胡瓜の歌が聞こえる
1 逃れることは叶わぬ現実
「園長先生、すみません、私たちもう、正直言って直也くんのこと、面倒看きれません」
その保育士は、嘆願するように園長に言った。
「またそのこと? そうは言うてもね、あなたたちそれが仕事なんやから。主任のあなたがそんなこと言うてどうするの?」
「いいえ、以前から何度も申し上げておりますように、あの子は、その、普通じゃありません。今日もちょっと姿が見えないと思ったら、二階の手洗い場とトイレの、蛇口という蛇口を全部ひねって廊下にまで水が溢れて、そこらじゅう水浸しで大変なことになってたんです。それももう二回目ですよ、二回目! 私たちもかなり頑張ってはみたんですが、あの子に手を取られると他の園児さんたちに、その、迷惑がかかります。今の少ない人手では到底回りきれません。きっとそのうちほかの保護者の方からクレームが出ます」
そう言うと、主任と呼ばれるその保育士は一枚の報告書を園長に手渡した。
園長は渋々その報告書を手に取ると、ざっと目を通して、そして深いため息をつきながら言った。
「わかりました。おうちの方へ連絡を取ります」
※ ※
「あの、お伝えしておきたい大切なことがございますので、一度、園の方へお越しいただけますか?」
子供が三歳になった春だった。通わせている保育園の園長先生から直々に電話があった。
そして、僕と妻は、連れ立って保育園を訪れた。園長先生の話を聞くために。
いつもならば妻は、自転車に子供を乗せて送り迎えしているが、その日は二人して家から徒歩で保育園に向かった。
帰りは子供を乗せて帰るから、と妻は自転車を押して歩いたが、ちらっと妻の方を見ると、その横顔ににじみ出る不安は隠せないようだった。
「何言われるんやろな」
そのとき突然妻は僕の方を向き、ぽつりと呟いた。
「うん、何やろな……」
この時点では僕はまだそれほど心配はしていなかった。どうせまた保育園で子供がしでかした酷い悪戯か何かを注意されるのだろうと思い込んでいたのだ。
今思えば、妻には園長先生から言われることやこれから先に起こりうることのある程度の予想ができていたに違いない。妻は、それを知っていたのだ。それきり二人とも何もしゃべらず、ただ黙々と早足で歩いた。ただ妻の押す自転車のチェーンが空回りする音だけが二人の耳に届いていた。
十五分ぐらい歩いて僕と妻はその園に到着した。古びた雑居ビルの一階と二階が保育園になっていた。 一階のビルの出入り口の上から二階の窓との間の壁面いっぱいに、かわいいキリンや象やライオンなどの動物の絵が所狭しとペンキで描かれていた。その真ん中付近にライオンを押しのけるように巨大なコアラが鎮座していたが、これはすぐ近くにある天王寺動物園だろうか? ここの子供たちが見学に行き、一生懸命描いたものだろう。
しかしながら、その古びた外観は、見た目からしてお世辞にも綺麗だとは言えない。民間の都市型保育園なんてこんなものだろうと自分を納得させながら、僕は、その中に初めて足を踏み入れた。
元々育児に積極的とは言えない僕は、妻が、急に子供をどこかに預けて働くと言ったときに、何かしら一抹の不安を覚えた。夫は外で働き、妻は家庭で家事と育児に専念してほしいと、心のどこかで思い描いていたのかもしれない。性差別とかそう言った類の古風な観念ではない。僕自身、幼少の頃、父母の仕事が忙しく、ほとんど構ってもらうことができなかったからだと思う。つまり、淋しかったのだろう。そんな家庭に育った僕も、やはり、子供にどのように接すれば良いのかわからなかった。
いや、本音を言えば、子供が怖かった。できるだけ自分は、子供から逃げたかったのかもしれない。だからこの保育園も、妻が一人でどこかから見つけてきた。僕はこの一件があるまで、ほとんどここへは来たことがなかった。
中に入ると、オルガンに合わせて賑やかな子供たちの歌声が聞こえて来た。黄色いエプロン姿のかわいい保母さんが、パタパタとせわしなくスリッパの音を立てて、子供の名前を大きな声で呼びながら駆け回っていた。
