さっぱりしたのがいいかなぁ?」
「……アキの作ったモノなら兄さん何でも食べるよ」
ケイの素気ない答えに、アキはうつむいた。
「…じゃぁ、行って来るね…」
アキは居間を出る時、チラッと横目でケイを見た。ケイは無表情で新聞を読んでいた。アキは息苦しさを感じながら玄関へと向かった
玄関のドアの閉まる音がして―――――…
ケイは新聞を半分に破いてゴミ箱に捨てた。
「―――なぁ?本条見なかった?」
中島は大学の講堂にいた学生達に訊いて回った。
「さっきトイレに入るトコ見たけど…なんか真青な顔してたぞ」
「…そう。分かった」
中島は慌ててトイレに向かった。1番奥のトイレから声が漏れてきた。中島はしばらく動けずにいた。
トイレのドアが開き、ケイが青い顔で出て来た。
「おい!本条!具合悪いのか?さっき吐いてなかったか?」
「あ?…あぁ…」ケイはそう言うと水道水で手を洗った。ケイの額には汗が滲んでいた。
「…本条…最近調子悪いみたいだな…大丈夫か?」
中島の言葉にケイは答えなかった。中島は小さくため息を吐いた。
「本条…あのさぁ…」
「…いいよ、もう…」ケイの言葉に中島は驚いた。「何も言うな。…ほっといてくれ…」
ケイはそう言うとその場から立ち去った。
「―――また、心ここにあらずになってる…」
伊藤の言葉にアキは我に返った。
「ごめん…何か言った?」
「何も言ってないよ…」伊藤は苦笑した。
「…勉強はかどってる?」
「うん。試験、来月だからな…」
「…頑張ってね!」
「言われなくても頑張るよ!」
伊藤の言葉にアキは微笑んだ。
「…伊藤君、私もう行くね」
「おっと…もうそんな時間か…待って。俺も一緒に行く」
2人はいつもの喫茶店を出て、バス停まで歩いた。
「――あの子、どう?まだ機嫌悪いのか?」
「…うん…」アキはうつむいた。
そんなアキを見つめながら伊藤は軽く息を吐いた。
「…なぁ、松田。その家にいて疲れないか?」
「え?」
「なんか…随分気を遣ってるみたいだし…まぁ、多少は気も遣うだろうけど…」
アキはしばらく黙っていた。
「…最近…ケイ君様子が変なの…。体調悪いみたい…」
「…そう…」
「ごめんね、伊藤君には関係ないのに…勉強頑張ってね!結果分かったらすぐ教えてよ!」
アキの言葉に伊藤は微笑んだ。
「姉貴達より先に教えてやるよ」
ケイの携帯が鳴った。ケイは重い頭起こし、携帯のボタンを押した。
[ …もしもし?ケイ君か?]
「うん…昌男おじさん…何?」
[ どうした?元気ないな!…今どこにいる?今から事務所に来れるか?]
ケイは部屋の時計を見た。
「今家だよ。おじさん、悪いけど一時仕事、出来ないかも…」
[ …どうした?何かあったのか?]
「いや…体調悪くて…良くなったら連絡するから…」
[ 大丈夫か!?有治君は明日帰って来るんだったな?明日夜行くから…]
「うん…分かった」
ケイは携帯を机の上に置き、ベッドに横になった。
―――アキ…まだかなぁ…まだ帰って来ない…。
ケイの胸に、言いようのない不安が込み上げてきた。
―――アキ、アキ!!