あたりに充満している、ベタッとした乳臭い匂いが僕の鼻を衝く。当たり前と言えば当たり前だが、これが育児最前線の現場なのだと思った。
僕は、居心地の悪さと妙な感動を味わいながら、園長室のドアをノックした。
「本日はわざわざお越し下さいまして……」
どこにでもいそうな大阪のおばちゃんと言った感じの園長先生が、人の良い笑顔で僕たち夫婦を出迎えてくれた。
「いえ、こちらこそ、ご連絡いただきまして有難うございます」
「早速ですが」
先ほどまでのにこやかな表情から一転して、園長は、教育者の真剣な眼差しに変った。
「お電話でもお伝えしました、お子さんの直也君のことなのですが」
素直な心でまっすぐに成長してほしいという願いから、僕と妻は、その子に直也と名付けていた。
「これはあくまでも、私たちの主観なのですが、どうも直也君の、その行動に、ある兆候が見られます」
「ある兆候?」妻の顔からは動揺は隠せない。
「ええ、私どもは今まで数多くのお子さんをお預かりしてその行動を見て来ましたが、直也君を含む一部のお子さんには、共通するいくつかの点がございます。おそらくご自宅でもそれはお見受けしておられたのでありませんか?」
園長は、とても回りくどい言い方をした。この残酷な現実を僕たちに伝えなければならないとても辛い立場にあるのだろう。きっと彼女も胸を痛めているに違いなかった。しかしその時の僕たちには、そんな他人の辛い立場を理解する余裕などはなかった。
「園長先生、その、直也は?」
「専門的なことは、私は医者ではありませんのではっきりこうだとは申し上げられませんが、ただ、ある種のその、知的部分に関する障害らしきものをお持ちなのではないかと、担当の保育士より度々報告を受けております」
「知的部分に関する障害、ですか……」
「ええ。一度、正式に検査に行かれたほうがよろしいかと思います。取り敢えず、区役所の健康福祉課に児童相談窓口がありますので、そちらで相談して下さい。わたしが書状を書いておきますので。これ以上詳しいことは私どもでは、ちょっと。こちらに保育士からの報告書をまとめたものがありますのでご参考までに」
そう言うと園長は、僕たちの前にA4のレポート用紙を一枚置いた。
その内容を少し要約して書いてみる。
――――言葉が出ない。意思表示をしない。落ち着きがない。こちらの言うことが聞こえない、もしくは反応しない。いつも両手を頭ぐらいの高さまで上げて、ひらひらと動かす。高いところに登るのが好き。水に対して異常な執着がある。例えば、水道から出る流水に目を近づけてずっと見ている。一つの物に、ある種の強い拘りがあり、それが自分の思い通りにならないとき信じられないほど大きな声で泣き叫び、拒絶行動を取る、等々――――
それはかなり具体的で、妻は今まで直也のそんな行動に思い当たる部分がいくつもあった。そして妻自身、それを少し変だと思うことはあったようだ。そして、もしかしたら、 という一抹の不安を抱くことはあったが、母親として誰もがそうであるように、決してそれを受け入れることはなかった。
しかし、一番の問題は、僕自身がそれまでまったくわからなかったということ。それは仕事にかまけて今まで育児放棄していたことをものの見事に露呈した形となった。
それから僕たちは直也を保育園から引き取り、その足で、そこから歩いて二〇分とかからない区役所の健康福祉課を訪ねることにした。
自転車のチャイルドシートに乗せられた直也は、いつもなら迎えに来ることのない僕の顔を不思議そうに覗き込んで、そして少しだけにっこり笑った。
そのあどけない笑顔からは、今しがた園長先生から聞かされた残酷な事実が微塵も感じられなかった。妻はその笑顔を見て、耐え切れずにうつむいたまま無言で自転車を押していた。
これは僕個人のひがみ根性なのかもしれない。もちろん対応して下さった各々は皆十分に真摯な態度で誠意に溢れていたのだが、園長先生の話しに始まり、それからの僕たちの行動は、まるで行政という名のベルトコンベアーに載せられた部品がどんどん組み立てられて行って最後には『障害者』と言うラベルを貼られて世に送り出されるような、そんな無機質な感じがしていた。