玄関のドアが開いた。
「―――ケイ君!ただいま!」
ケイはベッドから飛び起き、急いで下に下りた。
「おかえり!」
アキはケイの顔を見てギョッとした。
「やだ!ケイ君!すごく顔色悪いわよ!大丈夫?」
「…うん…少し頭痛くて…」
ケイは苦笑した。
「薬飲んだ?」
「…ううん、まだ…それよりお腹空いた…」
ケイの言葉にアキは笑った。
「昨日作ったベーグル食べる?すぐ夕飯作るから、それ食べて夕飯出来るまで寝てた方がいいよ」
ケイは微笑みながら頷いた。
T大学の学生食堂はたくさんの学生達で賑わっていた。中島は1人で昼ご飯を食べていた。
「中島君!!」
中島が振り返ると、そこには麻衣子が立っていた。
「1人でご飯?珍しいね」
「うん。みんな外に食べに行ったんだ。俺、金無いから仲間外れさ!」
そう言いながらカレーパンを頬張る中島の言葉に麻衣子は笑った。
「ねぇ…本条君見なかった?」
「本条?…本条ならさっき帰ったよ」
「え?何で?」
中島はコップの水を半分飲んだ。
「具合悪そうにしてたから帰れって言ったんだ」
「そうだったの…最近、本条君顔色悪かったもんね…大丈夫かなぁ…」
麻衣子は持っていたノートを握りしめた。
「…様子…見に行こうかなぁ…」麻衣子の言葉に中島は驚いた。
「え?本条家に?」
「うん…」麻衣子は恥ずかしそうに言った。中島はしばらく考えた。
「中島君?どうしたの?」
「…麻衣子ちゃん…今日は行かない方がいいかも…多分、かなり具合悪いみたいだから…もう少し落ち着いたらまた2人で行こうよ!な!」
麻衣子は中島の言葉に面食った。
「…私、本条君にノート借りてたの。明日から連休でしょ?連休明けたらレポート提出しないといけないから…本条君、このノート無いと困るんじゃなかと思って…これだけ持って行くのも駄目かなぁ…」
麻衣子は頬を少し赤めながら言った。中島は麻衣子の心情を察したように、微笑んだ。
「……それぐらいなら大丈夫じゃないかな?」
中島の言葉に麻衣子の表情は明るくなった。
「うん!じゃぁ、行ってみるね!ありがとう、中島君!」
麻衣子はそう言うと、食堂を出て行った。中島は大きくため息を吐いて、コップの水を全部飲み干した。
麻衣子は本条家のインターホンを押した。しばらく待ってみたが、応答がない。麻衣子はもう一度インターホンを押した。またしばらく待ってみたが、応答がない。
麻衣子はだんだん不安になってきた。
――――アキさん、まだ帰ってないわよね…まさか…まさか!中で倒れてるんじゃ!!
麻衣子は、何とかして玄関のドアを開けようとした―――玄関のドアはすんなり開いた。
「あら?…鍵かけてないの?」
麻衣子は静かに中に入り、周りを見渡した。
「こんにちは!本条君!」
シンと静まり返った屋敷の玄関で、麻衣子は立ち尽くした。
―――誰もいないのかなぁ…
麻衣子は拍子抜けしてしまい、玄関の上り口に腰を下ろした。
「―――有尾?…おい!有尾!起きろよ!」
ケイは麻衣子の肩をゆすった。麻衣子はびっくりして飛び上った。
「え?え!!本条君!?」
「…何やってんだ?人の家の玄関で…」
麻衣子は顔を真っ赤にして腕時計を見た。まだ15分程しか経っていないと分かり、麻衣子はホッとした。
「ごめんねっ…あの…何度かインターホン押したし、叫んでもみたんだけど…全然応答なくて…」
「あぁ…僕、風呂入ってたから…」ケイは濡れた髪にタオルをあてながら言った。「何か用?」
「あっあのね…」そう言いながら麻衣子は慌ててバックからノートを出した。
「ごめんね、ずっと借りてて…」
「あぁ…別に休み明けでもよかったのに…ありがとう…」ケイはそう言いながら苦笑した。
麻衣子はケイの笑顔を見てホッとした。
「体調どう?まだ顔色悪いみたい…」
「うん…大分マシになった…」
麻衣子はホッとしたように笑った。
ケイは時計に目をやった。
「…もうすぐアキ帰って来るけど、上がって待ってるか?」
麻衣子の目が輝いた。
「うん!お邪魔します!」
麻衣子は居間のソファに座った。ケイは洗面所のドライヤーで髪を乾かし、居間のソファに腰を下ろした。
「ほっ本条君、寝てていいよ!私1人で大丈夫だから…」
「うん…」
麻衣子は緊張で頭がクラクラしていた。いつも中島とアキが一緒にいるこの広い屋敷の居間で、ケイと2人っきり……麻衣子は何を話したらいいか必死に考えていた。
ケイは大きくため息を吐いて、静かに麻衣子を見つめた。麻衣子は顔を赤くしてうつむいた。
「―――似てるんだ…有尾の雰囲気…少しだけ似てるんだ」
「え?…」麻衣子は最初、意味が分からず、言葉を詰まらせた。「…似てるって…誰に?…」
ケイの表情が穏やかになったのを麻衣子は感じた。
「…好きな人…」
ケイはそう言うと両手で顔を覆った。麻衣子はしばらくの間、ケイを見つめた。
「…そう…だから私には優しかったのね?」
「……そんなつもりなかったんだ。…ごめんな」
ケイの言葉に麻衣子は首を横に振った。
「いいの。私が勝手に舞い上がってただけだもん…気にしないで」
麻衣子は笑顔で言った。
「私ね、本条君に一目惚れしたの。だから本条君から優しくされてなくても…好きになってたよ」
麻衣子の言葉にケイは微笑んだ。
「その人…本条君の気持ち、知ってるの?」
「…いや…知らない…と思う」
「その人に気持ち伝えないの?」
ケイはしばらく黙っていた。
「ごめんね、私余計な事聞いてるね…」
麻衣子は慌てて言った。
「いや…いいんだ……」ケイは苦笑いしながら言った。「――――僕は弱い人間なんだ…だから…怖くて言えない…」
「…怖いの?振られる事が怖いの?」
「…そう。振られて今までの関係まで壊れてしまうのが怖くて仕方無いんだ…」
ケイはそう言うと大きくため息を吐いた。
麻衣子はフッと微笑んだ。
「なんか…ちょっと意外だけど、安心しちゃった」
「安心?何が?」
「だって本条君でも怖い事あるんだな〜って思って…」
「なんだよ、それ」
ケイは苦笑した。
「だって本条君は顔も良くて頭も良くてスポーツも何でも出来て…完璧な人間なのに、そんな本条君でも手に負えない事あるんだもん。なんか嬉しい!」
「…性格悪いぞ」
「まっ!失礼ね!」ケイの言葉に麻衣子は口を尖らせた。
「…アキ、遅いな…あっそうだ。今日兄さん帰って来るから夕飯の買い物に時間かけてるかも…」
「そうか…それじゃぁ、私帰ろうかなぁ…」
「悪かったな、引き止めて」
「いいのよ!本条君の大事な話聞けたし…逆に良かった!ありがとう!」
ケイは麻衣子を玄関まで見送ろうと腰を上げた―――ケイはよろめき、倒れそうになった。麻衣子は慌ててケイの手を引いた。
ドスン!!――――麻衣子はケイを助けようとし、逆にケイの身体の上に倒れ込んだ。ケイは頭を軽く振った。
「ほっ本条君!!ごめんなさいっ…」
麻衣子は慌ててケイの身体の上から離れた。
「いや…大丈夫…」
そう言いかけて―――…… ケイは顔色を変え、もの凄い勢いで玄関から外へ飛び出して行った。麻衣子は突然の事に呆気に取られた。
「アキ!アキ!待って!」
ケイは門の所まで足早で行くアキの腕を掴んだ。
「え!?ケイ君!どうしたの!?」
「どうっしたのって…何で逃げるんだ!」
「にっ逃げてないわよ!ほら!麻衣子ちゃんが心配しちゃうでしょ!早く戻って!私、買い忘れた物あるからちょっと行って来るから…」
アキはあせあせしながら言った。
「勘違いすんなよ!有尾はノート返しに来ただけだよ!」
「そんな照れなくていいって!」外に出て来た麻衣子を見てアキは慌てた。「ほら!早く戻りなって!」
ケイは、アキの腕を掴んだ手に力を入れた。
「…ケイ君?痛いんだけど…」
アキの言葉を聞いても、ケイは力を緩めなかった。アキは困惑した。
「…随分、浮かれてるな。…そんなに幸せか?」
「え?…」ケイの言葉にアキは眉をひそめた。
「あの男といると…そんなに幸せか?アキ…」
ケイの言葉に、アキは言葉を失った。
「…本条君!私、もう帰るから!」
麻衣子は慌てて2人に駆け寄った。
「…いっいいのよ、麻衣子ちゃん!ゆっくりしていって!今からお茶入れるから!あっそうだ!今から一緒にクッキー焼こうか?」
「いえ…もう帰ります!私、ノート返しに来ただけですから…」
麻衣子はそう言うと、アキとケイに頭を下げ、慌てて駆けて行った。
アキはしばらく動けないでいた。
「…ケイ君…ごめん…ね…私…」
アキは恐る恐るケイを見て……心臓がドクンと鳴った。
ケイは何も言わず、屋敷に戻り、自分の部屋に上がって行った。外に取り残されたアキの胸には、言いようの無い寂しさが込み上げていた。
麻衣子は必死に走った。走りながら涙が込み上げてきた。
―――どうしよう…どうしようっ…私…大変な事しちゃった…!!