※ ※
次に僕たちが訪れたのは市立総合医療センターの小児神経内科だった。
『自閉的傾向』これがカルテに書かれた検査結果だった。気が付けば、あの園長の電話から、あれよあれよと言う間に、自分たちの子供は、親の心情などお構いなしに、社会的にれっきとした障害児であると認定されていた。まるで夢を見ているようだった。
たとえば、それまで平穏無事な人生を送っていた人がいたとする。ある日、突然の体の不調を訴えて病院を訪ねて、そこで医師は言う。「あなたに残された余命は半年です」と。
僕たち夫婦が受けた宣告も実はこのようなものなのかもしれないと思った。何も無い日常と言うものが、どれほど有難いものであるのか、何も無い日常を送っている人にはわからない。
子供がすべての幸運な未来の鍵だと信じていた妻にとって、この事実は、まさに青天の霹靂だった。本当は思ってはいけないことなのかもしれないけれど、「なぜ、うちの子だけが?」と考えるのは、子を思う親ならば、誰でもが思ってしまうこと。たとえ、千人に一人でも一万人に一人の割合でも関係ない。
僕や妻は、それは遠い世界の話であると思っていたのだ。そう、本やテレビの中の話だと、心のどこかで思っていたのだ。
しかし、僕と妻に突きつけられた問題は、紛れも無く逃れることはできない現実だった。
妻は身に降りかかった事実を悲劇と受け入れ、そこからまたさらに苦悩の日々が始まり、僕は、まるで他人ごとのように、その様子を傍観していた。
検査結果を聞いた帰り道、妻が僕に呟いた。
「いくら話しかけても反応せえへんから、もしかしたら、耳が悪いのかもしれへんって、わたし思っててん。けど違った。なんでこんなことになったんやろ? なんで? なあ、なんで?」
僕は、何も言えなかった。ただ口を固く閉じ、うつむいて歩道の継ぎ目じっと見つめながら黙々と歩いていた。何か言ったところで、そんなもの一時しのぎにしか過ぎず、何の慰めにもならないことがわかっていたからだ。
でも本当は、ごまかしでもウソでもその場しのぎでもいいから、何かやさしい言葉を掛けてやるべきだったと思う。子供がきっと僕たちの未来に幸せを運んで来ると信じていた妻にとって、これほど辛い現実はなかったのだ。
2 こどもの家
それから、僕たち夫婦は再度、区の健康福祉課を訪れ、そちらで紹介された、その地域の福祉施設に、現在入園中の保育園をやめて移ることになった。
『障害者福祉施設』今までの人生で、僕の認識の範疇にはなかった言葉。
いや、言葉は知っていたが、まさかうちの子が通うことになるとは。
「こどもの家」と名付けられたその施設は、小規模な保育園のような形態を取りつつ、障害児を養育する目的の施設ではあるが、健常の子供も入所できる既存にはない不思議な施設だった。
障害の種類、程度もさまざま。ずっと寝たきりで、鼻からチューブを入れている重度の子もいれば、うちの子ように、一瞬もじっとしておらず、ふわふわとあちこち飛び回っている子もいる。
ヘルパーさんにとっては、寝たきりのお子さんより、逆に、ほんの一瞬でも目を離すと何をしでかすかわからないうちの子の方がよほど大変のように見えた。僕は、当初、なぜ健常の子供といっしょなのか、とても疑問だった。
『もしあなたのお子さんが健常児ならば、障害者施設に入所させたいですか?』
差別ではない。意識もしていない。みんな平等だ。そう思っていても、実際はどうだろうか。
たとえば、交差点で信号を待っているときに、取り乱して大きな声を出している知的障害者がいたら、声を掛けて、事情を聞くことのできる人はいったいどれほどいるだろう。百歩譲って、はっきりと、からだのどこかが不自由があることがわかる障害者の方々。たとえば、足の不自由な車椅子の人、目の不自由な人、耳の不自由な人など。このような人には、積極的に手助けできる人はたくさんいるだろう。