麻衣子は足を止め、息を切らしながら携帯のボタンを押した。
[ …もしも〜し!麻衣子ちゃん?どうした?]
耳元から中島の明るい声が聞こえ、麻衣子は言葉を詰まらせた。
[ …麻衣子ちゃん?…麻衣子ちゃん、今どこ?]
麻衣子は泣きながら自分の居場所を言った。
「――ケイ…。顔色が悪いな。具合でも悪いのか?」
本条の言葉に、ケイは顔を上げた。
「…うん。少しだけ…」
「ケイ君…ご飯、おかわりは?」アキは心配した様子で言った。
「…いや、いい…」
「珍しいな!ケイ君がおかわりしないなんて…こんなに美味いのに!…アキちゃん、おかわりいいかい?」アキは笑顔で永田から茶碗を受け取り、ご飯をよそった。「病院、行ったか?ケイ君」
永田の言葉にケイは首を横に振った。
「連休明けたら、行った方がいいぞ!…まぁ、夏の疲れが出てきたかもしれないな…しかし、そんな顔してたら“彼女”も心配するだろう?」
ケイは永田を睨んだ。永田は驚いた様子で言葉を詰まらせた。
「―――僕、彼女いないよ。勝手に話作んないでよ」
ケイの冷たい雰囲気に、一瞬空気が張り詰めた。
「…ケイ、具合悪いからっておじさんに当たるな」
本条の言葉にケイは眉間にしわを寄せた。ケイは席を立ち、2階へ上がろうとした。
「…ケイ君!お風呂は?」
「…夕方入った。もう寝る…」アキにそう言うとケイは階段を上って行った。
「…随分、ご機嫌斜めだな〜ケイ君は!アキちゃん、もう1杯おかわりいい?」
永田の言葉にアキは苦笑した。
アキは夕飯の後片付けをしていた。本条はしばらくアキの後ろ姿を見つめていた。
「…アキちゃん、いつも悪いね。店の方はどう?」
「あっ…はい、順調ですよ!」アキは食器を食洗機に入れ、スイッチを押した。
「…ケイは、ずっとああなの?」
本条の言葉に、アキは頷いた。
「すいません…私、何にも出来なくて…」
「いや、アキちゃんは悪くないよ。この間帰って来た時はあんな風じゃなかったからね…何かあった?」
アキはうつむき、黙っていた。
「…アキちゃん、君もケイに気を遣ってるのはよく分るよ。だから、何か困った事があったら言ってほしいんだ」
本条の言葉に、アキは小さく頷いた。
「…私…ケイ君が何を考えてるのか全然分からないんです。…別に、何でも分かってたワケじゃないんですけど…今日、ケイ君のガールフレンドがお見舞いに来て…私、邪魔するつもりはなかったんですけど…タイミングが悪かったって言うか…」
「ケイのガールフレンド?」
「はい…有尾さんです。有尾麻衣子ちゃん」
本条は、嫌な予感が的中した――――と感じた。
「アキちゃん、その子と仲良くしてた?」
「…はい。よく中島君って言う男の子と2人で家に遊びに来てたんですよ。2人ともすごく感じ良くて…ケイ君もそんな嫌な顔してなかったから…それに…麻衣子ちゃんとはすごく良い感じみたいで…」
本条は大きくため息を吐いた。
「アキちゃん、前にも言ったけど…ケイの周りにいる女の子には関わってはいけないよ」
食洗機のウーという音が台所に響いた。
アキは言いようのない感情が込み上げ、唇を噛んだ。