昔、学生の頃、国語の授業で、確か山月記の一節だったか、『畏怖倦厭の情』という難しい言葉を聞き、その言葉がいやに頭から離れなかった。その時は随分と小難しい言葉だと思った。その意味を今更ながら具体的に実感している。
知的障害、精神障害などの、目に見えない障害を持っている方は、実際に何をしでかすかわからないという恐怖心が先立ち、誰もが関わりになる事を恐れる。誰しもが持つ防衛本能だと思う。未知なる物への畏れと、嫌悪感だ。正にこの畏怖倦厭の情と言う言葉がしっくり来る。
僕もやはりそうだった。幼い頃から学校や、周りから、障害者等の社会的弱者がいたら、親切にしなさいとそう教えられて来たはずだ。そんなことはわかっている。でもそれは頭で理解しているだけで、本当にその行動に出られるかどうかは、実は頭でなく、心から出る衝動なのだと思う。
「大丈夫?」って声を掛けてあげるのは、理解ではなく、態度だ。つまり、その温かい血の通った心が、その人を揺り動かす。
僕の欠落した心が、ここでもみごとに露呈してしまった。壁を作っていたのは、誰でもない、自分自身だった。今思えば、この事実に気付かせてくれただけでも、とても有り難いと思う。
しかし、当初は、まだ、そんなわが子のことさえ、堅く閉ざした僕の心には届かなかった。理解して認識することと、それを受け入れることはまったく違う。受け入れない限り、ずっと苦しむことになるのに。
こどもの家ではさまざまな季節イベントが催されたが、僕はほとんどそれには参加しなかった。それどころか、恥ずかしながら、スタッフの顔さえ、そこに通う保護者の名前さえまともに知らない。
正直、あそこへは行きたくなかった。できるだけ、触れたくはなかった。すべて妻に押し付けて、自分は、まったく知らぬ顔。
当然ながら保護者連中から僕は酷評を極めていたらしい。直也君のお父さんは、何もしない人だ、非協力的な父親だと。
直也の障害は、ますます手に負えなくなって来ているというのに、僕は逃げてばかりいたものだから、妻の精神状態はいつも、限界ぎりぎりだった。しかし、その施設に通うことで、唯一の救いは、妻にも多くの友達ができたこと。こどもの家は、本当の意味での助け合いの精神で溢れていたからだ。
崖っぷちにいるのはみんな同じだという共通の極限的な意識があるが故に、親たちは皆、強い連帯感で結ばれている。これは誇張でも冗談でもなく、受け入れなければ、死ぬしかない。そこに子供を預けている多くの親たちが、過去にその子供を自らの手に掛けて自分も死ぬことを考えたのは決して一度や二度ではない。みんな本当に真剣だった。それぐらいぎりぎりのところで生きていた。
そして、その状況を受け入れて、そこを乗り越えることができた多くの先輩たちに支えられ、励まされて、ようやく、妻もゆっくりと歩き出そうとしていた。
もちろん妻も例外ではなかった。それまでは、絶望の淵にあり、直也といっしょに死ぬことばかり考えていたのだという。
そんな妻を、情けないことに、僕は知らなかった。いや、うすうす感じてはいたけれど、関わりたくはなかったという方が正しい。
では、僕はいったい何をしていたのかというと、僕は僕なりに模索し、何とか状況を改善しようとしていた。ネットや本でいろいろ障害に関する知識を学ぼうとした。先人たちがやってきた成功例や、学習方法などを調べて試そうとしていた。
――――でも、何か違う。
調べた方法を、実践するのはいつも妻。こうやったらいいとか、あんなことも有効らしいとか、僕はどこまでも他人事のようだった。もちろん、いっしょに生活する上で、必要不可欠な手助けは喜んでした。しかし、それは、必要不可欠だからだ。必要不可欠の手助けをすることと、愛することはまったく別物だ。何かハプニングが起きて、咄嗟に助けが必要ならば、それは知らない赤の他人でもできる。
僕は、他人なのか? どうやったら本当の夫に、どうやったら本当の父になれるのか、その方法すら、その当時はわからないでいた。今ならわかる。ただ何も考えず、心から湧き起こる衝動をそのまま行動に移せば良いだけだと。
でも、このあたりから、ほんの少し、何かが変わり始めていた。父になりたかった。本当の父に、なりたかったのだと思う。僕は、心と頭脳の距離に、少しずつ戸惑いを覚え始めていた。
3 割れたコップ
多動症、パニック、自傷、この頃の直也はますます手に負えなくなって来ていた。
児童相談所で頂いた療育手帳はA判定だった。
まず、何が一番困るかと言うと、意志の疎通がほとんどできないこと。いくら呼びかけても一向に返事をしないので、最初は本当に耳が聞こえないのだと思った。しかしそれは違った。直也には、外界から入ってくる音を選別することができなかった。
直也は、音の大洪水の中で生きていた。外界で聞こえる音を幼い直也の脳が一生懸命そのすべてを認識しようとしていた。普通、人は雑踏の中でもちゃんと会話ができる。それは必要な音源のみを脳が識別して、その他の不必要な音は聞こえないようにする能力の賜物だ。だから人は基本、一対一でしか話ができないようになっている。
また直也は、三才にもなって、言葉の遅滞は著しく、ほとんど言葉にならなかった。はい、いいえ、どころか、首を縦、横に振ることすらできないこともあった。嫌なときは、大声で奇声を上げるか、パニックを起こす。それでもこっちが理解できなければ、自分で自分の頭を叩くなどの自傷行為に及ぶ。何が欲しいのか、何が不快なのか、それさえわかったら。
ここで一番大切なのは、親の根気だった。直也は、いつも僕たちに何かしら発信している。何度も何度も果てしなく繰り返される、このやり取りに根負けするとどうなるか?
育児ノイローゼになり、親が精神を病む。いくら言ってもわかってくれない子供に、親がキレる。状況は、まったく余談を許さなかった。もう悠長なことは言っていられない。
今思えば、なぜもっと早く手を打たなかったのだろう。僕が仕事から帰って来ると、直也はいつもテーブルの下に隠れていた。直也のそんな行動を不思議に思い、妻に聞いてみた。「なぜこの子はいつもここ(テーブルの下)にいるの?」と。
すると、「直也はテーブルの下が好きなんや」と妻は言った。
僕は、それも障害から来る行動なのかと思っていた。でも違った。ある夜、食事をしているときのことだった。直也は、何か気に入らないことがあったのか、何かをわかって欲しかったのか、テーブルの上のコップをひっくり返して、入っていたジュースをそこらへんにぶちまけた。
それまで、まったく言うことを聞かず、ちっともじっとしていなかった直也に対して妻の怒りはその時、頂点に達した。
「もう、いややぁ!」
そのコップを力まかせに、壁に投げ付けた。派手な音と共に、コップは見事に粉々に砕け散った。その様子を見て、泣き叫び、テーブルの下に逃げ込む直也。
それで、僕は、やっと、直也が、なぜいつもテーブルの下にいるのか? を理解した。妻の怒りの矛先から、難を逃れていたのだった。ちょっと考えればすぐに察しが付くことなのに、その頃の僕と来たら、鈍感というのか、いや、やはりまだどこかに無関心があったのだと思う。
直也の前で、ちょっと手を上に挙げるだけで、反射的にビクッとしてからだを丸くする。直也を叩こうとする気持ちなど全く無いのに、直也の異常なその反応を見て、それはこの障害が持つ、防衛本能の強さから来る、自然な反応だと思っていた。
そんなことは、ある訳も無く、それが自然ではなく、妻に条件付けされた反射だと、今この時までわからなかった。
「もう、いやや、こんなんいつまで続くのん? もう死にたい」
妻が泣きながら呟く横で、僕はただ黙々と割れたコップを片付けていた。
さすがに鈍感な僕でもこれにはまいった。何とかしなければ。
4 ママに出会えた日
たまたま調べていたネットの自閉症関連サイトである記事を目にした。それは、感情と言葉が結びつくように根気よく言葉掛けする方法で、たとえば嫌な感情を感じたときに子供に「いやって言ってごらん」と何度も繰り返し言うことで発話が生まれるというものであった。
この方法はあまりに短絡的過ぎていささか疑問ではあったが、藁をも摑む思いだったこの頃の僕も妻も、とりあえず得た知識は何でも試してみることにしていた。