「…私、関わってなんかいません。あっちの方から家に来て…ケイ君と麻衣子ちゃんが付き合ってるみたいな事言われて…私は別に何も詮索なんかしてません!みんな勝手に喋って……」
アキはハッとした。本条の驚いた顔を見て、アキは頬を赤めた。
「す…すいません…私…」
「いや…こっちの方こそ悪かったね!アキちゃんを責めてるんじゃないんだよ!本当にごめんね、言い方が悪かったね…」
「…すいません…私、部屋に戻ります…」
アキはそう言うと台所を出て行った。
本条は、また大きくため息を吐いた。
―――何よ!なんでみんな私を責めるの!?私、何も悪い事してないのに……なんで…ケイ君、あんな悲しそうな瞳で私を見るのよ…
「…今日の考え事は、また一段と長いな…」
伊藤は半分諦めたように呟いた。アキはハッとし、慌ててコーヒーを一口飲んだ。
伊藤に呼び出されたアキは、休み時間に店を抜け出した。2人で入った喫茶店には数人の客しかいなかった。
「…ごめんね、いろいろ考える事多くて…」アキは舌を出して笑った。「ねぇ、試験の結果、いつ分るの?」
アキの言葉に伊藤はがっくりと肩を落とした。
「…お前、最悪だな…。1番最初に教えるって言ってただろう?」
「え!?もう分かったの?本当に!?どうだった?」
伊藤はクスクス笑いながらVサインをした。
「え!?合格!?本当に!?」
「なんだよ!信じられないのか?失礼な奴だなぁ〜」
「ごめん!ごめん!でもすごい!!良かったね、伊藤君!!」
「あぁ…本当に良かったよ…これで夢のヨーロッパ支店に配属だ!」
伊藤は両手で顔を覆った。
「はぁ〜やっと終わった!」
アキは、喜びと安堵の表情を浮かべる伊藤を見ながら微笑んだ。
「おめでとう!お祝しないとね!」
「おっ!?松田、祝ってくれるのか?」
「もちろん!なんでも好きなのごちそうするよ!何がいい?」
伊藤は考えるようにして黙った。アキは笑顔で伊藤の言葉を待った。
「……そしたら…」
「うん!何?」
「松田の手料理」
伊藤の言葉にアキは面食った。
「…私の手料理?…あぁ…分かった!そしたら“Jun−Cafe”を貸し切って、みんなで…」
「そうじゃなくて!!」
「へ?」アキは伊藤の声に驚いた。
伊藤は真剣な表情でアキを見つめた。
「―――松田、一緒にヨーロッパ行かないか?」
アキは伊藤の言葉をすぐに理解出来ず、ポカンと口を開けていた。
「…なんでそんな顔するんだよ…意味分かってるのか?」
伊藤は苦笑いしながら言った。
「え?…えっ?」
アキは慌ててしまい、顔を赤くした。
「もう来月の頭には日本を発つんだ。来週いっぱい待つから…返事くれないか?」
「え…でも…そんな突然…」アキは顔を真っ赤にして言った。
「俺、最初から決めてたんだ。試験通ったら松田も連れて行こうって…松田もあっちでお菓子の勉強出来るし…一緒に暮らして、生活が落ち着いたら……」
伊藤は一呼吸おいて、真顔で言った。
「松田と結婚したいと思ってる」
アキは、流れていた時間が止まってしまったような感覚に襲われた。