その時、直也は、くり返し同じビデオを飽きることなく見ていた。おかあさんといっしょのビデオだ。これを見せてさえいれば、取りあえずはおとなしい。このテープも、もう二本目だ。一本目は、見すぎて、磨り減って映らなくなってしまった。
凝りもせず、じっと食い入るように画面を見ているとき、後ろから、僕は、直也を羽交い絞めにした。
突然のことに驚き、恐怖し、必死になって逃れようともがくが、僕は、絶対にその手を緩めない。
「直也、嫌って言うてごらん、嫌やって!」妻が言う。
「直也、イヤって言うてみ、イヤって」僕も言う。
それでも直也は、大声で泣き叫ぶだけで言葉にはならない。顔は紅潮し、鼻水、涙、よだれでもうぐちゃぐちゃだ。
「直也、イヤは? イヤって言うてお願い! 言うたら離すから!」すがるような思いで妻が呼び掛ける。
それでも直也は言葉を発しない。鼓膜にビリビリ来る大きな泣き声を上げるばかりだ。
その時、玄関のチャイムが鳴った。妻が慌てて出ると、なんと隣の部屋の住人が、子供の大声に驚いて何事かと心配して訪ねて来たのだった。まるで夫婦でいたいけな子供を虐待しているようだ。それでも僕は直也を離さなかった。ここで手を離せば、さらに深い闇の中に直也を見失ってしまうような気がした。
「もう、やめて、もうええから、もうやめて!」
妻が泣いて僕に懇願した。20分は経っただろうか。最初、ぎゃーとしか聞こえなかった叫び声は次第に、あーに、そしてとうとう「ぃやーぃやぁ、いやーああああああああ」に変わった。
長い長い戦いの末、直也が、初めての意思表示の言葉を覚えた瞬間だった。
僕は、その手を緩めた。そして泣きじゃくる直也の頭を撫でて「つらかったな~えらかったな~」と褒めてやった。妻もぼろぼろ泣いている。きっとすごく嬉しかったに違いない。
その後も何度か、それを繰り返すうちに、はっきりとした言葉で速やかに「イヤ」と言えるようになった。
それからしばらくして、何かがほしいときは、たとえそれが何であるかすぐにわかっても、それを直也にあげる前に、その物を直也の目の前に持って行き、何度も大きな声でゆっくりとその名を言って聞かせた。
そしてある日。
「あぃしゅ」と直也が炊事をしている妻に向かって小さな声で言った。妻は驚き、直也の方を向いて信じられないという表情で言った。
「直也! アイス? アイスがほしいの?」
「あいすあいすあいすあいすぅーーーーーー」泣き声交じりに同じ言葉を何度も繰り返す直也。
妻は、慌てて冷凍庫からアイスクリームを取り出して蓋を開けてスプーンといっしょに直也に渡し、それを受け取った直也は、ピタッと泣き止んでにっこり微笑んだ。それは、初めて直也が、自分の要求をきちんと言葉にして伝え、それが受け容れられた瞬間だった。
その時、直也の世界は大きく変った。それ以降、直也は、目覚しい早さで自分の求める物の名称を次々に覚えていった。それは、直也の作り出した、だだっ広い世界の中を今までたった一人で彷徨っていた彼に、僕たち夫婦がようやく出会えた瞬間でもあった。
そして、ある日のこと。
「直也が、わたしのこと、ママって呼んでくれてん」
妻は、嬉しそうに僕に知らせてくれた。もう彼女は大丈夫。生きていける。直也も大丈夫。いっしょに生きていける。こうして、ようやく、僕たちは、少しずつ前に進み出した。
5 火 傷
それからしばらくたったある平日の午後のことだった。
僕は会社で、電話対応に追われて右往左往していたとき、デスクの隅っこに置いてある携帯が勢いよく振動で震えた。得意先と電話で応対していたのでそれには出ることができず、ちらっとそのディスプレイ表示を見遣ると、『自宅』になっていた。
(おいおい、なんやねん、この忙しいときに。取りあえず、今は出られない)そう思ってしばらく放っておいた。すると、同じ部署の同僚が、血相変えてこっちに受話器を持って来た。
「おい! 奥さんから電話や、うち、非常事態らしいで!」
(またまた、何をやらかしたんや!)僕は舌打ちして、受話器を取った。
「はい、もしもし」
「あんた、大変や! うちが火事になってしもた!」
思い切り動揺して、慌てふためいている妻の様子が感じ取れる。
「火事って、どんな?」
僕はあくまで冷静に対応するが、内心かなりビビッていた。
「直也が、直也が、カーテンにチャッカマンで火をつけてん!」妻の声は叫びにも近い。
直也を含め、自閉症の子供は、水や火といった常に一定の形はなく、その形状がずっと変化する物に対して異常なほど興味を示す傾向がある。水道から出る水などは、放っておいたら、目をギリギリまで近付けて、飽きることなくずっと見ている。
僕は、いつかきっとこんな日が来るのではないかと思っていた。取る物も取りあえず、後のことは同僚に任してうちへと急いだ。
慌てて家に戻ってみると、うちの前に数台の消防車と救急車が赤色灯を回して停まっていた。けっこう野次馬が集まって来ている。これはただごとではない感がした。
「あー帰って来はった!旦那さん帰って来はったわ!」
僕の顔を見るや近所の顔見知りのおばさんが駆け寄って来た。
※ ※
事の次第は次のとおりだった。
その日、こどもの家から帰って来て、妻は、キッチンで夕食の支度をしていた。その間、直也は、ずっといつものおかあさんといっしょのビデオを見ていた。
しかし、いつの間にか、置いてあったカチッと押すタイプのライターを持ち出し、寝室のカーテンに自分で火を付けたらしい。
化繊のカーテンは、あっという間に火が付いて、天井まで火の手は上った。そして、天井の火災センサーが察知して、警報が鳴り響き、慌てて妻が寝室に入ったとき、天井まで焦がす勢いのカーテンの炎を、直也は、ただぼんやりと見つめていた。
妻は、ぼーっと火を見つめる直也を押しのけて、咄嗟に燃え上がるカーテンを、自分の素手で掴んで無我夢中で叩いて火を消そうとした。おかげで、直也には怪我はなく、火災はボヤで済んだ。しかし、妻のその手は、全治一ヶ月のひどい火傷を負ってしまった。
燃えさかるカーテンを、素手で掴んで叩いたのだから当然だ。しかし、手の火傷よりも、妻の心はもっと傷ついていた。
警報を聞きつけて、助けに来てくれた近所の人の前に大声で直也を怒鳴りつける妻の姿があった。直也は恐がって逃げ惑い、それでも妻の怒りは収まらず、近所の人が、追いかける妻をたしなめた。
激昂する妻の右手は火傷による酷い水ぶくれができていたが、今はまったくその痛みを感じていないようだった。どかどかと部屋に入って来た、銀色の宇宙服のような防火服に身を固めた消防署員の姿に直也はさらに驚き、パニック状態になった。
僕は、その後、救急車で病院に搬送される妻を後ろ髪引かれる思いで見送り、現場に残って、泣いてパニック状態になっていた直也を抱き上げて「もう大丈夫、もう大丈夫」と頭を撫でてやった。
よほど恐かったのだろう。直也は僕にぎゅっとしがみついて離れない。救助に来てくれた近所の方々に、騒ぎを起こしたお詫びとお礼を言って、その場は丁重に引き取ってもらった。事情聴取は、当事者の妻が病院から帰って来てからということになった。
焦げた酷い臭いのする部屋で、僕は、直也を抱いたままベッドに座り込んだ。ふと上を見上げると、天井まで、真っ黒くススが付いていた。
一人この場所で炎と格闘して勝利した妻のことを考えると「おまえ、何にもしてないやないか!」とどこかで自分をなじる声が聞こえたような気がした。だが、その罪悪感よりも、僕はもっと疲れていた。そのときの僕には、救急車で病院に搬送されて行った妻のことなどとても考える余裕はなかった。
泣きじゃくる小さな直也をしっかりその腕に抱いて、そのやさしい温もりを感じながら、しばらく僕は、ぼんやりと燃えた部屋を眺めていた。
そのときだった。しがみついている直也が、その小さな手を伸ばして一生懸命僕の頬を触ろうとしながら何か言葉を発していた。涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔で。
しきりに「ぱぁ、ぱぁ」と、僕を、呼んでいた。
6 胡瓜の歌が聞こえる
妻の右手が使えないので、家事は当分僕の仕事となった。それは嫌でもないし、不満でもない。当然のことだと受け止めた。役割分担?本当はそんな冷たい言葉で片付けたくはない。
妻は右手に痛々しい包帯を巻きながら、それでも直也を自転車で送り迎えしてくれた。
僕はとても妻に感謝していたが、本当は心の中では、こどもの家の人たちに会わずに済んで助かったと思っていた。
妻の火傷は、こどもの家ではみんなから、名誉の負傷だと励まされた。
ここの人たちは、なぜこんなにもやさしいのだろう。何もかもすべてわかっている。その上で、きつい事も平気で言う。障害者であるという特別意識などまったくないし、また特別扱いもしない。
すべてが当たり前で、普通のことと受け入れている。ここに初めてやって来た人はほとんどが、『自分だけが不幸』だと、目の前の現実から逃げることばかり考えている。妻を病院に車で迎えに行った帰りに、妻は僕に言った。その時のことを僕は今でも強烈に覚えている。この話の結びに彼女の言葉を書きたいと思う。
※ ※
「なんで直也はうちなんかに生まれたんか? なんで直也は自閉症なのか? これから先、直也は、わたしらは、どうなってしまうのか? わたしな、初めはこんなことばっかり考えててな、もう何もかも嫌になってた。死にたいって毎日考えてた。けど、こどもの家で会った人みんな、わたしとおんなじような境遇なのにね、みんなみんな明るいねん。まるでその状況を楽しんでるように思えるぐらいにね。それでなんで? って聞いたら、こう言わはったんよ。
この世の中には絶対、障害を持った人が生まれて来る。それは人間だけやなくて動物もみんなそうなんやって。もしわたしのところに生まれて来なくても、ほかの誰かのうちに絶対生まれてるねん。ということは、わたしらは、その子らに選ばれたんや。うちに生まれたら、絶対ちゃんと育ててもらえるって。
知ってる? あの子らはな、この世で一番神様に近い子らやねん。せやからあの子がうちに生まれるっていうことは、ものすごい幸運なことやねんて。それ聞いて、わたし、心のモヤモヤしていたのが、一気に、す~って消えたような気がしたんや。もう逃げんとこ、うちに来てくれてほんとにありがとう。生まれて来てくれてほんとにありがとうって心から思うことにしてん」
これが、『乗り越えた人』なのかもしれないと僕は思った。あんなに苦しんでいた妻は、気が付けば、僕よりもずっと先に進んでいた。今度は僕の番だと思った。
あの火事の後、しっかり抱いた直也の温もりは、今もしっかりこの腕に残っている。
どんなことがあっても、僕の命に代えてもこの温もりを守ってみせる。ああ、この強い思いこそが、人を愛するということなのだろう。
なんだ、こんなことだったのか……こんなにも簡単なことだったのか。自分は、以前より少しだけ、父になることができたような気がした。それを教えてくれたのは誰でもない直也と妻だった。
「あんた、なんか嬉しそうやな」
妻がハンドルを握る僕の横顔を見ながら言った。
「そうか?」
「うん。なんかええことでもあったん?」
「うん。あ、いや、これからあるんや。たくさんな」
前方の信号が赤で止まり、少し静かになった車内に、へんてこりんな、でも、とてもかわいいメロディが聞こえて来た。
きゅうりはとんとんとん、きゃべつはきゃっきゃっきゃっ
後ろのチャイルドシートの直也だった。
「直也、キャベツは、きゃきゃきゃじゃなくて、ザクザクザクやろ?」妻がにっこり微笑みながら直也に言うと、直也はきょとんと妻の方を見て、一度首を傾げて、そして再び歌い出した。
きゅうりはとんとんとん、きゃべつはざざざっ
「歌……歌えるようになったんや……」
「そうやで、知らんかったん? 最近よく歌ってるよ。こどもの家で習っているんや」
「そうか……」
そのとき、フロントガラスから見える景色が、涙で滲んで見えた。
※ ※
あれからあっという間に15年が経ち、支援学校の卒業式の日、皆が見守る中で、18歳になった直也は僕にこう言った。
「とうさん、僕に、いのちを与えてくれて、ありがとう。感謝しています」
胡瓜の歌が聞こえる 完